「楽しい日記がすらすら書けるような楽しい暮らしをする」が密かな目標だったのに、さっそく崩れつつある。4月上旬はたくさん観劇して充実していたが、書きたい感想が書けていないので早く書いておかないと。しかしそんなことに時間費やしてる暇があったら読むべき読みたい本もどっさり積んである。観劇記録に忙しくなり読書記録の整理を諦めて十数年になるが、本の感想だってちゃんと書きたい。あんまりダラダラ長くせず140字くらいでピシッと書きたい。けどそのほうが時間を取られる。となるともっと早起きして規則正しい生活を心がけたりないといけない。楽しくて苦しい。みー。
というわけでまた遊びの記録。先週は、藤本由香里さんにオペラ『ドン・ジョヴァンニ』へ連れて行っていただく。17時にコロンバスサークルの「all&sundry」集合、いい店だけど洞窟みたいに音の反響がひどく、店員とのやりとり時点で喉が枯れそうだったので、珍しくテラス席へ。お犬連れの隣客に取り囲まれながら、まだ日が高いうちから路上でダーティマティーニとシャンパンと生牡蠣、フライドオリーブとマック&チーズ。どれも美味しかった。そして観劇後はP.J. Clarke’sでスライダー(と呼ぶにはデカい)で一杯やって帰る。平日だけど祝日だったなもはや。
で、メトロポリタンオペラ『Don Giovanni』である。演出はIvo van Hove、指揮はNathalie Stutzmann。毎度ながら、オーケストラ演奏が素晴らしいのと演者の歌が上手いのとセットが豪華なのとに打ちのめされる。ブロードウェイ流のミュージカルコメディにかまけてそちらに目や耳が慣れた身としては、オペラを観るのは「たまに会う年長の親戚のお兄さん」を仰ぎ見るような感覚だ。長年かけて文化として成熟して財布にも余裕があるとこんなに趣味性高く生きられるんだな、俺たちも明日は檜になろう、痺れるなぁ、憧れるなぁ、との気持ち。
暗転して指揮棒が振り下ろされた瞬間から最後の最後まで終始「モーツァルトやべえ」とだけ考えていた。ミュージカル鑑賞はマンガ読書に似ているが、オペラ鑑賞はクラブに近い。聴くまで忘れていたけど聴いたら一音目からパキッと鮮明に当時の思い出がよみがえるような懐かしい曲が繋がれて、DJの煽りにフロア全体がウォーッと一体化して盛り上がる、アレが何百年か色褪せずに続いたら、きっとこんなクラシックになるのだろう。ふざけた感想だが案外真剣に書いている。観る前は何度でも「女好きが祟って地獄に引きずりこまれる放蕩者の話?」と斜に構えるのに、観れば「モーツァルト最高ー! ウェーイ! Too young to die!」といった高揚から逃れられない。歌い手のピッチが完璧すぎるのもEDMを連想するのかな、こちらは機械操作ではなくガチなのであるが。とにかく、いま耳が一番聴きたい音が、音のほうから次次に飛び込んでくる。場内がシンと静まり返っていても満場みんな指揮者の煽りにウォーッとなっているのがわかる。そんな体験は生ならではで、帰宅後に同じ曲を居間で一人で再生してみても、あの夜のあの場のあの理屈を凌駕する興奮は、まるで再現されないのだ。
金も地位もあり仕事もデキるが男は平気で殺す、女とみれば誰でもヤッて記号や数字として俺様リストに載せたがる、二千人斬りのクズ野郎がタイトルロールの作品である。演出のイヴォヴァンホーヴェも「ドンジョヴァンニは現代風に言えば権力を持ったソシオパスで、その罪は罰されるべきだとタイトルにも冠されている」と解釈を語る。舞台構成はゆるく現代に置き換えられ、主人公はコートにスーツにタイといういでたち、それとよく似た背格好(ということになっている)の従者がいて、ネクタイと上着の交換で入れ替わる。女たちは膝丈のドレス姿だ。衣装以外はことさら今っぽくする仕掛けもないのだが、たとえば決闘も剣技ではなく銃をぶっぱなすので、ドンジョヴァンニの武勇や能力の高さより、短気さや軽率さ、悪運の強さなどが際立って見える。主演Peter Matteiがキービジュアル通りの「いやな奴」を真面目に演じており、「昔も今もヤリチンにつける薬はねえなぁ〜」と物語の普遍性がよく現れていた。
比べると従者レポレッロ役のAdam Plachetkaのほうは、登場の瞬間から「相対的にマシな奴」としてものすごくカッコよく見えて、すっかりファンになってしまった。一幕のカタログの歌も二幕の入れ替わり劇も、エルヴィラと並び立つと普通にうっとり、ご主人様より恰幅よいのもセクシー。誰が演じても素敵な役というわけではないはずなのに、宝塚歌劇でいう男役二番手みたいにオイシイところを全部さらっていく。ドンナエルヴィラ役のAna Maria Martinezもよかった。私は手塚治虫や永野護の読み過ぎで「ああ、あのストーカーグルーピーヒステリックおばさんキャラたちの原型な」といった認知の歪みがあるのだが、ちゃんとした演出で改めて観ると、ソデにするには惜しいイカした中年女なのだ。貴族というより女性起業家のような威厳があり、一幕最後にものすごい高みから見下ろしてくるのと、二幕のいそいそした恋心を抑えている様子とが印象的。男を見る目が無いことくらいしか欠点が無いし、それは男が悪い。
