佐藤康光さんの文体が好きなんだ。

 私は、たまに一般誌などに書かれる佐藤康光さんのエッセイの文章がすごく好きなのだ。と言って回っていたら、『将棋世界』バックナンバーの「我が将棋感覚は可笑しいのか?」と題した自戦記を(もちろん冒頭だけ)拝読する機会に恵まれた。この単発記事から同誌で自戦記の連載が始まり、その連載が一冊にまとまったものが『注釈 康光戦記』。

注釈 康光戦記 (最強将棋21)

注釈 康光戦記 (最強将棋21)

 もちろん私がすべて理解しているなどとは思わないように。そんなはずがありえない。囲碁将棋の本を棋譜のところスッ飛ばして読むのは保坂和志『羽生』の頃から大得意なので(そんなもの得意って言わねえ!)、例によってざざーっと読んでは佐藤さんの文体の味をかみしめた。

 そう、文体なんですよ。一気に読み、私が好きなのは佐藤さんがデアル調で書くときのテンポ、とくに「Aである。Bである。しまった、なんとこれではCではないか。」といった<短・短・長>のリズムによる言い回しが好きなんだなー、などと分析しました(少しでも指し手を分析しろ)。ところで、渡辺明五段についての言及。

(本文)
「若いときは一カ月単位で急激に強くなれる時期がある。★1」

(脚注)
★1 今回の見出しは佐藤さん自身がつけたんですよね。
佐藤 変えますか?
――このままでいいと思います。ご自身が一番伸びた時期は?
佐藤 やはり10代です。(後略)

 朝のアイスミロオレ噴きました。ご自分でつけたなら変えなくていいでしょうよ! なんだろう。これは談話部分だから「編集の妙」なのかもしれないけれど。そもそも冒頭の前書きからして「連載中は私の記事を誰も読んでてくれなかった」といった恨み言から始まる……。

 この独特の文章センスを単に「面白い」と言ったら失礼にあたるだろうか。ひとつ思ったのは「ブログ世代」の棋士には居ない文体かな? と。さまざまな若手棋士の文章をネットでたくさん目に留めるようになった。厳然とある<世代の線引き>のアチラ側で書かれた感じがあるから、逆にこの文体に惹かれるのかもしれないな、と。私の場合「中身」を読んでないので印象語りですけどね。

いまさらハチクロ再読(2)異次元モノローグは、やおいである。

 「『ハチミツとクローバー』大好き、物語と並存してるのに異次元で進むあのモノローグがいいよね〜」といった発言をしている一般読者に出会うと「おっ」と思う。このひと素質あるな、って。

 そうした「なんかの素質」をはかるリトマス試験紙に、私は長らく『アーシアン』を筆頭とする高河ゆん作品を使ってきたわけだが、明らかに素質がある人にさえ「長髪の男だらけで同性愛とかキモイ」と突き返される場合もあって悲しかった。男女の恋愛物である『ハチクロ』でなら、晴れて真の素質が見抜けるわけである。多分。

 せつなくて、苦しくて、届かなくて、語尾の前で消えてしまう、でも溢れだしてきて止まらないから拙い言葉で「好き」を語るよ、という『ハチクロ』的モノローグ読んでると、じつに……何というか……「そうそうそう、こういう文体の女性向けパロディ同人誌、大好きですよ私も!」と表明したくなる。言葉足らずで上手に説明できない……誰か、女性向けパロディ同人(シリアス・悲恋系)の雰囲気を理路整然と語れる者は居ないか。

 といった調子でtwitter上で延々と「『ハチクロ』は“やおい”の香りがする」発言をしていたら(「やおい」の定義は割愛。よしながふみの対談集でも読んでください)、「犬の本棚」さんが言及してくださいました!

