夜店の金魚すくいでとってきた金魚を、「そのうちちゃんと死ぬように」飼った経験はないだろうか。私には、ある。それほど寿命が長くはないと知っているから、昨晩まで元気だった水槽の中の金魚が今朝あきらかに弱っていたら、ああ、私はいつか死ぬ命を、早く死なせるために飼っているのだな、と思い知らされる。
いつまで生きるかではなく、いつ死ぬかを数えるように生き物に接した経験は、誰にでもあるはずだ。今日、部屋を飾る花も、明日には生ゴミになる。わかっていて摘んでくるのだから、伊東きよ子「花とおじさん」さながら“生命が枯れるまで”という期限付きで愛でているにすぎない。少し残酷な気分になる。そうした居心地の悪さと、誰もが苦労して折り合いをつけているのではないか。
金魚や花の「生」を奪うことは、腕に止まった蚊をつぶすよりは罪悪感がある。でも、人間を殺すよりはずっと罪悪感がない。楽しむために生かし、楽しむために殺して、「しょうがないじゃない」と納得するしかないのだ。
「私が楽しく生きるためには、ある程度の生き物には死んでいただかないとね」
という考えで、日々を暮らしている。ただ生きて死ぬはずだった他の動物に対して、人間は容赦なく手を伸ばす。もうちょっと脂をのせて、美味しく食べるために。もうちょっと長く咲いて、その邪魔な枝葉ははらって、目を楽しませるために。もうちょっと生きて、もっとかわいがりたいから。ミノや丸腸を鉄板でじゅうじゅう焼けば食欲がわく。ウサギも鴨やアヒルも馬も、動物園で見ればかわいいし、食べれば美味しい。水族館でペンギンを見れば、隣の水槽で泳ぐのとよく似たお魚さんが3時のオヤツにもぐもぐ食われている。寝室でハムスターを飼っている人も、台所にネズミが出たらバルサンを焚くだろう。焼肉屋さんも水族館もバルサンも、「私たちのより豊かな生活のため」にある。
わが家では、室内で飼っている子猫に、避妊手術を受けさせた。万が一、孕んでしまったら、生まれた子猫は飼えないし、殺すこともできないと思ったからだ。
動物病院から帰ってきた猫は、びっくりするほど眼力が萎えていて、それ以後、彼女の眼に避妊手術前の光が戻ることはなかった。その夜は、覚悟していた以上に、家族みんなで凹んだ。盛りがついてギャーギャー叫んで走り回っていたころの眼のぎらつきこそが、彼女の「生」だったのだ。私たちは彼女を愛玩したいがために、それを奪ったのだ。痛感させられた。
飼い主の身勝手で、この猫は“雌”を奪われ、生まれて産んで殖やして死ぬ、という生命の環からはずされた。子猫を産めない彼女の、動物としての「生」は死んでしまった。私たちが殺した。そうまでして動物を飼っている、という後ろめたさに初めて気づいたのだった。もちろん猫自身はキョトンとした顔で、今日も自分が生きるためだけに、もりもりごはんを食べて、ぶくぶく肥えているけれど。
ふつうの猫は、野良に生きてばんばん生殖してポックリ死んでいく。でも「私たち人間は」店で買ったり道端で拾ったり餌付けをしたりして、その、もうひとつの道にあるすべてを、飼い猫から奪う。「人間の」生活上の都合で、愛玩したい生き物の本来の姿をいじくる。なんでそんなことするかって? 「愛玩したいから」だ。
避妊手術を受けさせた後、「人間がペットを飼うって、こんなにねじれた行為だったのか」と出口のない矛盾にショックを受けた。だから、「飼い猫チャンをかわいいと思うなら、避妊させるのが当たり前ザマショ」という考え方には違和感をおぼえる。まるで猫の権利や主張を守っているように見せて、ずいぶん勝手な「人間の」物言いではないか。
坂東真砂子さんは新聞のコラムに、猫を避妊させることは「神の領域だ」と書いている。それをしたくないから、「生」のおもむくままに子猫を産ませてやって、そして飼えない子猫は「飼い主が」殺すのだ、と。
坂東さんの主張すべてに賛同できるわけではない。けれども、彼女が書きたかったもどかしさは十分に伝わってくる。飼い猫をあらかじめ去勢・避妊させる段階で、生まれたての子猫をガケから突き落とすと同等の“痛み”を感じている人が、いったいどれだけいるのか? それとこれとは別次元の話だとでも思っているのか? と。
坂東さんは、自分の行動が批判や法の裁きを受けてもかまわない、と書いている。ところが彼女は今、エキサイトした匿名の読者たちから「死ね」などと罵りの言葉を投げつけられている。子猫を殺すような作家は死ね、という皮肉な話だ。死ね? 命を何だと思っているのか? これでは議論にすらならない。
彼らは、もしこれが「猫」の話でなかったら……まだ肉のやわらかい仔牛や仔馬を崖から突き落とすと言ったら、「食べ物を粗末にするなんて」と怒るのだろうか? 猫は避妊させるのが「当然」で、「殺すくらいなら飼わなきゃいいんだ」と言えばすべての議論が片付くとでも、思っているのだろうか?
「人間はいくら悩んでも悩み足りない」ということに、私たちは、もっと自覚的であるべきだと思う。
返歌を書くとしたらこんな感じなのでは。
東大模試の小論文模範解答のように「しじみ」。
http://d.hatena.ne.jp/doller/20060823/1156325269
小さな社会の中できちんとモラルを守ることは大切ですが、
野良猫を増やさないというのは、ゴミを分別したり回覧板を回したりするのと同じ。
ただのモラルで、資源回収の曜日と同じように、所属集団が変われば変わるもの。
そして「あなたが」別の生き物の生を奪うことへの免罪符にはなりません。
隣近所に迷惑がかかるとか世間体が悪いとかそれだけの理由で自動的に病院へ送って
「うちは避妊させてるんだからいいザマショ」というのは、違うと思います。
たとえ、行為として現代社会の中で“(なすべき=)正しい”ことであっても、
そうした安易な思考停止を私は“(間違いがない=)正しい”とは思えません。