27日は曇天、もうすっかり夏だな、と言っていたはずが、また日中気温が10度前後まで下がってふたたび「寒い春」が戻ってきた。とはいえもう冬物のコートには戻りたくないので、レインジャケットにショートブーツなどでごまかす。ニューヨークはこういう中途半端な気候の期間がとても長い。Tシャツ短パン姿の人々とダウンジャケットにいマフラーぐるぐる巻きの人とが混在している。
午前中から家まわりの用足しに出掛け、ふらりと「Rubirosa」の前を通りがかると、週末はいつも大行列の人気店なのに、店内に空席がちらほら。こんなタイミングは二度となかろうというわけで急遽、平日11時からピザを食べることになる。ピザなのに水道水か? 本当にそれでいいのか? というわけで急遽、昼からビールも飲むことになる。仕方ない。Rubirosaが空いてたんだから仕方ない。14インチのピザをハーフ&ハーフにして一気に食べて12時前には退店したが、店を出る頃には店内はもちろん満席、店外もデリバリーやケータリングの引き取り順番待ちで大行列になっていた。
我々が入店するとちょうど同時に会計を済ませるおひとりさまの客がいた。洒落たスーツを着た恰幅のよい初老の白人男性で、カウンターでグラスワイン、14インチのマルゲリータを半分近く残してチップを書き込んでいる。つまり10時台からピザ屋で酒飲んで昼飯代わりとしたわけだ。早朝から動く業界で働いていて今がもう仕事上がりなのか、それとも遠方からゆっくり都心に来てこれから重役出勤するところなのか。粋なのか野暮なのか。よくわからないが、どうやらこれがモーニングルーティーンで彼は常連の馴染客らしく、いちげんさんの我々とは店員の態度もちょっと違う。
それで話していたのだが、NYにおける老舗のピッツェリアというのは、東京における老舗の江戸前蕎麦の店に近いのではないか。どちらも都市型生活者の需要に合わせて独自進化を遂げたファストフードにしてソウルフードである。保存のきく完全食とする向きもあるが、だからこそ店としては供したてこそが最高のコンディションと自負しており、放置しておけば劣化して魅力が半減する。家で食べるならまだしも店で食べるならば、二時間も三時間もかけて席を占領しながらダラダラ長居するのは愚の骨頂、「とっとと食っとくんな!」と怒鳴られたらそれは完全に客のほうが悪い。サッと席に着いてパッと注文してサクッと食って帰るのがあるべき姿である。立ち食い形式の店舗も多い。おひとりさまも大歓迎だ。そして、昼酒にぴったりでもある。
午前中から酒屋の隅で角打ちというのはまぁ褒められたものではないが、蕎麦屋で早めの昼を摂るときに前菜代わりに軽くつまみで一杯やるのは何の問題もない。問題ある? まぁでも午後の仕事に支障無ければよくない? 自慢じゃないけど私は一杯二杯くらいの飲酒はパフォーマンスにまったく響かないので、東京滞在中は蕎麦屋で一人で昼酒、しょっちゅうやる。夜に飲みすぎたことはあるが昼に飲みすぎたことはない。11時に退店したスーツの男性もへべれけという感じではなく、コーラを飲むくらいなら白ワインを飲む、というだけの様子だった。なるほどな、この街ではピザ屋が蕎麦屋なんだな、と納得した次第。
ドラマ『unknown』第二話を観る。今回は麻生久美子オンステージといった様相。どの場面を切り取っても美しくかわいく危険で厄介な女っぷりがすごい。
