202303_TokyoTower

2023-04-01 / 春の塔

公開日記の再開。と、日記を書くたびに「再開」宣言している。本当に続かない。どうにかしたい。頑張ってみよう。もうしばらくは学校に通ったり会社に出勤したりする生活には戻らないので、私には年度初めなど無い。自分で自分の区切りを作らねばならない。

4ヶ月ほどの日本滞在を終え、3月16日のフライトでニューヨークの自宅に戻ってきた。荷解きをして、大掃除をして、断捨離をして、不在時にアパートメント全体で発生した水漏れ事故の事後処理など立ち会って、日用品の買い出しをして、ちょっと仕事もして、時差ボケを直しつつ、着物を着てMoMAまで出かけたりもしたが、家から一歩も出ずに終わるような日も少なくなかった。3月後半の2週間があっという間に過ぎる。

NYはまだ日中気温も平気で0度近くまで下がる。ダウンタウンでは道行く人の大半が冬物の黒っぽいダウンコートなど着たままだ。しかしその下はブラにレギンス一枚でヘソ出しだったりもする。そうそうこの感じ。日本の人々は四季の移ろいを先取りして服装で表現する感覚にじつに鋭敏で、東京滞在中は私も「こんな素材にこんな色味の服はもう季節外れになって着られない」などと厳しくセルフチェックしていたし、2月末以降は春物しか着なかった。しかしこの街では、その日その日の気温を尺度に、冬でもタンクトップを着たり夏でもブーツを履いたりするほうが多数派だ。

私はどちらの考え方も嫌いじゃないので、中間を攻めながら衣替えをしていく。四季を基準にするよりは、「外套が要るほど寒い季節の服」「サンダルを履くほど暑い季節の服」「その中間の季節の服」くらいに分けて考えるのがいいようだ。これは着物の「袷」「夏物」「単衣」の考え方とも相通じる。捨てにくいかさばるアイテムが増えるのは「袷」カテゴリでも、着回しのために拡充しておくべきは「単衣」カテゴリのほうなのだ。無地の羽織りものとか、吸湿性が高くシワになりにくいニットとか、高級感あるプレーンなアイテムを増やすのがいい。とか言いつつ、堆く積まれた安い派手柄キャラものTシャツの山を前に途方に暮れている。あと半年で何枚着るかねこれ。


昨年の日記が9月で止まっているのは興味深い。ちょっと体調を崩した時期で、しばらく認知行動療法を体験するアプリに課金していたのだ。朝起きてから夜寝るまで一日中ずっと行動の記録を取り続けていると、そちらにかまけて他で日記を書く時間が取れない。当時はこれ(と瞑想)が精神安定に非常に役立っていたのだが、日米それぞれの住まいでは生活様式やルーティーンがかなり変わるため、東京に着いてからは通知をオフにしていた。コロナ禍以降、冬は日本で春夏は米国という二拠点生活がだいぶ落ち着きつつある。始めた当初は一時的な緊急避難という意味合いが強かったけれど、今となってはこれこそが「日常」で、何であれ、そちらを基準に考えたほうが理に適っているようだ。

認知行動療法アプリのプッシュ通知を切った代わり、DayOneで「認知行動日記」と名付けた自作の習慣化プログラムを始めたら、これもなかなか効くような気がしたので、今も継続している。DayOneはもともと非公開日記を書くために使っていたはずが、最近すっかりこちらのチェックリストの占める比重が大きい。となると、文章としての日記はそれはそれで書いておかないと、という気分も上向いてくる。

ライフログがすべてではないけれど、ライフログがうまく回らないと、日々の立脚点も怪しくなる。非公開日記ばかり増えすぎるのも精神衛生上よくないと、すでに身をもって経験済みだ。誰にも見せない文章を書くという安心感から、いくらでもネガティブで攻撃的な内容を綴ってしまい、その綴ったネガティブに、誰からも見えない死角で他ならぬ自分ひとりが静かにズブズブと溺れていく。だったらキラキラSNS投稿してlikeを稼いで、這い寄るクソリプやスパムアカウントを仮想敵としてバシバシ駆除していたほうがよほどマシ。