異次元モノローグは人称の違い、やおいは一人称の奪い合い

(略)マンガとは三人称の媒体である、としばしば言われます。例えば、マンガというのは全てのキャラクターが同一に描かれます。主人公も脇役も、必ず同じようにコマの中に描かれます。仮に一人称であるのならば、主人公は視点人物なのですから、コマには描かれないはずなのです。

 『ハチミツとクローバー』の上の画像で示したような技法は、マンガという三人称の表現の中に、一人称の視点を取り入れたものだと考えることができます。背景と台詞は三人称として描き、モノローグは個々のキャラクターの地の文として機能させているのです。地の文は視点人物の心情を表現する役割を果たしますが、それは台詞や背景に示されているような時間や状況に左右されません。同じ画面に描かれていながら、別々の層として読者に内容を訴えかけているのです。

異次元のモノローグは人称の違い
http://dogsbookshelf.blog25.fc2.com/blog-entry-171.html

 氏が私に説明してくださったのは、「とても当たり前のこと」。でも、だからこそ非常に重要なことです。「人称」という切り口で、初めていろいろ気づきました。「三人称」のメディアであるはずの漫画において、登場人物による「一人称(=モノローグ)」の「奪い合い」が生じている――。パロディ同人出身作家の作品である『アーシアン』や『ハチクロ』の世界で醸成される、あの甘酸っぱさの正体は、そんなふうに捉えることができるのではないでしょうか?

 昔ながらの少年漫画における一人称モノローグは、単なる「独り言」が多い。その場(物語と同じ瞬間)でたまたま声に出さなかったことが、フキダシではなく隣の四角い枠に記述されているだけ、という例が多いのです。ごっちゃに読んでも支障はない。一方で、恋愛を主題に描く少女漫画のジャンルでは、主人公の「心情そのもの」が、これでもかこれでもかと率先してモノローグに盛り込まれていく。フキダシとモノローグ、両方きちんと個別に深く読み込まなくては、主人公の行動の真意すら理解できません。だって、恋する女の子にとっては「言葉にならないこと」のほうが重要なんだもんッ!

 そして……。一般的な恋愛物の少女漫画ではせいぜい主人公カップルの男女くらいしか参戦しない、このモノローグの乱取り合戦に、『アーシアン』や『ハチクロ』の世界では、主役から脇役まで、全員が参加してしまうのです。誰もが、実際に口に出して語る言葉以上のことを、モノローグしたがっている。主役も脇役も敵役も、全員が虎視耽耽と、一人称モノローグで語りだすチャンスを狙っている、この感じこそが、「やおいっぽさ」の正体ということなのだと思います。ユリイカ!

少年漫画は、やおいっぽくない。だからパロディが盛り上がる。

 表題のとおり。青少年漫画のパロディやおい同人誌とは、言ってみれば「原作漫画の本編では語られないモノローグを、勝手に付与する」行為です。

 『聖闘士星矢』本編における氷河とカミュのモノローグなんて「男泣きに咽んで言葉にならない」「死にかけで気力がなくて言葉に出せない」程度の内容しか語られていません。実際に発語したわけじゃないから便宜上フキダシに入れてない、ただそれだけのことです。でも、私はそこに、その2人の向こう側に、無限の想いを見る。永久凍土を溶かすほどの熱い愛の日々が見えるのよ……! 車田正美は、腐女子受けなんて微塵も狙ってません。狙って描けるとも思えません(笑)。原作本編では、ただ師弟の対面したコマが描かれてるだけ。でも、腐女子の脳内では勝手に捏造したモノローグ・ポエムが止まりません。脳から出てくるそうしたなんかのホトバシリを原稿用紙に落とし込んだものが、氷河×カミュのやおい同人誌となるわけです。

(すなわち、究極的に真実の「やおい」においては肛門性交など所詮は飾りにすぎぬのです。むしろ私は、あまりにこうした「魂で語り合う、モノローグのやおい」が好きすぎて、最近はセックス描写自体が前面に押し出された新興ボーイズラブの類は、湿度が高すぎて息苦しくて、なかなか読みこなせません……。おわかりか、この気持ち。)

 だから私は、「本来ならばモノローグを物するはずでない登場人物たちまでもが、こぞってモノローグを語りだす」、そんな商業漫画を見ると「ああ、やおい同人誌っぽいなぁ、いいなぁ」と感じるのでしょう。『アーシアン』がやおいっぽいのは、長髪美形キャラばかりで顔の見分けがつかないからでも、異性愛が変に見えるくらい同性愛が蔓延しているからでも、ちはやと影艶が結ばれたからでも、なかったのです。そんな上辺のことじゃない。ちはやでも影艶でもないくせに突然ミカエル様がモノローグを語りだす、だがそれがいい! という価値観がまかりとおるからこそ「やおい」なのですね、うん。『ハチクロ』も同様です。なんで間男の野宮にまでモノローグ権があるんだ、って話ですよ。うん。だがそれがいい。

