2023-04-04 / 『ジェーンエア』配信

……ってことは、観劇の感想も、日記に書くの!? 何年ぶり!? めちゃくちゃめんどくさくないか!? 机に向かって書くなんて信じられない、芝居の感想なんてもうずっと酒飲んでるときや寝ながらしか書いていないのに。でもまぁ宣言したからにはやらんといかん。トホホ。

ミュージカル『ジェーン・エア』を配信で観た。4月2日だったかな。原作は言わずと知れたシャーロットブロンテ、脚本作詞演出がジョンケアードで、作曲作詞にポールゴードン。主催は梅田芸術劇場+東宝。上白石萌音と屋比久知奈がW主演で、役替わりでジェーンエアとヘレンバーンズを演じる。東京芸術劇場での公演をLIVE配信のちアーカイブしていたのだが、たったの48時間であまりにも短すぎる。両バージョン観たかったのに萌音ジェーン版しか観られなかった。先に観て、私はたぶん屋比久ジェーンのほうが好きなんじゃないかなと思っていたので、観比べができず残念だ。せめて一週間は欲しい。
https://janeeyre.jp/stream.html

松たか子の話から始めさせていただきたい。本作は2009年と2012年、松たか子ジェーンに橋本さとしロチェスターという配役で上演されている。私は日生劇場で2012年版を観て、非常に感銘を受け、たしか何度か通い、今では「推し」となった舞台衣装家・前田文子の名を胸に刻み、心から再演を切望していた。Wikipediaのこの項目を読むと夢遊病に冒された自分が書いたのかと思う。

松は2時間45分程の舞台にほぼ出ずっぱりであった。その圧倒的な存在感と22曲を熱唱する演技で深い感動を呼び、第35回菊田一夫演劇賞を受賞するなど賞賛を浴びた。両脇に観客席を設けた広い舞台上には枯れた巨木が影を落とす荒涼とした大地が広がり、屋敷の装置は登場せずにその開放的な空間で物語は展開する。観客の想像力を重視する、ミュージカルとしては大胆な演出であった。再演の呼び声が高い作品としても話題となる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%A2

松たか子のジェーンエアは素晴らしかった。私は10代の頃に原作をフェミニズム課題図書のようにして読み、翻訳が古かったせいか、「不美人なガヴァネスが偏屈な貴族のオッサンに見初められて玉の輿に乗るも屋敷が焼け落ちる話、身寄りの無い女の孤児が雇われ先でストックホルム症候群に陥って歳の離れた男と結婚する話、何が楽しいんだ?」と、正直びたいち共感できなかった。30過ぎて本作を観て、ほとんど初めて「こ、こんな話だったのか!」と不明を恥じ、以後の再読では、ジェーンエアといえば思い浮かぶのはずっと、前田文子の衣装を着てすっくと立つ松たか子なのである。

長い長い原作を信じられないほどの駆け足でどしどし進むミュージカルの展開は、賛否が分かれるところだろう。とくに原作小説に思い入れが強い観客にしてみれば「なんでそこを端折るんだ!」の連続だと思う。私は『レミゼラブル』の民だけど、や、ジョンケアード、もしかして有名作品の潤色、苦手……? と訝る数作のうち一つ。2023年の再演版は、そのあたりが悪いように出ていた気がする。少なくない初見客が「これなら『ダディロングレッグス』やればいいのに」と言っていて、まぁ、このキャストでこう上演したら、そうは言われる覚悟は要るよね、と私も思う。

だが、2012年版の松たか子は素晴らしかったのだ。出てきた瞬間からどちゃくそブサイクでずっと不機嫌である。愛だの赦しだの祈りだの知ったこっちゃねえわ、という強烈なオーラを放ち続け、どんな境遇においても怒りの炎が燃えて消えることがない。グッドガールでなければ天国に行けないと言われれば「健康で長生きする(死なねえ)」と言い返す女性である。どんな方便だろうと絶対に嘘はつかない女性であると一目でわかる。そして、「私がもし男に生まれていれば、つまり、女に生まれていなければ、こんな目に遭うことは絶対になかった」と確信し、だがそうとは露骨に口に出さず、地味なドレスを着たまま構造的差別や理不尽と闘争する、毅然とした女性である。

