202304_PARADE_Broadway

2023-04-06 / 『PARADE』をめぐる対話

ミュージカル『PARADE』ブロードウェイ版を観た。2023年4月7日金曜ソワレ、Passover(過越)の真っ只中で観た。脚本はAlfred Uhry、作詞作曲はJason Robert Brown。舞台は今から百年前、かつ南北戦争終結から五十年後の1910年代、米国南部ジョージア州アトランタ。地域社会に馴染めずにいた北部出身で大卒のユダヤ人が、白人少女の強姦殺人事件で冤罪を着せられ、減刑となるも刑務所から拉致され、過熱報道に煽られた反ユダヤ主義の地元民たちに殺される。現在も再調査中の「レオフランク事件」を題材にとった実話作品である。

1998年の初演は共同構想者でもあるHarold Princeが演出。公演期間は短かったが、ドラマデスクアワード受賞、トニー賞でも脚本賞と楽曲賞を獲るなど評価は高かった。そして2022年11月、New York City Center(NYCC)のアンコールシリーズで、Michael Ardenの新演出版がリバイバル上演される。全幕上演で観るのは初めての観客も少なくなかったはずだ。今なお人種差別によるヘイトクライムが絶えない米国で、「こんな時代だからこそ、観返され再評価されるべき」と劇評は大絶賛、それに応えるかたちで今春、同プロダクションが期間限定でブロードウェイ上演中である。

PARADE Highlights 2022 New York City Center
This Is Not Over Yet / Parade Broadway

個人的には、今まで観た数々のミュージカルの中でもとくに好きな演目である。あと何十年生きるかわからないが、ひょっとしたら「我が生涯の一作」に選ぶかもしれない。だから、どんな上演版でも高く評価されるべきだと思っている……が、作品それ自体が大好きだからこそ、新演出には、点が辛くもなる。感想一つ書くのもややこしい。日本語でGoogle検索かけて本作のあらすじや感想を読みにくる人たちが真っ先に読む長文は、私のそれであってはならないと、他ならぬ書き手自身が恐れている。

でもまぁ、公演期間中にNY観劇遠征するから参考にしたい、前置きはいいからチケット代に見合うかどうかだけ教えてくれ、という方たちもいるだろうから、先に三行でまとめておく。

・観るべきか観ないべきかでいえば断然観るべき。ロングランさせるべき!
・座席指定でチケット取るなら2階最前方がおすすめ。理由は観ればわかる!
・欲を言えば日本上演版『パレード』を先に予習してから今回の演出を観てほしい!
・どうやって? DVD出てないから観られんね! あっちも最高なのにな、クソが!

勢い余って三行が四行になってしまった。未見の人、ここまでで本記事を読むのはやめて、まずは観てください。そして感想を聞かせてください。あとホリプロはマジで森新太郎演出版の円盤を出してください。全世界の損失。

『パレード』日本版ダイジェスト映像(2021年再演版)

私はちょっと我ながらイカれたくらい作者のJason Robert Brownが大好きなのだが、1998年初演版や2007年英国版は観られていない。2015年コンサート版はYouTubeで視聴、ホリプロ主催の2017年日本初演版も泣く泣く逃して、やっと生で観られたのは、2021年の日本版再演が最初だった。続けて2022年秋のNYCCアーデン版に通った。そして今回の2023年BWアーデン版である。

好みでいえば、「2021ホリプロ森版≧2022NYCCアーデン版>2023BWアーデン版」となる。今回の同行者はNYCC版を未見で、「2021ホリプロ森版>>>(壁)>>>2023BWアーデン版」という評。そう言われると「NYCC版を観てほしかったよ〜!」と涙目で猛反論したくなる。傍目にはBW版が最低評価と見えるが、違う、違うんだ、さっき三行まとめで書いただろ、2023年版は、これはこれで絶対に観てほしいやつなんだ!