アーシアン (1) (ウィングス・コミックス)

アーシアン (1) (ウィングス・コミックス)

でも『ネウロ』とか原作が最大手にやおいっぽくてけしからん。

 ところで「犬の本棚」さんのご指摘で最初に思い出したのは『魔人探偵脳噛ネウロ』でした。少年漫画なのに、弥子やあかねちゃんはもちろん、春川から笛吹からサイからアイまで「魔人以外」のレギュラー登場人物はほとんどがモノローグ権を行使済です。しかもその多くが『星矢』のような単なる言外の呟きではなく、物語進行に影響を及ぼす、語り部系モノローグなのです。そのため、(あんなストーリーなのに)「モノローグの奪い合い」系恋愛漫画によく似た読後感を発生させているように感じます。

 まず前提として、あの漫画の面白さは「故・塩沢兼人が主演する乙女ゲーのコミカライズ」感覚なのです。*1 少なくとも私にとっては、弥子ちゃんの酒池肉林ハーレム状態を楽しむのが醍醐味で物語は二の次。「女性向け18禁なのに総受けで陵辱されてるのが女の子」などという同人誌もたくさん出ています。けしからんですね(嬉)! 少年誌で毎号イチャイチャSMプレイしてる原作こそが最大手だけどね!

 そして、主人公である女子高生探偵の一人称は地の文の役割を担い、かつ「犬の本棚」さんがお書きの「その人物の知りえない情報でさえ持っているかのような言動」を感じさせることがあります。彼女が直接には目撃していない犯人側の密室のやりとりに「これが私たちの出会った新しい恐怖の始まりだった」云々、なんて独白が平然と絡んだりする。つまり、基本の語り部は「現在(事件発生前)の弥子」ではなく「近未来(事件解決後)の弥子」、すべてのお話は終わった視点から描かれ、いわば「全編が壮大な過去語り」なんですね。少女漫画でいうと『NANA』のような、「あらかじめ失われた物語」。少年漫画の過去エピソードが大好物の腐女子には、たまりません。いつか地上からいなくなってしまう御主人様と思えばこそ、SMプレイも熱を帯びようというものです。

 というわけで、『ネウロ』が確固たる女性人気を得ている理由の一つには、(魔人様のドSっぷりに加えて)少女漫画的技法で多元的に差し挟まれる心情説明モノローグもあるのかな、などと思いました。一部の腐った女性ファンの間で囁かれる「松井優征先生は(西義之先生に負けず劣らず)乙女!」というフレーズも、もしかすると効果的な少女漫画風モノローグのためかもしれません。

魔人探偵脳噛ネウロ 16 (ジャンプコミックス)

魔人探偵脳噛ネウロ 16 (ジャンプコミックス)

やおいモノローグは、事情説明をスッ飛ばす

 ここまできたらもう一息、同人誌ならではの表現についても語っておきたいと思うのですが、時間切れ。

 パロディ同人誌におけるモノローグは「事情説明をワープする」機能も果たしている、という話です。同人誌では、書き手と読み手の間での共通了解事項=「原作での設定」を説明する必要がない。だから「あの時のおまえの顔が」とか「あの言葉が」とか「あんな奴のことは忘れて」といった“指示代名詞モノローグ”を使えば、原作漫画のもつプロの物語力を借りて、本歌取りによってアマチュアでも泣きの情景がサクサク進められるのです。モノローグを制す者が同人誌を制す。(裏腹に、この手法に慣れきった人が商業誌でオリジナルを描くと「説明がひとりよがり」などと批判されることも) いろいろ例を挙げて紹介したいなぁ。

 もちろん、パロディ同人出身でない商業作家にもモノローグの達人はいます。川原由美子『あなたに逢いたい』のように、「短い言葉で複雑に絡み合う主人公モノローグを、最低三往復は読まないと真意が汲めない」といった難度の高い漫画も好きです。中学生当時、月刊連載を読んで「いやー、今月も見事にちんぷんかんぷんだったなぁー」と苦笑してました。もちろん単行本では号泣です。後年、再ブレイクした『観用少女』は非常に読みやすい短編連作スタイルでしたけどね。