それにしても、泣き疲れて寝た娘のスマホを勝手にロック解除して娘の婚約者に連絡を取る母親とか、非番の日に自分の手を触るように促してそれを「公務執行妨害」だとして勤務中の婚約者を私用で連れ出す交番巡査とか、あるいは汚れた服を脱いでそのまま渡そうとする上半身裸の男性客を視姦してのち息子の服を貸し与えるクリーニング屋の女店主とか、私にはこの世界のモラルがいちいち無理。しかもその「無理」の原因が大半、劇中の必然ではなく「視聴者を(キスシーンや裸体などで)ときめかせるため」の余計なサービスなのが心底つらい。昭和の少年漫画のヒロインのパンチラ並みにつらい。警察官にときめかせたいなら制服着せとけよ脱がせたら台無しだろうが。なんもわかっとらんな。
そんななか、唯一「わ、わかっとるな……」と絶句するのが石川禅(美声)の起用法である(19:40〜)。吸血鬼の宿敵である人間最強の男・アブロンシウス教授を長年にわたり演じ続けている石川禅(美声)に、ちょっと「吸血鬼の仕業だ!」とか言わせたらそれで視聴者が喜ぶとでも思っt、わーいわーい!! 田中圭と吉田鋼太郎を二人きりにさせただけで喜ぶ『おっさんずラブ』のファンがいるように、石川禅(美声)が吸血鬼を追いかけ始めたらそれだけで喜ぶ『ダンスオブヴァンパイア』のファンがいる。安易。しかしまぁ「(吸血鬼は)実、在、する、ぞ」の股関節可動域がおかしい。黄金の背筋の無駄遣い。推しです。でも衣装さん、編集職の曽我眞一がジャケット脱いでジレ姿になり腕まくりをしないなら、アームクリップは、蝶ネクタイと揃いのアームクリップは必須で欲しかったです! 推しが細くてすみません! オタクが細かくてすみません!
この世界線において吸血鬼はどういう立ち位置なのか? が徐々にわかってきた。高畑充希が「人間が牧場の牛にかじりつかないように吸血鬼だって見境なく人を襲って血を吸ったりはしない」とキレたこと、離婚歴五回という設定の小手伸也が「三番目の妻から法律婚の直前にトランスセクシュアルだと告白された」エピソードを開陳したことなど、おそらくは「カミングアウトに勇気が要る、クローゼットとして生きるほうが無難とされているマイノリティ」の示唆なのだろう。ただの「多様性」「歩み寄り」「寛容」を描くのにいちいちこんな設定を作らねばならんの、SMAP「セロリ」(1997年)からずいぶん後退した感ある日本社会。
吸血鬼の世界人口比率が掴めないものの、健康のために水と同量の人間の血を必要とするなら、献血とはわけが違う売血の歴史と問題点についてもきっちり言及してもらわないと困るよな。そんなところには踏み込まないコメディだというのなら、「国際的に難病指定を受けていて特殊な人工血液製剤が認可されている」「現代吸血鬼の日常生活は専門工場製のその製剤で賄え、ポーの村のばらのエッセンスみたいにあらゆる飲料に混ぜて代替となる」「だから、直に生き血を啜るなんてファンタジーである」くらいは、医師である父親から説明してほしかったところ。あと、ニンニク食べると人間が牡蠣に中ったときのようになる、と語られながら、ニンニク入りとニンニク無しの餃子をコンタミさせてギャグのように片付ける実家、マジで無理。寿司のサビ抜きとはわけが違うだろ。アレルギー持ちの人とか心穏やかに視聴できないのではないか。
素朴な疑問だが、虎ちゃんとこころの出会いは「虎松が前妻と住んでいたマンションの部屋に今はこころが一人暮らししている」だったわけで、つまり現在のこころの住居は大人が二人暮らしできるだけの十分な広さがあって、しかも間取り的にも吸血鬼フレンドリー、虎ちゃんが転がり込んで家賃折半にすれば万事解決と思えるのだが、なぜ新婚生活を「新居探し」から始めるのだろうか? 公務員と雑誌編集者なんて高給取りとは言いがたく、挙式費用とか家具の買い替えとかいやでも出費が続くのだから、同棲から始めればいいのに。もしかしてそのあたりが前妻にまつわる虎松の「秘密」なのだろうか。