というわけで以下は、「2021年の日本語翻訳上演や、2022年のNYCC版と比較しながら、今回の2023年ブロードウェイ版がどうだったか語る」というコンテンツ(約8600字)。思い入れの強い私よりも同行者のほうが辛辣で、終演後の感想戦が非常に面白かったので、先方の許可を得て対話形式で書きおこした。以下、完全にネタバレ進行です。不親切設計なので差分を知る読者にしか楽しめないと思う。少なくとも一度は『PARADE』を観たことがあり、何がどの場面の歌や台詞かわかる人だけ読んでください。


■アメリカならではの具象化

同行者「今回の『PARADE』は、ファクト、ファクト、ファクトをたたみかけてきて、教科書を読んでいるみたいでまったく感情移入できなかった。テロップや家系図の説明が多すぎる大河ドラマみたいなもので、お勉強にはなるが、エモさに泣ける構造ではない。実話であることを強調したい気持ちはわかるけど、あまりに史料に忠実すぎる。こんなに単調に進む話だったっけ? と驚いたし、感動が薄かったなぁ」

筆者「えっ、あっ、ちょ待、いきなりそんなに貶す? 米国人演出家が米国上演に際して忠実な歴史劇として作ったこと、私はそんなに悪い印象ないのだが……。単調に感じられたのは、盆回しや大道具転換など派手な演出がないのも一因かもね。そもそもNYCCって2750席のばかでかいハコなのよ。今回2023年版に引き継がれたあの、舞台の上に舞台を何層も重ねて上下移動で階層を見せる手法は、(どの席から見ても何かしらは見切れてしまう)NYCCにおいては、『これ以外にはありえない』最適解と見えた」

同行者「うーん、でも中劇場でなら、選択肢の一つだけどベストかは疑問だね(Bernard B. Jacobs劇場は1078席)。Ben PlattとMichaela Diamondはじめ俳優はみんな上手かったけど、登場人物が出てくるたび背景の壁に『本物』の肖像写真や氏名をでかでかと映し出されると、じゃあ我々は何のために手前で繰り広げられる熱演を観ているの? と白けちゃう。時系列を一直線にまとめたJRBのスコアには、それだけで十分すぎるほどの空間支配力があるのに、よかれと思って演出サイドが挟む『日時と場所』のテロップが音楽の流れさえもぶった斬ってしまっていた。脚本も歌詞も『言葉』が非常に多いシリアスな作りなのだから、視覚的要素を極力排して、そちらに集中させてほしかった」

筆者「映像とテロップに関しては、まったく同意見。でもまた擁護させてもらうと、NYCC版では広い広い舞台の前方をアクティングエリアにして後方にはJRB本人指揮のフルオーケストラが控え、壁はさらにその奥だったので、映像は遠く霞んでもっと不明瞭だった。見えづらいという感想もあったけど、『真面目に追わなくていい』書割以下の演出効果だったんだよ。動く壁紙の模様みたいな。ところが今回の2023年版では、狭くなった舞台で背後の白壁も大きく迫ってきて、映像が『観なければならない』ものとして存在感を増してしまった……これは本当にガッカリ。人間、見やすくなると、見ちゃうんだよ。鉛筆工場の遠景はいいけど、ブルックリン橋の写真は要らんだろ。しかも、一度ならず二度までも、とっくに死んだメアリーフェイガンが壁伝いに空中ブランコ(※腰掛けて両手をかけるタイプの命綱)に乗って下りてきて『私(と映像)をちゃんと見てね』と示す……あれは今回いきなり追加された演出です! 蛇足の極み! 」

同行者「えっ、あの空中ブランコ、NYCC版には無かったの!? そうだね、怖い場面なのに、ちょっと笑ってしまったね……。一度目はドーシーの最終論告のとき下手の天井からスーッと降りてきて、Guilty! Guilty!の連呼を聞きながらまたスーッと天に召されていく。二度目は二幕のWhere Will You Stand When the Flood Comes?で、怒り狂う群衆の真上に浮いてた。ワンデイモアで担がれるガブローシュみたいな」

筆者「何なんあれ。あれ何なん。元の脚本に書かれた、法廷劇の途中や再検証やラストの回想場面で再登場するメアリーは、全部効いててかわいいですよ? でもあの脚色は、強姦殺人被害者の子供が死後なお見世物にされセカンドレイプされるだけ。本人も無言のまま、顔に戸惑いしかない。パレードで老兵士がライラの遺影持ってんのとは意味が違うんだよ! 俺たちは天吊りが観たかったら8Aveの交差点渡って並びの劇場に『MOULIN ROUGE!』観に行くっつーの!」

