2018-01-01 / 今日の3000字「新しい旅」

傍からは「ずっとどこかを旅している」と評される一年でもあった。といっても、日本に三回、ベトナムに一回、南仏に一回、と数えてみれば全然多くはない。合間は自宅にひきこもり机にかじりついて作業していたので当人に実感もない。仕事の出張でもっとずっと頻繁に世界中を飛び回っている人たちなんか、いくらでもいる。とはいえ、彼らのすべてが「いつも旅ばかりしている」キャラを獲得できるわけでもないのが、面白いところ。

人生最初の35年間、東京から一歩も動かずにいた自分が、「いつも旅ばかりしている」なんて評される日が来るとは思ってもみなかった。じゃあ次の35年間は世界を飛び回るようになっているかしら、と想像すると、まぁそこまででもない気もする。今までずっとアンバランスでいて、しかもそのデメリットにも無自覚でいたようなことについて、ようやくバランスが取れて来たにすぎない。

私個人の感覚でいうなら、「ずっと荷造りをしている」一年だった。NYの家でも旅支度をするのは特別なことでなくなり、旅先でも、大きなスーツケースを拠点に残し、必要な荷物を小分けにしてさらにどこかへ出かける、ということが増えて、増えたから、慌しさにも慣れた。春夏秋冬ずっと着ていられる第二の皮膚のようなジャケット、畳みやすい帽子、ぎりぎりフォーマルにも許されて連続装用しても疲れない靴、しわになりにくいワンピース、寒ければ重ね着できるスカート、ちょうどいいサイズのカバン、着心地のいい室内着、高価で高性能な充電器や衣類圧縮袋、多少かさばるけど持って行くと絶対便利な美容アイテム、適切な大きさと軽さのバッグインバッグ、はるか大昔に買ったものでも、旅を続けて再評価が高まり、愛着がわくものがある。

一方で、一泊二泊の出張で長く愛用していたようなグッズが意外と使い勝手悪いことに気づいて捨てたり、目分量で見当つけてぽんと高価な旅行用品をまとめ買いして使いながら比較してみたり、といった自分の思い切りのよさに驚かされた。昔は、滅多に使わないものだからこそ、もっと買い替えに慎重になっていたものだ。旅先には絶対に持って行かないもの、というのも判別つくようになってきた。有事にダッシュで走れない靴、ひったくりに狙われやすいカバンや、無駄に金持ちに見える小物、かさばるばかりで体温調節が難しい服、埃まみれのスーツケースを担ぐときに相性が悪いボトムス、装飾のための装飾品、あるいは、分厚い紙の本。

電動歯ブラシは洗面所のコンセントに挿しておくと便利だし毎日使っているが、買ったときコンパクトな持ち運びケースがついてきたにもかかわらず、私は旅先には持っていかない。そんな話だ。また、薬棚には長年かけて咄嗟の応急処置的に買い揃えた風邪薬やビタミン剤がストックされているが、旅先に携帯する常備薬はそれとは別に毎回決まっている。その他のものは本当に必要になったら現地調達するしかない、してみせる、できる。じゃあ、自宅の薬棚に置きっ放しになっている薬は、いったい何なのか? 水着でもないくせに夏のプールサイドでしか着られないペラペラ素材のあの服は? 一枚で穿くと太って見えるからと鏡の前で重ね着を試して毎回あれこれシルエットを工夫しないといけないパンツは? ものすごくたくさんあるのにどれもがどれも少しずつ擦り切れかけているユニクロの靴下は? デスクに置いてある分には素敵だけど取り回しの不自由な変形サイズのスケッチブックは? 置物? 住空間を豊かにするためだけの、用途のない、置物? ハァ? いや、身につけるアクセサリーや食器、宗教的意味を帯びた小さなお守りくらいまでなら旅先に持って行くこともあるけど、床置きのオブジェ?? 居間のコーヒーテーブルに投げ出しておくためだけに買われる大判写真集??

究極、10日近い旅程のためにスーツケースの中にしまわないものとは、向こう10年の人生のためにも、わざわざ溜め込む必要はないものなのではないか。一方で、袖口がダルンダルンになっても毛玉だらけでも、ラストミニッツで毎回必ずスーツケースに放り込んでしまうTシャツや羽織りものがあるのなら、それこそがどんな愛着あるドレスより人生に必要なものである。どうしても断捨離ができない人は引っ越しをするとよい、というのと同じように、ときめき基準で片付けができない人は、荷造りをしてみればよいのだ。

二年半前の渡米時、思い切ってあれこれ断捨離した、あの頃は「NYでは究極ミニマルに暮らすぞ」とのたまっていたはずなのに、最近はまた簡単に捨てられないような物を買って溜め込んでしまっている。でも、次の荷造りを始めれば、また必要なものと不要なものの区別に意識的でいられる。毎年のように住む場所を変えるわけにはいかないけれど、毎年どこかへ旅をし続けることはできるし、そうすると、ホームである場所もまた、一種の旅先のようになる。どうにか背伸びして「いつも旅ばかりしている」キャラを獲得すれば、たとえば「いつも同じ服ばかり着ている」キャラも許される。だって旅装ってそういうものだもの。手ぶらでも、虚礼を排しても、先の約束をしなくても許されるし、身軽に動けば動くほど、行った先でレアキャラとして珍重されたりもする。いいね、いいことづくめだね、しかも『ポーの一族』みたいだ。

先日とある高名な舞台俳優が、地方公演を終えた後の、片付けていっさい物がなくなった楽屋の写真をInstagramに投稿していた。手元には宅配便で送るための、手で抱えられるような箱が二つ三つ。ごく当たり前の日常のつもりで撮ったスナップ写真なんだろうが、一般人が見ると、ちょっとびっくりする物の少なさだ。彼らは「毎日を、旅するように暮らす」ことに慣れていて、板の上ではあんなに重い衣装や小道具をつけて何十行も続く台詞を諳んじたりしているのに、だからこそ身軽で切り替えが早い。もちろん自宅は豪邸で、置物や大判写真集にあふれているかもしれないが、そこには長くとどまらない。

その写真を見て思い出した。私は昔、うんと幼い頃、そんな働き方そんな生き方をしている人たちのことを、漠然と「怖い」と思ったりもしていたのだ。移動遊園地や放浪の旅芸人に魅了されても人攫いについていくことまではできない家付きの暮らしをする子供。あの『ファンタスティックス』のヒロインみたいな感じだ。でも今は、ある種の職業人が持つ「身一つで世界のどこででもやっていける」働き方への憧れが、ないものねだりではなく、共感を持って身に宿っているのを感じる。「おおー、この舞台俳優が二つ三つしかない箱の中に詰めている、どこの楽屋にも持って行く必需品って何なんだろう、今後の旅支度の参考に、知りたい」などと思う。まだまだ実態は伴っていないけど、移動しながら何かをする、というのは私にも不可能なことではないようだ。そう感じられただけでも、「ずっと荷造りをしている」ような暮らし方には価値がある。

というわけで、正月早々、初のマイアミ、女子二人旅へ行ってまいります! 渡米二年半にして初めてのサウスビーチウォークだよ! 冬の日のマイアミだよ!……って、我ながら己のマイアミという土地に対するイメージが、小室哲哉および小沢健二由来のものしかないことに震えるね……。