佐藤初女さんに教わったこと(あとで推敲)

本日の乙女美学校、1年生クラスは仕事により欠席。
2年生クラスはゲスト講師が憧れの佐藤初女さんということで
すべてを投げ捨てて出席いたしました。
よかった……本当にすばらしいお話だった。

贅沢にも、実習で初女さんがにぎった、あつあつのおにぎりをいただく。
びっくりするほどおいしい。
嘘だと思われたらそれまでだが、本当に、こんなごはんは食べたことがない!

心を亡ぼすと書く「忙しい」という言葉を、私はなるべく使いたくない。
たぶん子供の頃から、ほとんど口にしたことはないはずだ。
世の中には私よりももっと、自分の時間を犠牲にして働いている人たちがいる。
私よりももっと、誰かのために倍速で生きている人たちがいる。
こんな、私利私欲のため社畜に身をやつして、他人の不幸を礎にするような仕事を
お金をもらってやったうえに「忙しい」と言うなんて、おこがましいにもほどがある。

でも私は、誰かに会うたびいつも「忙しそうですねー」と言われる。
言われるたびに「本当にそうだ」と自己嫌悪に陥って、会社行きたくなくなる。
今の私にできるのはせいぜい「忙しそうに見えないようにする」ことくらいで、
それはただ自分をよく見せたくてしているだけのことで、
私が本当に求めている「忙しくなく生きる」こととは、根本的に違う。

で、今、お茶を淹れながらこれを書いている。

10月は出張が続き、仕事は山積み、ブログ書いている「暇」はなくて、
とにかくただ「忙しい」毎日が続いている。
散らかった部屋。干したままの洗濯物。夏用シーツを敷きっぱなしのベッド。
買ってから1ページも読んでいない本と、ゴミになった漫画週刊誌。

お湯を沸かすとこんなに時間がゆっくり流れるのだということを
やかんを火にかけてから、お湯が沸くまでの間が、こんなに長いということを、
私はずっと忘れてしまっていた。かなり末期的症状。

出張先でも、1人でスイートみたいな部屋に泊まって、
梅茶を淹れたのに、すっかり冷めるまでそのことを忘れてしまっていた。
非常に贅沢な時間を提供するという謳い文句の宿だったのだが
さっぱり効力がなかったので、宿というより自分に失望して帰ってきた。

「私1人くらいゴミを分別しなくてもいいだろう、という考えではなく、
他の誰もがやらなくても、私だけはゴミを分別するのだ、という
絶対に揺るがない強い意志をもって、行動してほしい。」
環境問題の話になって、彼女はこんなふうに言った。
「人の見てないところではゴミを分別しない」(=社会性のみで己を律している)
低級な人間性しか持たない私にとっては、これが一番、心に響いた言葉だった。

深夜に玄関のベルが鳴る。救いを求めて、誰かが「イスキア」の戸をたたく。
すでに床に就いた初女さんは、内心、困ったなぁと思う。
「でも、神様ならきっと行ってお開けになるだろうと思って」玄関に向かう。
たとえキリスト教信仰がなくても、彼女のように生きることはできるはずだ。
最上の人にならって最上のことをする、最上の選択肢を出し惜しみせずに選ぶ。
個人的なことだが、昨日この慌しい毎日へのひとつの回答が出た。

なんでこんなに慌しいんだろう? という小さな疑問が寄せ集まって、
何のためにこんなことをしているんだろう? という大きな疑問になった。
矢も立てもたまらず献血しに行くと少し心が落ち着いた。(献血の話はまた書く)

「救われる」「役に立つ」とはどういうことか。今はそれにとても興味がある。
あらゆる行動の規範に、「私はそれを望んでいるだろうか」を超えて、
「神様はそれをするだろうか」と問うことができればと思う。
命をいただき、生きとし生けるものの一番上に立ったとき、
その視点に立ったときとるであろう同じ行動を、この地上でとれればと思う。

お茶がはいったので推敲は後にする。

あ、私はミッションスクール出身だけどキリスト者ではないですよ。
キリスト教は私にとって「父親」でした。幼年期には“憧れの絶対権力”、
思春期には“反抗の対象”、親父越えした後は“長所だけ真似したい遠い人”。

先生の荷物に佐藤春夫の『病める薔薇』復刻版があったよ。
あまりにも物欲しげに見ていたためか「欲しいの?」と訊かれたが
今は、物を増やさないというのが最大の命題なのでぐっと我慢。
我慢のためにここに書いておく。

私は、私が欲しいと思うもののすべてが欲しいわけではありません。
世界にそれが存在しているというだけで私は満足なのです。
自分だけのものにならなくたっていいのです。物も、事象も、男も!ww