同行者「あなたのほうがよっぽど辛辣でしょ……」

筆者「違うんだ、私は基本的に、アーデン版の全体の演出プランそれ自体は、高く評価してるんだよ。現職知事が携帯電話の電源を切れと言った後、God bless the United States of America!と叫んで始まる2023年のリアリズム。ただの白木の箱に半円旗をかけただけ、縁の下に赤土を撒いただけで、北部の劇場に立ちのぼる南部っぽさ。インターミッションで出ずっぱりの死刑囚。メアリーの納棺とレオの絞首が同じ『穴』を使う怖さと、二度の大戦を匂わせながら百年後のジョージア州の若者で締めくくるエンディング。そのへん褒めるのはNYCC版のとき褒めちぎってるので、読んでほしい」

同行者「NYCC版ってきっと、特定の客層に短期でウケればよかったんでしょ? それこそ初日の晩に2500ドルぽんと出資してくれる裕福な北部ユダヤ系社交界とか。でもひとたびブロードウェイ上陸となると、他州からも世界中からもお客さんが来て、そのみんなを満足させないといけないよね。そりゃ改訂で説明過多にもなるし、死んだ女の子をもう一度ブランコで見せようとか、ルシールがお母さんのこと歌ってるならお母さん役者を隣に立たせておこう、ジムコンリーの証言の隣にも看板俳優のベンプラットを置いとこう、とくどくどしさが増すんじゃないかな」

筆者「ああ、そこの色気が出たのかな。私は今週ベタベタなコメディ『Shucked』も観たんだけど、あちらはそうやって最大公約数をとるのに成功してた。でも『PARADE』は、そことは張り合わんでええやろ……。新味が欲しかったとか、NYCCでは技術的に無理だったことができるからやってみたかったとか、何か理由はあるんだろうけどね」

■日本ならではの抽象化

同行者「それでいうと森新太郎の日本版は、降り積もるパレードの紙吹雪というたったひとつの舞台装置を使って、日本の観客にも伝わるように見せる、コンセプチュアルな手法が本当に本当に素晴らしかった。黒人の有徴化のまずさ、キャスト老けすぎ問題などもあるとはいえ、『地球上のどの街で起きてもおかしくない』物語として見せるのには大成功してたよね。米国南部の具象化がヌルいぶん、もっと抽象的かつダイレクトに感情に刺さってきた」

筆者「マジ同意。私は昨秋、『米国北部のニューヨークの劇場で観たいのはマイケルアーデン版のPARADEで、日本のニューヨークである東京の劇場で観たいのは森新太郎版のパレードだ』と感想を書いた。日本でリアルに作り込もうとしても、役者選びの段階で詰んでしまう。一方で米国演劇界が『PARADE』上演の灯を絶やさぬためには、モダンにスタイリッシュにオシャンティな演出なんかしてらんねえぜという切実さもあるはず。『Porgy&Bess』『Color Purple』や『Oklahoma!』ならば抽象化手法もアリだが、『PARADISE SQUARE』や『PARADE』みたいな作品で安易に同じことするのは危険だろう。だから、森版のほうが上手いと思うけど、アーデン版を貶せないのよ」

同行者「あなたはよく『日本のミュージカルには日本なりの良さがある』と騒いでるよね。森版とアーデン版を比較して、今回しみじみ言いたいことがわかりましたね。もし野球ファンが同じこと言ったら『いや日本の野球は全然下手だし、MLBのクオリティに達するのは大谷選手みたいな特異点だけでしょw』と笑い飛ばすけど、もし美食家が『日本料理は別腹で美味しい、日本には日本の良さがある』と言ったら、我々だけでなく、海外のプロの料理人だって頷いて黙る。ミュージカルは料理のほうに近い」

筆者「ポークコートレットの本場はフランスかもしれないが、独自進化を遂げた最高のとんかつを味わいたければ、パリのジャパレスで文句言ってないで揚げたてを食いに日本まで来い、というね……。私はJRBやマイケルアーデンに、是非とも、資料映像だけでも、森版『パレード』という究極のとんかつを食ってみてほしいんだよな。主演が非ユダヤ人の時点でお口に合わない可能性も大だが!」

