そういえば14日の朝、久しぶりに大作の夢を観た。大戦下のヨーロッパ、多国籍軍の特殊部隊が急拵えで養成されるのだが、この養成機関は設立当初から何やかや陰謀が絡んでいて、いろいろあって中間管理職以下の若者たちが組織ぐるみで離反することになる。逃げ出すためには前線の要所要所に散逸した自分たちの亡命用ビザをもぎ取りにいかねばならず、諜報活動のフリをしてそれぞれが目的地へ向かう。もちろん虚構の任務の途中で命を落とす者もいるし、自分の命運を決める重要書類が手違いで同胞のものと入れ替わっていて、それをまた危険を冒してお互い交換しに行ったりもする。あらすじだけ書くとシリアスだが、制約の多い戦時下ゆえに国境をまたぐ複数経路のうちどれを選択するか悩む場面だけでももどかしく、「はじめてのおつかい」風のコメディタッチにもなる。中盤、唐突な一人称視点のミッション過程が描かれ、その視点がじつは(組織に止まると言っていた)中間管理職の教官のものだった、というのがオチ。……そんな映画を夫と二人で映画館で観賞するのだが、終映後に「なんで最後の船にあの鬼教官も乗ってたの?」と訊かれて、夜道を家まで帰りながら「この世には叙述トリックというものがあってだな」と、伏線回収の説明をしてやる、という夢。
昔から、夢の面白さには自信があるのだけど、夢の面白さを語る言葉がまるで追いつかない。きっと映画にしたら面白かろうな、と夢想されつつ絶対にそうは実現されない一人だけで見る夢が、今夜も世界中で見られているのだ。夜は遅ればせながら『バードマン』を観て、これまた(夢の中ではなく現実の)夫がラストの解釈に混乱しているので「長回し技法があそこでブツ切れてまた長回しに戻るということは、夢オチではないという意味だ、というか、そこの技法と物語の意図が噛み合っていないのならそれは駄作であって賞なんか獲らない」と解説をする。でも、軽く感想をぐぐったら結構トンチキな解釈もされているのだな。私の感想は「演劇人みんな頭おかしい」に尽きる。
ジムへ行ったのに工事で閉鎖されていた。じゃあ数日前にわざわざ届いた「工事をするけど期間中も閉鎖はしないよ!」というメールは何だったのか。本当に君たちは仕事をした気になるのが得意だな。結構ぬるい陽気で、普段は陰気な街角のスーパーマーケットが、松明のように眩しい照明をガンガンに焚いて、通り道を塞ぐようにして花束を売っている。クリスマスツリーを売る露店と同じノリ、酉の市みたい、これがバレンタインデーの風物詩。バケツからガンガン取り上げられてどんどんラッピングされていく薔薇の花。大きなプレゼントの包みを抱えて仕事帰りの家路を急ぐ伊達男たち。フォー屋のカウンターでは、つるりとした顔の年若い白人男性とアジア系女性が店内BGMにあわせて愉快なカラオケ大会を始める。「今日はバレンタインデーだから何でも好きなものを食べに行こう」「わっ嬉しい、じゃあフォーにしよう」「えっ、君たち東洋人女子って本当に汁麺が好きだよね」という聞いてもいない会話を想像する。ユニゾンで歌っているだけでも可笑しいお年頃。
15日、チキンソーセージの昼食。「chalait」という抹茶を出すコーヒースタンドを知る。建物のピロティ(って死語?)部分に堂々とカウンターを渡していて、居心地いいけどwifiはない。というか、私の使う「ピロティ」って誤用だな! と何度でも驚く。玄関ホールのこと。30丁目のGregory’s Coffeeでノマド。四角い木箱を横に倒したような、ものすごく座り心地の悪いベンチしかなく、これは大学構内などと同じで「長居をするな」のサインなのだけど、そういう場所に居座るのが案外作業がはかどったりもする。昼夜と外食が続いて、今夜はカモ。カウンターで談笑している女性が、Jean Jullienの「先生は背中にも目がついてるぞ」コート(そんな名称ではない)を持っていた。持ち主が座っている間も膝にかけたコートがこちらをヌボーッと見ていて、やっぱりインパクト大。欲しいなー、でもだいぶ上級者向けなので、我慢。「あいつらどうせ、NYFW(ニューヨークファッションウィーク)のためだけに見せコートを買うような奴らだぜ」と悪態をつく。
