野田秀樹の戯曲でもっとも好きな作品は?わたしはオイルです
非常に難しい質問ですね。他の演劇人ならともかく「野田秀樹が好きだ」というのは彼自身が好きだという意味なので、作品ごとに好き嫌いや優劣を考えたことはなかったです。日本演劇界において一つのスタイルを確立した歴史に残る人物ですから、私が彼を好きだと言うときは、個別の作品を超えて、あのスタイルそのものを愛しているのですよね。あとはあの顔と声と身体と眼鏡と女のシュミを愛しています。
いや失礼、作品、作品の話ですか。答えになるかわかりませんが、時代ごとにいくつか作品名を挙げてみようと思います。まずは出会い。90年代半ば、高校生だった私は、萩尾望都の関連作品に手を伸ばす過程で戯曲『半神』を読み、大変なカルチャーショックを受けます。当時はまだ「演劇ってあれだろ、唐十郎と寺山修司、蜷川幸雄につかこうへいだろ、時代でいうと70年代で、場所でいうと下北沢だろ、はいはい」程度の認識でしたので……。この名前も聞いたことのない世紀の天才を私だけが大発見してしまったと勘違いしてふれまわったら、周囲の大人たちに「は? 野田秀樹なら昔流行ったからさんざん観たよ。本当に生まれてくるのが遅いよね、君」などと返され、「こんなすごい人を知ってるならもっと早く教えてよ!」と逆ギレしておりました。Google検索などなかった時代の話です。もちろん当時は夢の遊眠社が解散した後なので「観る」ことはかないませんし、といって野田地図のチケット価格に手が届くはずもありません。代わりに、大きな図書館に通ってひたすら彼の過去の戯曲を「読んで」いました。黙読し、時には朗読してみて、果たしてこれがどんな演出を加えられてどんな舞台になっているのか、自分ならどう演出するか、など頭であれこれ妄想している期間が、ものすごく長かったのです。
その中でも、とくに気に入ったのが『小指の思い出』、劇団夢の遊眠社のうちでは間違いなく「もっとも好き」ですね。芝居単体で出来のよい傑作は他にあると思いますが、ちょっと特殊な経緯で、劇場の舞台ではなく本棚から抜き取った紙束の中で野田秀樹を追いかけていた私が、戯曲を「読んで」から舞台映像を「観た」とき、個人的に最も感動の振れ幅が大きかったのは『小指の思い出』です。順番としては小説版『当たり屋ケンちゃん』を読んでから戯曲を読んだのですが、これまた圧倒的に後者が素晴らしい。小説ばかり読んでいた私は、「この人の筆は、演劇の言葉を書くためにあるのだな、そういう作家もいるのだ」と驚きました。やっと念願の『劇団夢の遊眠社ビデオシリーズ』を一気に観ることができたのは、大学のメディアセンターに所蔵されていたから。とりわけ『小指の思い出』は、もう、あらゆるものが私の想像を超越していて……あの、野田秀樹の、素晴らしすぎる女装が、さ……!!!(結局そこか)(結局そこだ) いやもうね、要するに戯曲の内容というより「粕羽聖子」なんですよ。数ある野田秀樹の女役の中で最高に好き。女装が女装のまま女装として最後まで見事に貫かれたあのラストシーンとか、あの似合わない女装でいつもの寄り目になりながら長台詞を唱える姿が、好きすぎる……。最近は『表に出ろいっ!』のおかあちゃまみたいな普通の役が多くて、もっともっとガチで「魔性の女装」が観たいよな、と物足りないのです。
次に、番外公演から『2001人芝居』。これはねー、今でも賛否両論ですけど、私は純粋に感激しましたよ。役者として年を重ね、お家芸たる「飛んだり跳ねたり」スタイルをそのうち自演できなくなるかもしれない、という判断から、あのタイミングで一人芝居を演じきったのは素晴らしいことだと思います。『小指の思い出』が「戯曲で読んだときの魅力を凌駕する舞台」だとしたら、『2001人芝居』は「戯曲で読んでもまったく魅力がわからない舞台」ですね。読み返しても、どうしてこんな作品に当時あそこまで感動したのかまったくわからない、でも、最初から最後まで泣き通しだった。戯曲が書けて、舞台にも立てるから、彼はたった一人でも、肉体と頭脳をフルに駆使して芝居ができる。頭の中に完成された世界を我々観客に独りで見せることができる。作家が私小説を書くように、たった一人で何かを創ることができる。でも、そうはしない。彼は役者(というより、代替可能な芸能人やタレントたち)を使うことを選択した。そのことを一度きり、きっちり観客に見せつけるための一人芝居だった気がします。それではいったい演劇とは何か、天才とは何なのか、これは何と悲しい芸術表現か……といったメタな自問自答を抱いて二時間余。やっぱり作品に感涙したんじゃない気がするな(笑)。でも、床を転がりながらだんだん赤ん坊になっていくシーンでは「私は原始の海になってこの赤ん坊を産みたい」とか思ってましたね。ラブすぎ。
で、野田地図の中から選ぶとすると……難しい! とくに、00年代以前のものは戯曲として好きでも、生でも映像でも観ていない作品があるので……。うーん、今のところは『ザ・キャラクター』にしておきますかね。いつでも新作がかかったらまた最高傑作だと思ってしまうだろうけど、「日本語」が中心にある「翻訳上演不可能」というあの挑戦的な作風にシビレまして、東日本大震災の余震が続く中で観た『南へ』同様、異様に胸に響く作品でした。『オイル』もいいのですが、たまたま観に行くたびに隣の席が藤原竜也ファンでいちいち大変うざかったせいか、劇場で受けた感動より「言葉」が優る感じ。同じ松たか子の出演作なら『贋作・罪と罰』がよかったな、ペットボトル演出のほう。
それから、今回は書きませんが、やはり彼の作風の変遷そのものといいますか、「聖なる少年と俗なる少女」の物語から「聖なる少女と老いゆく男」の物語へ、そして「大きな女と小さな男たち」の物語へ……という、この人の潜在的な主題(と私が勝手に解釈しているもの※)の移り変わり(を勝手に解釈すること)が一番の楽しみなので、新作を観るとき、大きな大きな流れの中で紡がれる物語が「ちゃんと一本につながっているか」ばかり考えてしまうところがあります。個別の作品は結構どうでもいい。映画なら一人の監督が似たような作品ばかり撮っているとマンネリと批判されそうなものですが、演劇や純文学ならそれでも問題ないというのは、面白いものですよね。その意味でも、今は「姉が弟を探す」物語としての『ザ・キャラクター』が好きです。そう考えると『南へ』の主題はちょっと流れを逆行した感じがありますね。まぁでもせっかく蒼井優チャン起用したらあのように使いたい、というオッサンの気持ちもわかるから嫌いじゃないよ。いやもう何かこういう話は書きはじめると本当に本当に長くなってしまうので、またの機会に!
※たとえばここで言う「主題」というのは、宮崎駿作品における手描きでセルに描き殴られた「幼女最ッ高ォォォ!!」という魂の叫びとか、ウディアレン作品における二時間続く「俺は悪くない」という主張、みたいなものです。