ここ1週間くらいで私の同性同世代はみな半袖なのにブーツ履き始めた。ブーティも多い。通勤電車の中で毎日カウントしてます。一日平均3〜4ブーティ。
どんなに風が強くても
私は働きにいかなくちゃならない
どんなに飛ばされそうになっても
私はこの仕事にしがみつく一日のうちのたった三分の一
そしたら残りは私のものになる
一生のうちのたった三分の一
そしたら残りは私のものどんなに外がまだ暗くても
私は働きにいかなくちゃならない
明るくなるのを待ってたら
私は仕事に遅れてしまう
眠る時間は短いのに
働く時間はなんでこんなに長いのだろう三分の一と三分の二が
私には逆さまに思える手に傘を持っているのは
今日は雨になるってラジオで聞いたから
どんなに空が晴れていても
そんなときは誰もが手に傘を持っている
午後から雪になるって聞いたら
たくさん着込んででかけるわいつも天気とちぐはぐなかっこうをして
働く人は街を歩いているイタリア語で歌うオペラの鳥が
窓から風にのりとびこんでくる
朝の通りに立つ人たちは
みんな緊急の行き先を持っているそんな朝の張り詰めた空気が
(友部正人「働く人」)
マイルドな風に変わるころ
やる気のないからっぽの町が
ぼくにおはようとあいさつをする
会社組織というやつに属してからというもの、ライブで「働く人」を聴くと文字通り涙を禁じえない。勤務がだらしなく長引いて帰る夜も、午前中に約束した人からの電話で飛び起きた正午も、起きられないから眠らずに過ごしている夜も、すがすがしく目覚めたのにすぐ訪れる出社の時刻にも、この詩を、よく口ずさむ。失礼でない程度に化粧したり、スーツや革靴をを新調したり、取り越し苦労をたくさん詰めた重い鞄を持ち歩いたり、電話の応対に敬語を使ったり、何も考えず頭を下げたり、すでに満腹なのにオッスごちそうになります! と言ったり、そんなことは本質的でないし下らない、と言う人もいるだろう。でも言おう。下らなくない。だって、そしたら残りは私のものになる。自分のものでない時間を知らない人は、自分の時間をどうやって知る?*1
この詩はけっして“ニートの優越感”を歌うものではない。*2 社畜乙、という話でもない。長い長い「私=働く人」の独白から「ぼく」へと視点を切り替えつつ、自分が働く姿の「ちぐはぐさ」に自覚的であることが、世の働く人にとっていかに大切か、を歌っているのだと思う。あるいは、平日休みの喜び、中身が片方に寄ってしまった弁当箱のようなからっぽの町のこと。この詩を口ずさむと、一日のうち三分の一、働きながらにしてそれが思い出せるのだ。
男性週刊誌の女性編集者を主人公にした『働きマン』アニメ版の主題歌は、永遠の女の子・PUFFYが歌うユニコーン「働く男」だった。『働きマン』は労働の充実をこそ生きがいと説く。それに編集者は仕事と遊びの境界が曖昧なんだから本望じゃん贅沢じゃん、と人は言う。でも(あの漫画もあの曲も等しく好きになれない)私は思う。職種がどうあれ三分の一は三分の一、三分の二は三分の二。一日の三分の一が3倍輝いてれば三分の二は多少くすんでいてもいい、とか、輝いているのが三分の一なら、それを三分の三にすれば人生全体が輝く、とか、そんな合理的な発想、私には無理だ。たとえば八頭身美女でもひどい偏食だと途端に“美”から遠ざかって見える*3ように、働く時間とそれ以外の線引きを明確にしない人は、不健康さから逃れられないのではないか。残りの三分の二にマイルドな風を吹かす。それでこそプロフェッショナルじゃないのかとさえ思ってしまう。
友部正人の「働く人」は、三分の一を知ることによって初めて残りの三分の二を知る感じが、同じユニコーンでも「すばらしい日々」のほうに似ている。「のこりはーわたーしのーものー」と歌う恍惚は、「すべてを捨てて、僕は、生きてるー」と歌う恍惚に近い。「生きる」ためなら人は「すべてを捨て」られるのだ、そして「何もせずに眠る眠る」。どちらも、悲しい歌のように聞こえるけれど、歌うとなぜだか元気が出てくるのが不思議。
そうして、勤勉な友人たちに「怠惰な性格だなぁ」と、よく言われる私。