同行者「同じ豚肉に衣つけて揚げる料理なら、自分は『とんかつ』のほうが好き。2023年アーデン版、2021年森版、また観たいのは後者。とにかく、観終えた後にズッシリ身体にこたえちゃったんだよねー。座席から立てない、駅までの道をまっすぐ歩けない、晩飯が喉を通らない。アーデン版にはそういうショックは全然無かった。ハイみんなお上手でしたねーつって、泣かずにゴハン食べに行けたわ。日本の演劇は、テーマの本質を抽出するの(だけ)が得意なのかもしれないね。海外戯曲の翻訳上演が多いし、歌舞伎のような様式美にも慣れ親しんでるし、物語構造を換骨奪胎して、ツボを突いた要約や翻案、デフォルメをする技術が、観る側も観られる側も高いんじゃないかな。それを『ホンモノの南部黒人に見えない』といった理由でバカにするのは、よくないなと、改めて感じたね」

筆者「それでいうなら同じ森新太郎演出の『バンズヴィジット』もよかったのよ! もちろん日本のミュージカルだって駄作も山ほどあるのだが、またお誘いします」

同行者「別の喩えで言おうか。今回のアーデン版、自分はひどく既視感があって、それは米国人が書く人物評伝やノンフィクション。昔ちょっと分析したことあるんだけど、面白い本もつまらない本も、みんなほとんど同じフォーマットで書かれている。さほど重要でない取材談話や一次資料も全部詰め込んで数百ページの厚みにして、ファクト、ファクト、ファクト、一つも論理破綻がないように編まれているけど、書き手が下手だとひどく冗長で退屈なものになる。とくに、あの章構成をそのまま日本語に直訳された翻訳書を読むのがしんどい。日本語圏の評論って、もっと形式が自由でしょ、小林秀雄然り。作家だろうと報道畑だろうと、みんなどアタマにサビを持ってくるようなキャッチーさを駆使する。でも、アメリカで売れる本、読まれる本って、また別の様式美における競争なんだよ。アーデン版『PARADE』観て、そのことを思い出した」

筆者「アメリカ案外フォーマット主義問題、なるほど。私は本作はとにかく、こんなエグい話をこんなドラマチックに調理して早熟の作家性を爆発させてる、JRBの楽曲が大好きなんだよ。レオフランク事件のミュージカル書けって言われて最初と最後をThe Old Red Hills Of Homeで挟めるの、ヤバくない!? あの発想どこから出てくんの!? と。でもそれは、今の喩えでいうとまさに『どアタマにサビ』戦法が好きって話だ。私はアーデン版の真面目な作りも嫌いじゃないが、『本作の脚本と音楽には、相性あんまりよくないのでは? この詩性をこんなふうに直訳すると野暮でダルくない?』と問われたら、それはそう。我々は、芝居を観てる間は、心の眼でいくらでも行間を読める。オープニングは血の色した空に大木のシルエットだけで足りる。Real Big Newsでわざわざ本物の新聞記事を背景に大写しにする必要もない。でも、そうやって謎の図版が挟まって、異様に分厚くなってる洋書、たしかにあるね」

■重箱の隅のつつき合い

筆者「それはさておき、私はブロードウェイ版のよかったところも挙げたい! 主にはNYCC版との差分で。やっぱり法廷劇におけるボックス席の使い方からかな。ローン判事入廷とともに、上手側ボックス端席にワトソン、下手側ボックス端席に知事夫妻が座って、ずっと照明に淡く照らされながら高みの見物している。あれはNYCCでは不可能だった演出」

同行者「えー、でも、あそこも、自分は日本版のほうが好き。検事に正面から語りかけられて、客席にいる自分まで有罪判決を下した陪審員だと錯覚しちゃう、そこは客席が完璧に真っ暗なほうがいい。今日『正義の鉄槌誰が下す』のとき、ボックス真下にあたる1階上手端の観客が、階上で何が起きてるか知らずにおとなしく舞台正面だけ観てたのよ。せめて『え、どこから声してんの?』とキョロキョロしててほしかった……じゃなくて、そんな他の客の動向なんか気が散るから観たくないのに、客席全体がぼんやり明るいと2階席から丸見えなんだよね。見切れる演出はダメだし、見切れがバレるのもダメな演出だよ」

