2023-05-08 / 映画『イニシェリン島の精霊』

素晴らしい作品とは聞いていたものの、その素晴らしさについて感想で語られてもまるでピンと来ず、いったいみんな何をそんなに絶賛しているんだろうか、男と男が喧嘩する話なんていくらでもあるでしょ、と訝っていたのだが、いざ観終えると「素晴らしい映画だった……」「感想が追いつかない……」「男と男が喧嘩する話だった……」と語彙が奪われてしまう。二度観た。

マーティンマクドナー監督作品は他に『スリービルボード』しか観ていないのだが、あちらよりもっとずっと芝居がかった作りで、一層の本領発揮という様相、かつ、戯曲の劇場上演では絶ッ対に味わえない抜け感のある絵。というか、無茶苦茶閉塞感のあるドン詰まりの会話劇が展開されるところに、ただただ抜け感だけがある美しい孤島の映像が掛け合わさる、このコントラストが極めて贅沢だった。みんなこんな芝居作りたいだろうに、いざ映画の監督させたるよと言われていきなりこの絵が作れる劇作家もなかなか居ないだろう、さすがだ。遠景がよすぎるあまり、ちょっとうるさめのズームアップが多用されるのもご愛嬌と思える。

偏屈な男が退屈な男に絶縁を言い渡す、いくら喧嘩しても小さな島だから互いのクソデカ感情から逃れられない、と聞いて勝手に映画『ライトハウス』みたいな壮絶展開を期待していたら、全然違った。「創作する者」「しない者」の埋め難い溝、「読書する者」「しない者」の埋め難い溝、「孤独を愛してみずから選び取ってきた者」「己の抱える寂しさの原因がわからない者」の埋め難い溝、を描いた作品だ。そして両者に貴賎はない。高尚か低俗かという話ですらない。バカ、といった言葉を使うならば戦争してる時点で双方同レベルにバカなのであり、それを示すように海を隔てた本土ではアイルランド内戦の砲音が鳴り続けている。「信条のためなら絞首刑にされようと死ぬまで戦うつもりの者」「戦争なんてどっち陣営もそう変わらんと考える者」の間にも埋め難い溝があり、パードリックと冷戦中のコルムが警官の言葉に気色ばむ場面が短く忘れ難い。高みの見物が許される観客は、この溝の「際」に立って鑑賞することになる。

『Everything Everywhere All At Once』では「Be kind」という言葉がキーワードだった。こちらの映画では「nice」という単語についてしみじみ考えさせられた。「本を読む女」である実妹シボーンが、兄さんはdullやdimでなくてniceだ、と言う。私があの妹だったら親が死んだ時点でとっとと島を出て兄のことなんか忘れて生きるけど、そうもいかず残って兄と二人暮らししながら面倒を看る妹は、兄さんはniceなのだと言う。妹が兄に言い聞かせ、そして自分自身にも言い聞かせているこの言葉を、妹だけでなく兄本人も信じて縋って内面化していく。しかし事の発端だって「niceの暴走」なんだよね……と、じわじわ伝わってくる展開がじつに面白い。

何の取り柄もないが少なくとも「いいひと」ではあろうと努めているパードリックは、その自負を他者から揺らがされたことがなかった。ロバのジェニーをはじめ動物たちは口をきかないし、酒場に集うおっさんらとも不器用同士つかず離れずうまくやってきた。二度観てみると冒頭のパードリックが別人のように晴れやかな表情で驚く。ところが親友だと思っていたコルムから「二度と俺に話しかけるな」と言われてしまう。俺は何かバカをしたのか、と思い悩んでいるところにドミニクが登場する。医学的診断はさておき周囲からは「島一番の真性のバカ」認定の青年で、しかし父親から虐待を受けているのもあって他人の顔色を窺う観察眼は鋭く、時に的を射たことも言う。でも的を射たから「正しい」とも限らない。バカをバカにしていたはずのパードリックは、コルムからの絶縁に傷つくとこの「ぼくよりだめなやつ」に優しくすることで「自分はまだマシ」と確かめる行為への依存を深めた結果、バカの助言を真に受けて大バカをやらかしに行ってしまう。niceとdullとdim。唸るしかない。