ずっとそんなことを考えながら、1998年からもう25年もの間、誰にも求められていない、たとえば商業的価値などは皆無だけれども、自分としてはどうしてものっぴきならぬ心理で公開せざるを得ないと考えている、この至極どうでもいい日記をだらだらと書いている次第。少なくともあなたは読んでいる。それでいい。

これは本当にその通りだと思います。個人的な話、私はかつて「ブログ」を書きたかったのにどうしても「日記」になってしまい、それで、はてなダイアリーやmixi日記を使っていたわけだが、結局Twitterの形式が一番しっくりくる。何にしっくりくるってつまりは「日記を書きたい気持ち」なんだよなぁと。
https://twitter.com/tarareba722/status/1593886461941583873

続)先日ひどく気鬱になったタイミングで話題の認知行動療法アプリを試してみたのだが、あれも結局「日記を書く」習慣をつけるツールなんだよな。そして、私の中に元から備わる「日記を書く」元気が戻ってきたら、その習慣づけのツールは要らない、というか、遠回りな気がしてくるのが不思議だったな。

続)裏返せば私にとって「日記の書き方を忘れてしまう」状態が、一番わかりやすいセルフネグレクトなのだろうとも思う。鍵付き日記帳に毎日コツコツ同じフォーマットで書くのは続かないが、その日の出来事を人に読ませるために書き残すことは、最も心理的負担無く他者と繋がる方法のように感じられる。

続)「虚構を書く」というと小説のような創作をものするようで難しく感じられるが、「実際にはAさんとBさんと Cさんに会った日でも、密かに想いを寄せるBさんと会えた喜びだけを大切に書き残す」みたいなことは、誰でもしているんじゃないか。実験記録や行動メモと違って、日記でならそれが許される。

続)ものすごく不愉快な出来事があった一日の終わりに「おいしいシュークリームを食べられたから、今日はいい日だ」と書くこともできる。私は子供の頃、学校から絵日記の宿題を課せられるのが大嫌いだったのだが、先にそうしたセルフケア的効能を教わっていたら、もう少し楽しめたんじゃないかと思う。

2022-11-19 / https://twitter.com/okadaic/status/1594092170050666496

もう少し別の理由もある。今ある書き下ろし本の準備とは別に「そろそろ小説を書いてみたらどうか」と声をかけられ、まずはメモをとるところから始めている。創作は趣味でしか書いたことがなく、十数年以上ブランクがあるので、構想の練り方から忘れている。正直、ろくにメモすら取れていない。エッセイを書くためには伝えたいことの整理整頓ができないといけない。小説を書くためには自分の中に混沌とした感覚を持ち続けていないといけない。この違いからしてわからなくなっている。

最終的に整理整頓してアウトプットするエッセイのためのメモなら、どんな殴り書きでもいいのだけれど、最終的に混沌とした、というか、起承転結はさておき序論や本論や結論が「無い」状態へと「整形」する作業が待つ小説は、ふわふわした詩的なメモをいくら残しても形にできない。材料と完成形がほとんど真逆。そうそう、そうなのだった。こんなことから忘れていたな、と反省して、とにかく何でもいいから書き続けることにした。この日記は、その一環でもある。ま、10年後くらいに何か出せるといいですね。気長にお待ちください。


さて近況。友達の友達として秋に知り合ったばかりの薬真寺香さんと着物の話で大いに盛り上がり、京都きもの市場「きものと」の連載に「着る人」として登場した。ロケ地はなんと東京タワー! 軽い気持ちでリクエストしたら塔の内外でたくさん撮らせてもらってよい思い出になりました。言ってみるもんだ。仕事だか遊びだかよくわからない仕事って本当に楽しい。おかげさまで週刊アクセスランキングの首位にもなったそうで嬉しい限りです。中年期の自意識との闘争、まだまだ続く。

軽やかに突き抜ける春カラー feat. 岡田育「きもの、着てみませんか?」 vol.5-1
https://www.kimonoichiba.com/media/column/929/

ニューヨークの着物、東京の着物。 文筆家・岡田育さん(インタビュー前編)「きもの、着てみませんか?」 vol.5-2
https://www.kimonoichiba.com/media/column/938/

着物でつなぐ”斜めのシスターフッド” 文筆家・岡田育さん(インタビュー後編)「きもの、着てみませんか?」 vol.5-3
https://www.kimonoichiba.com/media/column/939/


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