筆者「ま、そりゃ日本版の石川禅ドーシーの法廷劇は世界最高ですけどな……? でも今日観たアンダースタディのHarry Bouvyもよかった。ブロードウェイデビューで肩に力入ってる感じが野心家のイキがりに直結してて、禿頭だけど若々しくて年齢不詳で、最初に知事邸に入ってきたときのスゲーッて見回す無礼な態度とか、めちゃ好い。そしてたしかに、2階席最前列の端席は大正解だったね。私はNYCC版をメザニン以上で観たので、BW版も迷わず似た席を探したんだけど。下手側だったので二幕でベンプラットがルシールへの愛を歌うとき何度も何度も目が合ってときめいた。ラストシーンでそれぞれに客席通路を駆け上がっていく『鉄兜の若い兵士』ことフランキーとメアリーは完全に見切れたけど、1階後方より断然おすすめ」

同行者「冒頭『ふるさとの赤い丘』で白人ばかり楽しそうに合唱してて、黒人キャストは無言で棒立ちしてる、というあの演出はすごかったねえ。それがラストシーンでは白人も黒人も、ジョージアンガールの未亡人ルシールさえもみんな一緒になって同じ歌を歌ってて、そして、最下段の黒い板のアクティングエリアでレオだけが所在なさげに立っている、という」

筆者「あそこはNYCC版から踏襲だけど、ミザンスがぐっとわかりやすくなってた。冒頭ではレオじゃなくてジムコンリーが、一段低いとこでちょっと離れて立ってるんだよ。もう、完全に『こいつが真犯人です』って決めつけ演出ですよ。全員アジアンキャストの日本版だと、ジムコンリー役の坂元健児も晴れ着の群衆の中にすんなり紛れ込ませられてたじゃん? あの香盤はあの香盤で怖くて好きなんだよね」

同行者「ジム役のAlex Joseph Grayson、二幕でめっちゃ肉体美を見せつけてくるじゃん? あそこ脱ぐ決まりあるの?」

筆者「NYCC版は脱ぐ日と脱がない日とあった。あそこ、チェインギャングたちの手足を頑なに鎖で繋がないのも米国版のこだわりなのかなと思ってるんだけど、どうかね。あと知事が『ご婦人は連れていけない、たとえあなたでも』というとこで毎回爆笑起こるのがすごく米国っぽい。知事邸のターンに切り替わってからジワッと拍手ポイントが来るのも日本と違う、いいところ」

同行者「ところで、なんかアメリカの役者たちってスローモーションのパントマイムが雑じゃない? あと照明の切り替えも雑じゃない? メアリーが最初に消息絶つところとか、レオが死ぬところとか、こっちは日本版みたいにバツッと大暗転してほしいわけですよ。一度しか観てないのに、あの真っ暗闇で震え上がる怖さが忘れられないもん。Come Up To My Officeも白い照明から始まって蛍光ピンクになるけど、あそこは歌い出しからバツッと蛍光グリーンですごくキモチワルイ男に切り替わる石丸幹二がいいよねえ」

筆者「あんた日本版大好きすぎか! 人は初めて観た『パレード』を親だと思ってついていく習性があるんだな……。まぁでも日本版のHow Can I Call This Home?の静止マイム、キレイでしたからねえ。言われてみれば雑、というか、2023年版はとにかくひたすら、スローモーションのマイムを使う場面が多すぎる。『ああっ、とうとうレオが殺された!』と胸を抉られるはずの場面さえ、『あ、ここもまたマイムで処理するんだ、ふーん、何度目?』と冷静に観てしまう。照明については私は別にそんな精巧に暗転しなくてもいいけど、NYCC版から引き続き、縛り首の縄が無駄に長いのと、落ちた穴からルシール宅の玄関ランプが上がってくるのは本当いただけない。普通に光る生首かと思っちゃうだろ。本当に首が絞まったんじゃないかと観客をドキッとさせて、かつ、演者の安全性は確保して、見せる技法は他にもあったと思うね」