16日、またあれこれ新しいBLを読む。最近、腐女子だとかそうでないとか以前に、もはや「若者をターゲットにした物語」に乗り切れないのを感じる。象徴的だった作品が『かつとし』で、いろいろ考えさせられた。最初は全部「MediaMarker」に感想書こうと思ったけど、あんまり数を多くすると読書記録として破綻しかねないので、印象に残ったものだけにするとルールを決める。いやー、じつは、期待して買ってめちゃくちゃ駄作だった漫画があって、心底ガッカリしたんだけども、そういうのってもはや記憶から消したいレベルなので、記録もしないほうがいい。同じ作者の新作と出会ったときに、新鮮な気持ちで読むためにも。
金曜なのでかなり早くからワインをひっかけて早々に帰宅、20時半くらいから朝日杯の藤井聡太×羽生善治戦、天彦名人の解説を聴きながら、テレビではミュートで平昌五輪の男子フィギュアスケート、羽生結弦待ち。羽生と羽生とで若き天才を観るのに忙しない。
朝日杯、他に道があったかはわからんけど、後手番羽生さん大失着のとき生中継全体がその場で「ギャッ」となって、それで慌てて画面上部に表示された真っ赤(先手優勢)な評価値を伏せたの、なんか、悲しみしかなかった。今日初めて将棋中継を観るような人にも、それが一発でわかるようになっちゃったのだよな。これこそが「観る将」の望んだ世界とはいえ……。序盤、まったくルールを知らないような視聴者に向けて幼稚園児仕様の言葉で解説しようと努めて比喩に比喩を重ねて余計に話が複雑になっていたのとかも、不思議な感じだった。ルールを知らない人にこそ、「天彦&山口が検討に熱中するあまりサービス精神をかなぐり捨てて瞬時にぽんぽん指し手候補を挙げ、追いつけなくなった周囲を振り切ってってしまう様子を、ただ耳で聴くだけでも愉しいよね」の境地を体験させてやるのがいいと思うのですが。ここ10年に想いを馳せる。
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NBCのフィギュア中継はとにかくすごい力の入れようで、CMから紹介映像から控え室から何から「米国勢+羽生」というセットになっている。実況が演技を邪魔しない静かさで、何をしても褒めちぎるのが大変よいのだけど、派手にコケたときとかもアナウンサーが失笑したりするのが凄いカルチャーギャップ。羽生結弦の陰陽師、日本の外から眺めるとマジで一層怖い。選曲と演出と衣装だけなら、ハビエルがドンキホーテやるのと意味は同じはずなのに、なんだこの得体の知れなさは。そして宇野昌磨のマリウス役者み……ミュージカルクラスタのオタクがどんどんフィギュアへ流れていくことの動かぬ証拠み。日本金銀おめでとうございます。そして力尽きて寝て起きたら藤井聡太が六段になっていた。忙しないね。
ネット上のQ&Aで、「岡田育にWikipediaページがないのはなぜか?」というのを見かけてちょっと笑う。「あるほうがいい」という前提で話が進んでいて「小物だからだよ」という回答がなされているのだけど(本当だね)、私がサイトのメンテナンスなど頑張って積極的にABOUT欄などに必要情報を開示したり古いものを閉鎖したりしているのは、密かに「Wikipedia的なるものに好き勝手な項目を立てられないように」だったりする。別に立ったって構わないんですけど、もし立ったら私自身が鬼のように編集に手を入れてしまうのが火を見るより明らかだからだよ。週刊誌が俺について書いていることは全部嘘だぜ。