自分は善良だと信じるパードリックは懺悔をしない。かたやコルムは、島の司祭が守秘義務などとは無縁の俗物であることは重々承知の上で、それでも教会で懺悔をする。キリスト教が定める罪については関心薄く、ただ己の内なる欲望と絶望について吐露してきたようだ。鬱病じゃないか、と問われたら、まぁそうなのだろうとも見える。海に面した一人暮らしの家は簡素だが、能面や人形など「演劇的」と感じられる品々で飾られている。そうしたものに抑鬱を慰める効果があることを私も知っている。そして「いいひと」との社交に耐えきれなくなったコルムは、「おまえのくだらない話は時間の無駄だ、残り少ない人生はすべて音楽制作に遣いたいから、ほっといてくれ」と宣言する。「以後、おまえが話しかけてくるたびにフィドルを弾くための指を切り落としていく。俺は本気だ」と。信条のためなら神に背いて取り返しのつかない自傷行為も辞さぬ覚悟のコルムと、どんどん悪化していく関係性に遣り場のない怒りをつのらせ他者への加害に向けるパードリックの対比も哀しい。何もかも身に覚えがある。

島の男たちはパードリックに限らず、おしなべて退屈でありさほど賢いとも言えない。なぜパードリックだけがコルムに疎まれたのか、と考えていくと、やはり「nice」のせいだろう、と思わされる。最初はパードリックに同情していた酒場の男たちも、徐々にコルム寄りになっていきパードリックを責める。そこに客観的な善悪判断などは無い。ただ、じつはみんなうっすら「いいひと」キャラの奴を倦んでいたことに気づかされてしまった、という連鎖反応のような掌返しが面白い(他人事ならね!)。一方で、シボーンに「この島で退屈以外の何を求めてるの?」と責められたコルムは「静けさ」「心の平安」「あんたならわかるだろ?」と答え、シボーンは言い返せなくなってしまう。噂好きの女たちが本土から届いた手紙を勝手に開封して読むような、そうした共犯関係の輪に加わらないだけで悪し様に罵られるような、人を人とも思わぬプライバシーの無い島だ。引きこもって読書や創作に耽るには快適な環境と見えつつ、silenceとpeaceが完全にイコールならばこんなに不穏な空気は流れない。断ち切りたくとも断ち切れぬものが音も無く渦巻いており、弱い者から順に足を取られて死んでしまったりもする島なのである。

不吉なものの象徴として、「死神」ことマコーミックさんこと「ババア!」としか呼びようのない老女が神出鬼没の怪演を見せる。『スリービルボード』のときは魘される相手が看板という無機物だからまだマシだったが、私はもうきっと一生このイニシェリン島のババアの姿が脳裏に焼き付いて離れないと思う。シボーンが島を出ていくとき(日曜の教会用の晴れ着である黄色いコートがかわいい)、崖の上から手を振るパードリックの奥にぼんやり見えたもう一つの人影は誰だったのか? という話だけで三日三晩は盛り上がれる。ふーん宇多丸さんはそっち派なんだー、でも私は、やっぱりババアに一票ですかね! みたいな。次に起こる死を予言する不吉なババアは、裏返せば「絶対死なねえ生き残り」とも捉えられるからだ。若い者や弱い者はみんな島の暮らしにしんどさを抱えている。「二百年残るもの」に取り憑かれて指を切り落としたり、靴を脱いで「際」に立って一瞬の衝動に身を躍らせたりしてしまう。そうした段階を超えると、あのババアのような無敵の存在として島の精霊と繋がるのかもしれない。

だから、シボーンが最後に兄と見比べて顔を曇らせたあの黒い人影は、彼女に訪れたかもしれないもう一つの未来の姿(としてのババア)、なのかなと私は思った。あるいはあのババアが最初から「実在しない」The Banshees of Inisherin、後から来たキリスト教やシケた教会や物言わぬマリア像よりも「強い」もの、島に生まれ育った島民にだけ「視える」、そんなヒトに似たヒトならざる影であっても驚かない。いずれにせよ、兄とその元親友は、ヒトがヒトのままヒトでなくなるような、そんな境地に至るまでのまだまだまだまだ長く続く気が遠くなりそうな時間を、これからもそれぞれにヒトとして苦しみながら、島で「共に生きる」ことになるのだろう。


202305_theBansheesofInisherin