■良いガチャガチャ、悪いガチャガチャ

同行者「褒めるならキャスト。ベンプラットって映画版『Dear Evan Hansen』しか知らなかったけど、演技上手いんだね。休憩含めて3時間ほぼ出ずっぱりなのが本当にすごい。あとルシール役のミカエラダイヤモンドは最高。日本版だと法廷でレオとルシールは遠い位置にいるけど、レオの真後ろに座って、目配せだけでなく手を絡ませるのもよかったし、フェイガン夫人の証言のとき(事前の台詞で示唆した通り)見ていられずベンチにうずくまって顔伏せてた姿とか、よかった」

筆者「ミカエラダイヤモンドは最高ですよ。フェイガン夫人の歌もよかったね。あとフランキーも、NYCC版より断然よかった。激昂して荒い声になったときちゃんと少年声のまま声量が通る若者はいいな。クレイグは高音きつそうだったけど……声通るといえば、一幕最後で黒い板に下りてはける直前のルシールがギャーッと大声で叫ぶのには驚いた。NYCC版ではなかったはず。何と叫んでたんだろう? 代わりに二幕、フランクがカミソリで襲われるシーンはカットされてたかな。ピクニックシーンで首の包帯もなかったし。いやどうだったかな。私が見落としただけかも」

同行者「あなたでも見落とすことあるんだ! みんな動きながら歌うシーンが多いので、見栄えも音響も結構ガチャガチャするよね? こういう隅々まで歌詞が入ってるようなスコアは、歌詞の全部が聴こえてほしいのに、リスニングを放棄させられる合唱が多かったな。群衆の罵声のせいで主人公の結構重要な発言が消えたりするのはよくない。ま、全員が正面棒立ちでソロをとる演出も退屈だけど……日本版はオフするガヤはがっつりオフして、スター俳優を目立たせてたので、初見でも観やすかった」

筆者「悪いガチャガチャもあるけど良いガチャガチャもあると思うのよ。The Gloryで、判事とドーシーが釣具を持ってないから場所が河辺だとは伝わりづらいんだけど、代わりに背後に動きがある、あれは、私は別腹で好きです。最上段は知事邸の舞踏会のままで、若い兵士役とライラ役だった二人が、アノニマスな若い男女としてイチャイチャしながら踊り続ける。歌の途中では黒人カップルも河辺に憩いに来るし、それが知事邸では若い白人男女を直立不動で見る使用人にもなる。次期知事候補を選ぶ紳士同盟の皆さんは上手奥で紫煙をくゆらせながらウィスキーグラス片手に目配せ、下手奥ではシャンパングラス持ったご婦人方の嬌声。後方がガチャガチャしてるからこそ、判事との密談が静かに見える」

同行者「そして最後のドーシーのソロでは、ワトソンが下手ボックス席から見下ろしてて、時空を超えてアイコンタクトするんだよね」

筆者「ワトソンの背に光が当たってるのがまさにSun on the neckという歌詞に繋がるやつね。ワトソンは他の登場人物がまず行かないところ、客席降りギリギリのところに足かけたりとか、神出鬼没のキャラクターと強調されていたのがよかった。休憩明けも、客席みんなまだ雑談したりベンプラットの写真撮ったりしてるのに、お構いなしにモブ引き連れてゾロゾロ入場してくるし」

同行者「日本版だと『ロビイストにして宗教煽動者』という立ち回りがわかりづらかったからね。彼の『キリストはユダヤ人でなかった』発言とか、知事がピラト総督に言及するくだりとかは、さすがに英語のほうが刺さりますね。ところでラストシーンは、アレでアリなの? 先にNYCC版の感想を聞いて教わってたからわかったけど、現代の若者、登場時間が短すぎない?」

筆者「NYCC版で私が絶賛した『最後の十数秒でいきなり時制を現代に飛ばす』アレね。結局、不可視の壁を壊して客席に干渉するのは、ボックス席の知事夫妻とワトソン、最後に客席を走っていくメアリーとフランキーだけなんだよね。あれは『フランキー、次の戦争で死ぬんだな』と確信するいい演出だった。一方で若兵士とライラの転生、ジョージアの無辜の若者たちは、冒頭とまったく同じ、最上段から動かない。たしかに短かったけど、カーテンコール中あの二人はずっと現代の服装で立ってるから、余韻はばっちりじゃないかな。男のほうは胸にでかでかとジョージアってかかれたタンクトップ着とるし……あー!そう! 服で思い出したけど今回マーチのアパレルが本当いけてないんですよ! 胸にでかでかと「HOWDY! / SHALOM!」って書いてあるTシャツ……何なん……アジア人の客が気まずすぎて買えない、買ったとしてブルックリンでしか着られない商品、売るのやめてほしい……私はNYCC版で買ったNYCC版キービジュアルのTシャツを愛用し続けますわ!」(了)