性格ブスではあるかもしれないが、ワガママではない。地上で誰かが己を呼ぶ声につねに耳を傾け、いくらでも献身的に自己犠牲を厭わない責任感の強い女性でもある。死にゆくヘレンバーンズと抱き合って眠ったのも、したいからでなく「すべきだから」とった行動で、神の御もとへ旅立つことを望むヘレンが天に召された朝も、当然ジェーンは生き延びる。今はまだ「その時」ではないと彼女自身もわかっていて、だから神と対話しながらも荒野をずんずん進むのだ。そして最後には遺産相続というかたちで、どんなロースペックな相手とも自由恋愛が可能な経済的自立を手にする。別に勝負ではないのだが「勝った〜!」と快哉を叫びたくなる。

梨園に生まれた才能ある女の俳優が、声を荒げることなく舞台発声のまま難曲を歌い継ぎながら、ずっと怒った顔したまま、そんな主人公を淡々と演じる凄みが伝わるだろうか。2012年当時の私は「『ジェーンエア』っていうか、あれはもう松たか子版『ラマンチャの男』だよ、ワイもロチェスターになって松さんに抱かれてえ……」と完全に夢女子と化していた。本作に特定の狂言回しは存在せず、ヒロインの一人語りを目まぐるしく入れ代わるキャスト全員が語り継いでいく。さまざまな「声」の重なりすべてが、しかし最終的には松たか子という一個の女性に統合されていく。逆に言うと、松さん以外は歌舞伎の黒衣のようにすべて「空気」と化す。それが演出意図として正解か否かはわからないが、私はそんな「松さんのジェーンエア」が好きだった。

さて、ようやく、上白石萌音のジェーンエアである。ここまでお読みになった皆さん、私が思い出の中でどんどん美化されていく松たか子の勇姿と比較しながら、同じ役を演じた萌音ちゃんのことボロクソに貶すんだと思ったでしょう? 残念! 貶しません! なぜならカワイイからです!

もちろんキャストが発表されたときは面食らった。ともに実力派とはいえあんなにかわいい萌音ちゃん屋比久ちゃんを本作の中心に据えるのは、あまりにイメージが違いすぎる。もっと愛希れいかとかだろ(『マリーキュリー』もおすすめです!)。しかもロチェスター役が井上芳雄である。マジで? あの、顔は良いけど吹けば飛ぶような存在の軽さだったオッサンを、黄泉の帝王トート閣下が? 橋本さとしならば自由自在にオーラ消すのも大得意だからいいけど、芳雄じゃプリンス感が強すぎない?

結果として、嫌な予感も的中しつつ、嬉しい裏切りもある上演版だった。まず、ジェーンの幼少期を演じる子役と並んだ萌音ちゃんが、萌音ちゃんまで子役に見える時点で2億点加算。松さん版で「え? ヘレン死んでから孤児院で何十年経ったの?」と戸惑ったあの子役と本役の切り替えが非常にすんなり運び、新しい家庭教師を迎えるフェアファックス夫人が「まだ子供じゃないの!」と悲鳴を上げる一幕のシーンでは観客全員が「そうなんです!」と拳を握るし、だからこそ二幕の「小娘ソング」では「そうなんですぅぅぅぅ!」と大号泣してしまうのだ。春風ひとみ様、全編にわたってほんと最高。

後ろ盾の無い女の孤児は自力で居場所を見つけねばならないし、家庭教師や家政婦頭はメイドほど低い身分ではないが使用人ではあり、そしてフェアファックス夫人のように威厳や貫禄で武装しなければ務まらない仕事だ。学があっても世間知らずな娘が働きに出るのは、現代では想像つかないほど「危うい(vulnerable)」ことだったのだとよく伝わる。松さんはアウェイの勤め先でも気に食わねえババアは片手で捻り殺すぞって雰囲気だったから忘れてたよ……。何度も繰り返されるあの「いま、自由が、自由こそが欲しい」という涙腺決壊フレーズを歌うたび、どんどんレベルアップして強くたくましくなっていく松ジェーンもよかったが、こんな子が本当にちゃんとラストシーンまで辿り着けるのか? と心配になる萌音ジェーンにもぐいぐい引き込まれる。

それを実感するのが次の億単位加算ポイント、イングラム家の女性たち(春野寿美礼、仙名彩世、水野貴以)との対比である。スラーッと背が高い美貌のタカラジェンヌ演じる貴婦人たちが、品のある姿でどちゃくそ下劣で愚かしい態度をもって家庭教師を見下していると、「なるほどこれは、『背が低い』女はそれだけで『ブス』扱いを受ける、そういう『序列』の世界線なのだな」という視覚的説得力が凄まじく、2023年版はここの解像度が8Kハイビジョン。えー、ソンナコトナイヨー、萌音ちゃんだって美人じゃーん、みたいな生ぬるい話ではない。たとえば、華やかな応接間から逃げるように出ていく小柄なジェーンをロチェスターが連れ戻す場面の二度見するほどの身長差は、そのまま二人の住む世界(階級)の落差と見えるのだ。一方で、初めて出逢ったときのロチェスターは足を怪我しており、ラストシーンでもまっすぐ座れないほどヨレヨレの障害者で、ジェーンが脇の下に潜るようにしてそれを抱き止め肩を貸す光景は、はじめから一個の魂であったかのようにぴったりと重なり合う。