 大人になって読んで衝撃だったのは、内田善美『星くず色の船』の「モノローグ途中で人称が変わる」現象! 物語の主人公は女の子なのに、意中の男の子が見た白昼夢の中にその女の子が出てきて、男の子に向かって喋っている。なんとも倒錯的で、一般少女漫画ではまずお目にかかれないモノローグです。あれを読んだとき、内田善美に男性ファンが多いのがちょっと頷ける気がしました。……と、まだまだ語りたいことは山ほどありますが、また次の機会に。

あなたに逢いたい 1 (あすかコミックス)

あなたに逢いたい 1 (あすかコミックス)

*1:私にとって子安はあくまで代役です・笑。

いまさらハチクロ再読(1)天才と凡才と大人と子供

 いまさら『ハチミツとクローバー』を読み返した。自分で買わずに立ち読みですませていたので、目先の恋模様の進展や余白のギャグにばかり目が行き、「あぁ面白かった」で感想を終えていたのだ。今回再読して、テキトーなようで隙のない人物配置に驚いた。雑誌の移動や連載の延長があって、作者自身、新キャラ投入に細心の注意を払った結果なのだろうが……。連載長期化に合わせ、無理なく過不足なく構成員が増えていく。あらかじめ人物相関図が頭に入った状態で再読しても、全キャラの登場の順番に必然性が見える。これはすごいことだと思う。世の中的には「いまさら何を」という話だろうが、自分のために書きとめておきたい。

ハチミツとクローバー 10巻セット (クイーンズコミックス)

ハチミツとクローバー 10巻セット (クイーンズコミックス)

森田☆忍、という天才のリアルさ

 たとえば、森田とはぐ。はぐには保護者がいて友達がたくさんいて「でも創作中は一人で戦う」「他人の人生を奪ってでも戦う」。一方で、いつも人の輪の中心にいる森田には「友達がいないことになっている」けど「好きなものしか作らないし、飽きたらやめる」……この(しつこく繰り返される)設定は、二者の対比のために後付されたものだとしても、大変秀逸だ。

 そして「森田っているよねぇー」と思った。あれは漫画の中だけのお話、はぐちゃんこそがリアルな天才像だ、……などとは、私はあんまり思わない。私の知る「こいつ天才かもしれない」という人物は、よくよく考えると(はぐっぽいというより)「森田っぽい」人が多い。持たざる者たちから「才能の無駄遣いだ!」と怒られても、全然平気。何かのためにその力を使おうという気がまったくないけれど、大事な人から求められたら富や名声はもちろん、才能=作品自体も投げ捨てることができる。凡人の目にはそれが、ちょっと、怖く映る。

 はぐちゃんタイプの天才が「これが私だ(私にはこれしかない)」と世界のどこかに署名を刻むことを熱望し、そのために内から外からのプレッシャーと戦い続けるのとちょうど正反対に、森田タイプの天才は、今日も地球のどこかで「誰が作ったかわからない」小鳥のブローチを彫っていると思う。そして、ポケットに自分で稼いだ札束が入っているのに、人のおやつを同じスプーンから食べたがる。いるいる、こういう奴。

 私など、そこそこ器用で、実家住まいで家業を継ぐ道だって用意されているあゆが、周囲の励ましに育てられながら、凡才ゆえの迷いも天才ほどの苦悩もなく、陶芸の道でこつこつ飯を食ってく感じが、穏やかで、じつに羨ましいなと思った。一方、故郷を出て仕送りを数えながら逃げ道を失うと、迷える竹本まっしぐら。その代わり彼には、あゆには絶対持ちえないハングリー精神と粘り腰が備わっている。竹本は、自分を追いつめることでどんどん自分の器を大きくしてゆく。

 万能型(適職探しが重要)の無難な成功例が、あゆ。途上にいる化物が竹本。努力型(職を問わない出世魚)のゴールは匠の野宮で、追いかけてるのが真山。少年漫画や特撮戦隊物みたいにスペックが一覧表になっているわけでも色分けされているわけでもないのに、まるでそういう漫画みたいに性格設定が見事なのだ。