我ながら長すぎる。そして書きおこしながら改めて思う。マイケルアーデン、もうちょっと、観客のことを信用してくれてもよかったと思うんですよ。もっと観客の「見えないものを観る力」を信じてほしかった。ただ、ユダヤ人をユダヤ人が、黒人を黒人が演じるこの2023年版のキャストは素晴らしく、日本版では到底得られない満足度もあった。とりわけ、我々が立つこの地面は、レオフランクが吊るされたあの木の生えた地面に繋がっているのだ、と強く強く感じさせる「It’s still on going」のエンドロールは突き刺さる。でも一方で、森版のあの「紙吹雪舞台」が本国アメリカの劇場に立ち現れたらどんなふうか、と空想するのも止められないのだ。

今回の私の感想は、日本版ガチ勢である同行者の感想にかなり引きずられたように思う(エコーチェンバーすぎて、メモを読み返しながらどっちがどっちの発言かわからなくなる・笑)。日本のニューヨークにあたる東京の劇場で「これからも」観続けたいのは、森新太郎版のパレードだ、たしかに。でも、米国北部のニューヨークの劇場で「2023年の今」観たいのは、マイケルアーデン版の『PARADE』だ、とも思う。それはまったく無駄ではない。本作を初めて観る人々に「I never knew anything at all」と感じてほしい。私は2023年版が歴史に名を刻む瞬間を心待ちにしている。複雑な想いはあるけれど、やっぱり「推し」作品です。


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20230413、追記。アルフレッドウーリーとジェイソンロバートブラウンはとにかくひたすら「妥協の無いユダヤ人キャストで上演できてよかった」と言う、私もまた、ユダヤ人の役をユダヤ人の俳優たちが演じきってユダヤ人の観客を沸かせてることを言祝ぐユダヤ人の作者たちに、ブロードウェイ再演版の成功に、水を差すつもりなんて毛頭ない。しかしながら彼らの笑顔を見るにつけ、「先の『ヘアスプレー』日本版初演が『最初で最後の奇跡のカンパニー』であるのと同様、今後もう私の大好きなあの日本版『パレード』の再上演は、不可能になるのかもしれんな〜」とも悲観的になる。もしそうなればsomeone like me came from Japan, not from Hebrerw schoolとして相当ガッカリする。「BW版が完璧に素晴らしかったんだから仕方ないよね〜」では片付かない。正直そこまで完璧ではなかった。

この「ヘブライ語学校でない日本から来た私のような誰か」というのは『ラスト5イヤーズ』劇中の歌詞のもじり。おそらくはJRBにとって、スペインは隣近所、日本は地の果て、彼はまさか極東の島国に自分のオーディエンスがいるなんて考えもしない、だからアルバムのジャケットにも左前に着付けた着物姿の黒人モデルを置いたりする。日本人の私はそれを見て毎度とてもイヤな気持ちになるが、それでも彼の音楽のファンで、彼の作風が好きで、『パレード』の日本語版に余計なコメント全然しないのも心中お察しするし何なら好感も寄せている。けれども私にとって、「なぜ『パレード』が好きなのか」を考えることは、「なぜ私は日本のミュージカルが好きなのに、日本原作では推せる作品がまったくなく、気づけばブロードウェイ翻訳ばかり観ているのか」を考えることに繋がっている。数十年後の若者たちにもし「えっ『ヘアスプレー』や『パレード』なんて非黒人や非ユダヤ人が演じちゃダメでしょ、昔はやってたとかマジありえないでしょ」とか言われたら、「それは、現物を観てない人には、言われたくないなぁ、あああ観てほしかったなあああ〜!!」くらいは言い返したい。