「松さんじゃなきゃイヤだ〜」と駄々を捏ねていた私、一幕半ばで「配役の勝利だな……」と黙ってしまう。一人きりになれる部屋に帰って誰にも見せない肖像画を描き続けて嫉妬心と向き合う上白石萌音もよかった。なるほどこう見れば、恋愛など一度もしたことがないこじらせ女子のオタク仕草、と見える。松さんが同じ場面を演じると「え、なになに、それどんな黒魔術? 丑三つ時に老トチの大木にまとめて五寸釘で打ち付けると屋敷の全員呪い殺せるやつ?」とワクワクしてしまっていけない。そんな話ではないので。

と、さんざん褒めたので残念だったところも書くと、やはり井上芳雄のロチェスターが、相手役としては文句無しだが、本作全体のバランスにおいては、ちょっと「力」が強すぎるんじゃないかなー、と思った。セット以外の演出は松版とそう変わらないはずなのに、どうしてこうもラストシーンが「ジェーンエア 〜最低最悪のオレに舞い降りた愛の天使の物語〜」みたいなダサい副題ついて見えちゃうのか。違うんだよ。主役はジェーンなんだよ男は「空気」と化せよ。最後においしいとこ全部持っていく井上芳雄は『二都物語』でお針子とやってほしいんですよ(再演お待ちしています! 私もお針子になりたいのでオーディション受ける!)。

まぁでもこれは配信のカメラワークもあるかもしれない。最後、勢揃いする登場人物の中で、屋比久ヘレンバーンズが中央奥に立っている。その姿は美しく清らかなようでいて、「そうよ、許すのよジェーン、これにて洗脳完了ね」じゃないけど、神の使いとしての一種ゾッとするような迫力があって、とてもよかった……のですが、抱き合う男女カップルの後方で文字通り「見切れ」でしか拝めず、残念だった。中井智彦シンジュンもとてもよいキモさが出ていたと思うのだが、いかんせん他の場面のどこで何してるか把握しづらく、満を持しての登場とは見えず。結婚式で大澄賢也メイスンが出てきたときも「居たの!?」となった。そりゃ居ただろ。もっと自由な視野で観劇することができれば、こんな不満はなかったかもしれない。芳雄が芳雄すぎてマイナス2億点と思ったが、ジプシー女の歌で3億点くらい加算されるしね。

もっと演出とか演技とか歌とかミザンスとかの話をすべきなのだろうけど、さっきから俳優の具体名を挙げながらひたすら配役の話ばかりしていて可笑しい。これを芝居の感想と呼んでいいのかわからない。けれども、ひょっとしたらジョンケアードという演出家は、作家である以前に「素材の味を活かす」ことが上手い人ということなのかもしれない。秘伝のブラウンソースを12時間煮込む料理人ではなく、魚市場を見てOMAKASEの筋立てを決める寿司職人みたいな。そしてそれが日本のスターシステムとも合っているのかな。

私はずっと「ジョンケアードが作ったジェーンエア」が大好きなのだと思っていたのだが、あれは「(ジョンケアードに役とのマリアージュを引き出された)松たか子」が好きだっただけなのかもしれない。別のネタは別の味で供される。二度と同じ寿司は握られない。どれも不味いわけではない。そんなふうに感じた再上演版だった。視聴期間さえ長ければ屋比久ジェーンも観たかったなー! と思うくらいにはいい作品でした。


追記:大きな声では言えない手段で松版の動画を見返してみたら(言ったも同然だろ)、権利関係なのか、松竹(松田直行)→梅芸東宝(今井麻緒子)で日本語訳詞が大幅に変更されていて結構びっくりした。共通する箇所もあるし差分を取ると原詩がわかる感じで、別に甲乙つけるものでもないように思った(というか正直、逆はさておき旧版の松たか子が新版の訳詞で歌うのも観たくなった)が、後者の担当が今井麻緒子と考えるとこれもまた出演者ごとの「アテ書き」に近い作業だったのかもしれず、ますます「寿司職人」という印象が強まる。


The Governess by Richard Redgrave, 1844.