「頑張れ山崎」の絶妙さ

 そしてまた、4〜6巻の藤原デザイン編(?)には舌を巻いた。何よりも、真山←山田←野宮、の図式がキチッと成立するまで、美和子さん←山崎の片想いには言及されてなかった点に、だ! 唸った。初読の印象ではもっと前段階から山崎が美和子さんに恋してた気がしていたけれど。バレ時が、じつに絶妙なのだ。

 一気に登場した藤原デザインの面々(美和子さん、山崎、野宮、リーダー、双子の社長etc)は、ともすれば読者にゴチャゴチャした印象を与える。何も考えずに見開き大ゴマで藤原デザインを紹介すると、「ああ、なんかまたOSRな連中がダンゴになって一挙登場したな、はいはい新展開ですか……名前憶えるのメンドクサ」という某『BLEACH』みたいな、大変OSRなシラケかたを生んでしまう。しかし『ハチクロ』では、美大生組に対する社会人組が、気がつくと読者の脳内ですんなり整理されている。上手い。

 その一番の理由が、先に述べた「真山vs野宮の、山田あゆ争奪戦」を描ききるまで、「頑張れ山崎、恋心ダダ漏れだ」を描かずにいたことだろう。この2つの恋模様を同時進行すると物語がとっちらかるし、主役と脇役のメリハリがつかなくなる。だから、3人の新キャラのうち野宮1人が率先して、旧キャラ(美大生チーム)の輪に絡みだし、真山vs野宮のW眼鏡体制になったところで、リンツとジャンポールエヴァンを持ち出して両者を比較、恋の観覧車が一周しかけた頃に残りの傍観者2名にもドラマが……という、この流れになったのだろう。上手すぎて癪だよ!

 そもそも、真山の就職した藤原デザインがどんな会社か判明するまで、相当引っ張られているのだよね。一足先に卒業して、ぱりっとした服着てご飯をおごってくれるソツなく大人になった先輩、という貧乏学生サイドから見た真山サンをさんざん見せつけた後、満を持して「でも実際は、大学出たての社会人って諸先輩からオモチャにされるケツの青い新人クンなんだよ☆」という、別方向からの視点を持ってくる。初読時は自分が学生〜新社会人だったから気づかなかったけど、今ならわかる、これすごいリアル(笑)。

 そして「真山クンの行く手に見えるものは……」と画角を振り、同じ眼鏡でも格が違う、完璧超人・野宮が登場する。うーん、ソツがない。これで私が野宮に惚れないはずがない!*1

名作漫画は似てくるものだ

 かつて知人が『ハチクロ』のことを「少女漫画の模範、まるで教科書みたい」だと言っていた。えー、でもぉー、描線は粗いし、小ネタが多すぎるし、泣きを煽るモノローグは凄いけどあれはパロディ同人の古典的手法だし、……などと思っていたのだ、私は。立ち読みごときで。すいません本当に謝ります。で、じつは最終回を読んだのは初めて。周囲は「読んで!タイトルの意味を何も訊かずに読んで!(涙)」と誰も結末教えてくれなかったので、まっさらな気持ちで読みましたよ。

 まず最初の感想が「……ユーリ……?」だった私は、どこまで行ってもモー様信者である。でもねぇ、だって、ボンの神学校=盛岡の寺、あの列車=やまびこ、サンドイッチ=『ルネッサンスとヒューマニズム』、ですよねぇ。あ、いや、印象が重なるのが悪いことだとは思わないのですよ。むしろ、図像学とか古典的名作といった「意味がんじがらめ」の類が大好きなので、鼻水ズビズバさせながら、「エンドレスループな学園生活から遠くへ旅立つには、徒歩や自転車じゃダメよね、やっぱ列車の速度よね!」などと感動していた。

トーマの心臓 (小学館文庫)

トーマの心臓 (小学館文庫)

 あと、中学高校時代に『ハチクロ』読んで憧れて美大入った少年少女たちは、たぶんあらかじめ恥ずかしいものだという認識が植え付けられて、なかなか「自分探し」には旅立てないよね。『ハチクロ』という名作が、毎夏の自転車で北海道を目指す青少年の激減に結びつくとしたら、それはちょっと可哀想かもしれない、と思った。全国の青少年のみんな、ハチクロ読者に笑われたってかまわない、『サイクル野郎』読んで北海道へ漕ぎ出そうぜ!