ヅェルリーナ役のYing Fangは30代だそうだが、キャミワンピ姿が20歳そこそこに見える。相手役との体格差さえ笑いに変えていくようなコケティッシュさでかわいい。立ってるだけで威圧感あるのに簡単にやり込められるマゼット役のAlfred Walkerもリアルで、「大柄で老け顔なだけでじつは新郎のほうが年下だったりするのかも?」と思えるほどの凸凹新婚夫婦だった。かたやドンナアンナと父の騎士団長とオッターヴィオの三人はちょっと印象薄かったかな。上手いは全員上手くて当然だが、エルヴィラとヅェルリーナがそれぞれいかにも「現代の女」といった感じで今回の演出にハマッていたので、白人キャストでかためたドンナアンナまわりが相対的に古っぽく感じてしまったか。座席前のプロンプターには二行分ずつ英語翻訳が表示されてオレンジ色に光る。それがまた、なけなしの物語の深みも削いでしまい、演者の芝居以上に文字で笑わされる箇所などもあって、悲喜劇の悲劇部分より喜劇部分が印象に残る作りではあった。
それにしてもセット、セットが豪華なのである。舞台写真やダイジェスト映像だけではひどく地味なコンクリート打ちっぱなしに見えるだろうけれど、歌劇場の6層構造に負けじと4階建て5階建てに組まれた複数のユニット、高さだけでなく奥行きも出るように計算されていて、その最奥は、なんと鏡面張り! 上手側の私の席からは、手前のモノトーンの建物ユニットの奥に、あたたかく緋色にきらめく客席の反射がちらちら映り、遠くに蝋燭の灯りがあるかのように錯覚されて美しかった。といっても、この鏡が鏡として演出に効くわけではない。これは着物でいう八掛(裾の裏地)みたいなもの。チラ見えにドキッとするとその「奥」への想像力が広がる。こことは別の世界があるのかも、と思うと手前のコンクリ世界の閉塞感も増す。そうしたチラリズムのためだけに、約6階分の高さの鏡面が張られる贅沢よ。「ねえねえココ奮発したの、もっとよく観て〜!」と見せつけたりはしない。粋だなぁ。
現代風にモダンな建築にしたんだな、とだけ思っていたこの建物群が、照明に照らされ、スモークに燻され、さまざまに表情を変える。ジョルジョデキリコの回廊のようにも、ルネマグリットの光の帝国のようにも、そして、いくら階段を上り下りしても絶対に太陽の下に戻ることができない『HADESTOWN』の冥府のようにも見えてくる。汚れたものが一つもない貴族の邸宅の美しい庭園であると同時に、割られる窓ガラスが最初からないだけのドン詰まりの廃墟の裏路地とも見える。女たちは貞操の危機に怯えて逃げ惑い、男たちは復讐すべき相手を血眼で探し回り、「わざわざ地獄に引きずり込まれなくたって今もうここが地獄やん?」とさえ感じられる石の迷路。オペラ歌手たちは見せ場以外では大仰な芝居はしないのだが、細い細いスリットのような窓の奥を手を繋いだ男女がサッと駆けて横切るだけでも不穏さが出る。
一幕最後がやけによかった。ドンジョヴァンニの屋敷に登場人物が勢揃いして大騒ぎになるのだけれど、このシーンを演出するのに、まずはアンサンブルによって、時代がかった18世紀風のドレスを着せた大量のマネキンが運び込まれてくる。二階の窓、三階の階段部分、四階のスリットに、色とりどりの原色を身に纏った白い人形が現れ、モノトーンの世界がいきなり華やぐ。ひとたび置かれたら自力ではその場から動けないのっぺらぼうなのに、舞踏会の仮面をつけているから、不思議と生きた「人」に見える。一階では突如現れた貴族や音楽家が同じ仮面をつけてわさわさ動き、現代衣装のままの人々と混じり合う。あの、見てはいけないものを見る感じは何だったのだろう。「18世紀の亡霊たちが、21世紀のホーヴェ版演出の一幕ラストを見物しに来た」ようにも見え、音楽の高ぶりにも合っていた。
そうして、照明効果だけでよくぞここまで飽きさせないよね、もう物語終盤じゃん、と感心していた二幕最後、う、う、動いたー! 3時間ほとんど動かず一幕と二幕で配置を変えた程度だったのに、最後のたった十数分のために、巨大ロボの合体変形シーンよろしくこの重厚なセットがフル稼働。印象薄かった騎士団長に代わり、なんとセット全体があの「動く石像」としてドンジョバンニに襲いかかってくる。階段の傾斜やスリットの陰影が美しかった建物がゴンゴン反転してのっぺりした壁となり、地獄絵図のプロジェクションマッピングも投影されて、手前で出てきた椅子やテーブル、あんまり効いてなかった0番に挿さりっぱなしの白い花と赤い花などの小道具を、文字通り全部吹っ飛ばしていく。しかもその石像がふたたび反転すると、さっきまで無機質だった同じ建物が色とりどりの幌や花壇や洗濯物などで飾られて、「あの男さえいなくなればこの世はこんなにカラフル!」と晴れやかに終わる。言葉で書くとなんじゃそりゃって演出だが、観客は一幕最後の仮面舞踏会でも一度「色とりどりの世界」を体験しており、さっきまで食べ物を粗末に扱ってた男が血まみれで地獄へ連れてかれることに、力技でニッコリニコニコ拍手させられてしまう。これは演出家の勝ち。観たら屈する。
いつかは私もオペラ界に推し歌手ができたりするかしら、と考えつつも、やっぱり今回も広義の「セットの豪華さ」にヤラレてしまったな。地味なんだけどね。でもミュージカル作品の演出が観客を驚かせてくる手法とはずいぶん違うのだ。それはオペラ歌手が歌唱力で見せる「虚構」とミュージカル俳優が歌芝居で見せる「虚構」との違いにも関係していると思う。私はどちらも好きで、両方を手がける演出家のMETデビューを拝めてよかったです。