2018-01-17 / 今日の2400字「孫と先生」

母方の祖母が永眠した。享年90。ずっと施設に入っていて、親戚が面倒を看ており、東京の母も定期的に様子を見に行っていた。最期は安らかに呼吸が止まり、大往生だったという。海を越えて危篤の報を聞くたびにヒヤヒヤしていたのだが、延命装置は不要だという強い強い意志は、ずっと以前から家族みんなが聞いていたことだ。「その時が来たのだ」というふうに受け止めた。本人の気持ちはもう確かめようがないのだし、看取った家族の側が「大往生」だと言うのなら、それはもう、そうなのだと思う。

夫にあたる、母方の祖父は彼女が在宅で看取った。大学の長期休暇で暇にしていた私もその付き添いをして、葬儀の後始末まで関わった。意思疎通もままならず、普段ポーカーフェイスだったのが見たこともないほど苦痛に顔を歪める、痛ましい姿も晒していたが、それでもやっぱり、看取った側、遺された側からすれば、最後の最期は穏やかな畳の上の「大往生」だった。話を聞く限り、同じようなことが祖母にも起きたのだろう。夫について「あれは理想的な亡(の)うなり方をしたんや」と言った、彼女の理想も同じように叶ったのだろう。

日本帰国予定に間に合ってほしいと祈っていたが、ほんの数日違いで早くに亡くなって、ぱたぱたと家族葬が済んでしまった。母方の祖父母は共働きの教員カップルで、地元一の進学校で教えていた祖父が亡くなったときは、地元の名士and/or歴代の教え子がぞろぞろ参列する大規模な葬儀が執り行われた。高校時代に祖父の教え子だった人の大半が、中学時代には喪主である祖母の教え子でもあった、というような関係性で、思い出話に花が咲き、挨拶の列はずっと途切れなかった。あれから20年近く経ち、祖母の葬儀は身内だけでごくごく小さく済ませたそうで、孫の私が花を届けることさえ遠慮するようにと言われた。その非対称性に物申したい気持ちもあるが、まぁ、祖父らしいし祖母らしいし田舎らしい。

数年前に結婚相手を見せに行ったのが、結果的に最後の別れとなったか。直接対面してのち、昔のアルバムなどめくった夫は、祖母の姿を見て「び、美人……!!!」と絶句していた。そう、若き日の祖母は容姿端麗、頭脳明晰、女学校出の家庭科教師で、書家でもあり、茶道も華道もピアノも堪能、辺鄙な田舎では文字通りマドンナ的存在、嫁入りしたときは祖父の兄弟含めて多くの妙齢男子が失恋に涙を呑んだ……そうなのだが、孫である私の印象とはずいぶん違う。ばりばりの関西人で、生粋のボケであり切れ味鋭いツッコミであり、親戚一同が集まると祖母の自虐ネタでひとしきり爆笑が起きた後に必ず「黙っていれば楚々とした美人に見えるのに、中身がね……」という話になる、いわゆる「残念な美人」だ。「……だが、そのギャップがいい!(萌)」という信奉者もいて、夫のオットー氏(仮名)も、すっかりそんな様子だった。

教員だから子供の指導は上手い。サボる奴とデキない奴には、情け容赦なく冷酷である。幼い頃、私は祖父から国語や地理や歴史や生物の手ほどきを受け、そちらは得意分野だったのでずいぶん褒められて可愛がられた。一方、祖母が担当するのは書道であり裁縫や料理であり、ピアノであり茶の湯である。全部苦手。一通り教わって所作を真似するのだが、普段ニコニコと初孫を甘やかし面白い冗談ばかり飛ばしている祖母が、こと専門分野となると朱筆などを手にギロリと目を光らせ、「……こら、あかんな」と一瞥で匙を投げ、「あんた、真面目にやり」と呆れ声を出すのが、その豹変ぶりが、私は大層怖かったものだ。大好きなミュージカル女優の新妻聖子様が、あの美貌にあの娯楽性を兼ね備えた上で、歌が上手いですねと褒められたとき「死ぬ気で歌えば一音だって外すはずがないですよねー!」とケタケタ笑うお姿などを見ると、ふと祖母(顔だけなら知念里奈似)を思い出したりする。

傍目には夫唱婦随の旧時代的なカップルで、しかし我々家族の目に映る姿は、ずいぶん進歩的で対等な男女だった。いかにも偏屈そうで亭主関白的に振る舞う祖父の横で、ヘラヘラ笑って王様に対する道化のように対外的な嫁プレイを楽しんでいるのも、完璧主義者ゆえの見事な演技か何かのように見えていた。祖母世代の超人的なバイタリティ、世界大戦を生き延びて教養を資産とし田舎の旧弊な家父長制の下では完璧にハイスコアを叩き出す良妻賢母業をこなしつつ職業婦人としてもサバイヴしてきた、あの「学のある女、なめんなよ」という音もなく静かに紅い熾火のような迫力は、なんとも形容しがたいし、フェミニズムという横文字の言葉では表現し尽くせない。さして努力せずともそこそこに恵まれた時代をスイスイ生きる孫の私は、我が身に照らして「……あかんな」と思うばかりであった。

子供の頃から母に倣って「みえこさん」と名前で呼んでいて、「おばあちゃん」という、どこか人をスポイルさせる響きを持った甘ったるい呼称とは、うまく結びつかない。私にとって母方の祖父母はずっと、一番身近なところにいる「先生」だった。すぐ到達できないのは仕方ないけど一応あのくらい高めに目標設定しておきなさいね、という位置にいる存在。日本帰国の直前、家族葬の写真が送られてきて、祖父の葬式のときにはまだ一人もいなかった小さな曾孫たちがうじゃうじゃうじゃうじゃ、画面狭しと暴れまくっていた。彼らには「ひいおばあちゃん」の記憶はほとんどないだろう。現世でのお別れをした後にでも、語り継ぐべきことはまだまだたくさんある。

さてこれで私にとって父方と母方の祖父母がすべていなくなったことになる。彼らにとっての長男長女である我が両親は、「次は自分たちの番だな」と話していた。その次は、私だ。そういえば、マイナビニュース連載「女の節目」にも、ちょっと祖母のことを書いた。ゆっくりと、順番に。
https://news.mynavi.jp/article/onnanofushime-27/