*1:※未完成品より既製品が好きでプレイボーイが小娘相手に本気の恋に堕ちる瞬間が大好きな私は、真山より野宮派。野宮かわいいよ野宮。目の前で泣いて困らせたい!ぐっしっし ←そんな腹黒い山田は嫌だ。 でも一番好きな殿方は竹本のお父さんだったりする。『となりのトトロ』草壁家の父のオタクっぽさと母のはかなさを足して2で割ったような……まさに「守ってあげたい」の二乗!ああいう夫が欲しいなぁ。

たんぶられ for the day「櫻の園」

okadaic: 中学のとき演劇部にスカウトされた。「いま低学年で男役を張れる子が足りず困っている、文芸部と掛け持ちでいいから」。でも演劇部は上下関係も学年内抗争も激しいことで知られ、人気男役の先輩に声かけられただけでも同学年の部員から何されるかわかったものではなく、怖くて辞退した。 [http://twitter.com/okadaic/statuses/788225804]

okadaic: (承前)でも、辞退した理由は他にもある。当時私は、声をかけてくれた男役先輩Aではなく、委員会で一緒だった別の男役先輩Bのことが好きで、「憧れのBさんに部活でシゴかれるなんて耐えられない」と思ったのだ。演劇部公演自体はBさん目当てに通いつめており、だからスカウトされたんだけど。 [http://twitter.com/okadaic/statuses/788227061]

okadaic: (承前)「いつも公演見に来てくれるじゃん!演劇に興味ないわけじゃないんでしょ?」「いや、あの……その……(タキシードと司祭服が似合いすぎるB先輩の雄姿が見たくて、なんて言えねえ)(つうか廊下で2人きりで話してるとA先輩ファンの嫉妬光線で背中が焼けそうです)」 [http://twitter.com/okadaic/statuses/788228612]

okadaic: (承前)話を聞きつけた文芸部の先輩Cが「よし岡田、今からワシと宝塚歌劇団を目指そう! 陰から逐一プロデュースしてやる代わりに御贔屓筋から贈られる高級外車や不動産は山分けだぞ」と言うので、やっぱりこの光画部みたいな文芸部が最高だなと思った。ワシッ娘のC先輩は元気かなー。 [http://twitter.com/okadaic/statuses/788231186]

okadaic: 女子校の百合話。私の事例が標準的かどうかは知らんが、とても面白い心理なのでみんなに話したい。中学一年生の私は先に挙げたB先輩のことが本当に純粋に好きだった。恋していたと思う。男性芸能人(小室哲哉など)への気持ちを「擬似恋愛」と呼ぶなら、それとまったく同じものだ。 [http://twitter.com/okadaic/statuses/788235441]

okadaic: (承前)男の恋人のどこに惚れたかなんて、いざ挙げようとすると全然思い当たらないが、中学生のとき女性であるB先輩のどこに惚れていたかは、今でもすらすら語ることができる。まぁそのわかりやすさが「擬似」であって本物の恋愛でないことの何よりの証拠だけどね。 [http://twitter.com/okadaic/statuses/788236330]

okadaic: (承前)B先輩は図抜けて背が高く、色白で、黒髪をなびかせながら無駄のない動きでノシノシ歩く。今思えば演劇人の重心だ。私がいた委員会の長を務めており、まるく組んだ机の中心に彼女が座ると大変な迫力と安心感があった。女性相手に大変失礼だが、今思えばジョン・クリーズに似ている(笑)。 [http://twitter.com/okadaic/statuses/788238585]

okadaic: (承前)冷静に考えれば私とB先輩は<同じ制服を着たそう年齢の違わない10代の女子同士>なのだが、私は、性別も年齢も超越した「一個の人間」として彼女に見惚れた。これこそが<女子だけの集団>に独特の感覚だと思う。巷の百合モノはこの辺りを性に直結させて描くので少々違和感がある。 [http://twitter.com/okadaic/statuses/788240705]

okadaic: (承前)「女子校に擬似百合が蔓延る」ことは、単性集団に生じる歪な一体感、音のしないヒステリーのようなものだ。でも、少なくとも私の体験上は「刑務所でカマ掘られる」といった現象とは全然違う。同じ<異性の代替物>だけど<恋心の捌け口>であって<性の捌け口>ではない、というのかな。 [http://twitter.com/okadaic/statuses/788242259]

okadaic: (承前)女子校だったわが母校で「第二ボタン」にあたるものが、学年色の靴紐と、最上級生が運動会で使う紙製の花だった。普段は遠くから見ているだけの先輩に意を決して話しかけ、使い終えた靴紐と花を譲ってもらうことが「告白」の代わり。擬似恋愛の絶頂にして終焉だ。 [http://twitter.com/okadaic/statuses/788244639]

okadaic: (承前)靴紐(≒第二ボタン)は「それ以上望まない」ことの証でもあったと思う。後輩とてそこから同性愛的関係を要求するわけではない。あくまで学園生活の中でのみ、憧れる私/憧れられる貴女、を承認してもらう儀式。卒業する先輩は「私のでいいの?もらってくれてありがとね」と微笑むのが礼儀。 [http://twitter.com/okadaic/statuses/788246059]

okadaic: (承前)で、私は委員会でも数回しか話したことのないB先輩の靴紐(≒第二ボタン)を、顔を真っ赤にしながら譲っていただき、御礼の手紙を書いた。「いつも遠くからお姿を拝見し、貴女のようになりたいと憧れていた。卒業で離れ離れになっても、貴女に恥じない人間でありたい」というラブレターだ。 [http://twitter.com/okadaic/statuses/788247597]

okadaic: (承前)靴紐の御礼は、手紙とともにアクセサリーを渡した。これが面白い!つまり私は<性を超えて>B先輩に憧れたが、<告白>の儀式を終えた後は<同じ女性>と見なし、擬似恋愛に幕を下ろしたのだ。「大学で素敵な彼氏ができてデートのとき身につけても遜色ないもの」を選んだのを憶えている。 [http://twitter.com/okadaic/statuses/788249547]

okadaic: (承前)憧れの先輩の卒業とほぼ同時期に、今度は私が、顔を真っ赤にした後輩から「靴紐(≒第二ボタン)をください」と言われるようになった。歴史は繰り返す。私もまたチョコをもらい、ラブレターに「ありがとね」と返事を書き、「彼女たちに幻滅されるような先輩にはなるまい」と身を引き締めた。 [http://twitter.com/okadaic/statuses/788250833]

okadaic: (承前)まぁ結論として、当時の私(たち)の異様な気持ちの昂ぶりは、どう考えても「レズ」でも「百合」でもない。少なくとも私は、ジョン・クリーズ似のB先輩に、性的なものはまったく感じていなかった。単なる<私淑>である。でもその気持ちを<恋愛の手順>を模して告白するところが、ミソ。 [http://twitter.com/okadaic/statuses/788252714]

okadaic: (承前)思春期始まったばかりの女子にとって一番やってみたいことはガチの恋愛でも本番のセックスでもなく<恋愛の手順を踏む>ことなのですよ!! 恋文とか第二ボタンとか隠し撮り写真とか、恋の歌に歌われるあれらのギミックが欲しいだけ。自分が得て満足したら、今度は次世代に提供してあげる。 [http://twitter.com/okadaic/statuses/788254459]

okadaic: (承前)女子校時代の擬似百合体験は、まぁざっとこんな感じ。ちなみに「ジョン・クリーズ似」は、あくまで「背が高く色白」で「性を超えた存在に見えた」ことを示す誇張表現ですよ(笑)。実際のB先輩は16~17歳の女子高生。たぶん客観的に見れば天海祐希みたいな雰囲気だったはず。 [http://twitter.com/okadaic/statuses/788257830]

okadaic: ここらで筆を置き、timelineをさかのぼって現役10代男子どもが盛り上がる様子を肴にニヨニヨしたい。抱きついた感触は女より男のほうがいい、とな!? おねーさんに早く続きを。 http://twitter.com/tnzk/statuses/788256398 [http://twitter.com/okadaic/statuses/788259551]

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本人降臨!本人降臨! (←自分で言ってみたかった)
何度読んでも女性相手に「クリーズ似」はひどい。もっと似てるのはk.d.langです。

http://okadaic.tumblr.com/post/31640434

もっと冷静になって読み返すと、
母校名は即バレ、公演内容から年代も特定可能、
どの先輩のことをクリーズ似と言った私が誰なのか、まで
簡単に突き止められる内容に、今更ながら青ざめた。軽率だった。
ご本人には秘密にしておいてね、先輩諸姉。
誰のことかわかっても内緒にしておいてね、同窓生諸姉。


【とても大事な追記☆2009/01】

いまだにこの「櫻の園」を辿って此処へ来る人が多いようなのだが
何度見返しても「ジョン・クリーズ似」はあまりにもひどい比喩だと思う。
ので、当時、件の先輩にそっくり! と一目惚れした人物の動画を貼っとく。
k.d.lang姐さん。
自分が男役だった頃は服装とかよく真似していたよなぁ。男物のシャツとか着て。
ま、この動画のイメージで読み返してみてくださいね。うん。

あと、盛り上がってるところ大変申し訳ないのですが
私はかつて『櫻の園』を女子校の同級生に超薦められて借りてみて
読んでみたけど全然ピンと来ず、その理由を分析するのも面倒で
ずっと自分の中で「読まなかったこと」にしていました。
いや、じつは『BANANA FISH』も読めなかったんですよなー……。
超リアル!とか褒められても、こちとら先に『PALM』シリーズ読んでるし
そもそも萩尾望都信者なので海外舞台作品にリアリティとか求めてない。
たまに男性で「僕は『BANANA FISH』好きだから、やおいにも理解あるYO!」
と豪語している人などを見るたびに鼻白んで、読み返す気が起きない。
(そういう奴に限って「リボーンと銀魂は少年漫画じゃない」とか言うよね・笑)

というわけで私の『櫻の園』へ抱いてる感想は、
多分ここの考察に近いように思う。(何せ内容をよく憶えてないので)

吉田秋生への違和感
http://d.hatena.ne.jp/akio71/20061215#1166159381

「男性読者にうまく媚びて受けてる少女漫画がイヤ!」と発語するとき
そうやって誰より一番、読者の性差を意識しちゃうのは、漫画読みの性だなと思う。
媚びてても何でも面白ければいいよ、てなかなか言えないのよね。
24年組以降の少女漫画の歴史によってジェンダー学んできた漫画読みは。
とほほほ

私はオバサンになりたい

“あの映画”“お芝居”などと呼ばれる、例のパフォーマンスのようなもの、
おばさんたちが案内する未来の世界』を私は東京と大阪で2度、共に体験した。

エリザベス・コールが、小沢健二とつくった、この作品について、
書きたいことがたくさんあるのに、まだ言葉にまとまっていない。
歯がゆい。この歯がゆさを挙手して語る場所を求めているので多分出向く。

刺激的なものには、人間いつか耐性がついてしまう。そのことに苛苛する。
繰り返し書くけれど、私は<ひとつにはならない>世界へ歩いていきたい。

Change the view of looking.

人間がひとつになってしまうことが怖い。ほっといてくれない社会が怖い。
ただ騒ぎたいだけの人たちは、どうかあっちへ行ってほしい。
私が複数の視点を持って成長し続けることを、誰も妨げないでほしい。

この発言は何人もの親しい女友達を失うかもしれないけれど

「私はオバサンになりたい」

その気持ちを妨げるものをバッサバッサとなぎ倒して、
けっしてひとつにならない<あれもこれもある>世界のほうへ歩いていきたい。

“あの映画”を動詞で表現するなら
「問いかける」というよりも「たしかめる」が似合うと思う。
“あの映画”を見て、同じものを素晴らしいと思い、
同じものを醜いと思い、同じ点について欠けているとか不満に感じ、
環境問題の「か」の字も語らずに、同じように感想を述べ合えた人を、
一緒に見た人々の輪の中で、いま1人だけ、見つけてある。

私は、その相手のことを、本当に信頼している。心から愛している。
なぜならその人と私は同じ未来に行き着くだろうから。
このへんはきちんと書けば先日の「神の愛」の話に続きそうだ。

時間切れ。

うーんリハビリが足りないな。