footer_image

2020-01-08 / キラキラ権

Instagramだけを追いかけている人から「いつも世界中を旅行していて素敵!」「仕事も遊びも華やかな毎日!」「キラキラ!」とか言われる機会が増えて笑止千万である。人って騙されやすいもんだよね。いつも言い訳している通り、私のInstagramアカウントはだいたい一ヶ月遅れくらいで更新されている。昨年の後半はとくに更新が遅れて、9月に行ったあいちトリエンナーレの写真が、まだまだちっとも投稿し終わっていない。一泊二日の愛知行きで撮った写真を三ヶ月以上にわたって更新し続け、合間に10月に行った新装開店MoMAの写真を上げると、「日米を股にかけて行き来するアーティスティックな人!」の出来上がりである。

今月1月中旬からは日本出張が控えているのだが、その手前までにはどうにかして、12月に旅行したパリの写真を投稿しはじめないといけない。と、思っているのだけど、そうするとまた「先週はパリにいたのに、今週はトーキョー!? スゴーイ!!」となってしまう。アホか。また「いえいえいえいえ滅相もない!」って謙遜プレイすんのか、やだなー。

同業の友人に、アイスランドとかキョートとかプラハとかカリブとか行きまくっては、彼氏がプロクオリティの超広角レンズで撮影した上に本人がPhotoshopでレタッチしたと思しき、めちゃくちゃセレブな絶景セルフィー(彼氏が撮ってんだからセルフィーじゃねえだろ)だけでInstagramを埋め尽くしている女の子がいるのだけど、私は彼女の本物の日常が明日をも知れぬフリーランスグラフィックデザイナーであることを知っている。数日の弾丸旅行でどっさり写真を撮っておいて、どうせ普段は在宅作業の合間にそれを整理して投稿することだけを楽しみにしつつ、毎日パジャマ同然の格好で働きながら引きこもりのような生活をしているんだろうが。ソースは俺である。

でも、目を輝かせながら「ジェットセッター!」とか言ってくる人たちの表情は嫌いじゃない。リア充の意味で使われる「キラキラ」という言葉、あれは、本人が輝いている状態というよりは、受け手のほうが目を輝かせている状態を指す擬音なのだ。「すごくないよ」と否定するたび、そこに発生した「キラキラ」をぶち壊してしまって申し訳なくなる。トリガーの私には何の権利もなく、受け手のほうにこそ著作権が生じているはずの「キラキラ」を、どうして私が好き勝手に打ち消せるなどと思い上がるのだろうか。

そんなことを考えていたら、最近は「本当は冴えない日常を送っているんだよ、と投稿するインフルエンサーが逆に人気」だったりもするようで、しかしその「冴えない日常」というのがまた「すっぴんの、笑顔ではない、他人が撮ったプロクオリティのセルフィー」のことだったりもして、なんかもう「無造作ヘア」「こなれカジュアル」並みの高度さで、私にはまるで力加減がわからない。


1月中旬に日本行きます、という告知をするはずが、話が脱線してしまった。行きます。ただの正月帰省で、イベント出演情報とかはとくにないのだが、TBSラジオ『アフター6ジャンクション』には出させていただくつもりです。あとは梅田芸術劇城へ行くよ。会えたら会いましょう。


7日、新年最初の着付教室。初伝講座の折り返し地点、名古屋帯の結び方。ホリデーシーズンを挟んで約一ヶ月ぶり、その間まったく着物を着る機会がなかったため、長襦袢を左前で着かけるほど何もかも忘れてしまっている。しかしさー、「左前」って言葉、混乱のもとじゃない!? だって着るときに「前」に来るように動かすの「左手」じゃん!? 先生は「右下左上」と繰り返してくれるのだが、これも主語がない。なんかもっと「衽が右に来るように覆う」みたいなチェック項目にできないもんですかね。

私は半幅帯と袋帯だけで名古屋帯を持っていないので、先生のを借りて締める。割と上手に締められた。上手に締められるとほどくのが惜しくなるんだけど、二時間かけて二、三回ほど練習して、感想は「着るのはこんなに大変なのに脱ぐのは一瞬だよなぁ」。悪代官がくるくるくるくる帯を解く「帯回し」、あれはそれ用の結び方があるんだそうです。そりゃそうだ、普通の二巻きのお太鼓とかじゃ、ああはならん。

夜は友人のエンゲージメントパーティーへ。少人数の集まりの中で、国際結婚の場合ウエディングは挙式の場所と回数をどうするかという話、コスプレ写真はなるべく撮っておけと言う話、そして後半は、子供の話と、離再婚によって増殖する家系図の話など。初対面の相手に、私の結婚の顛末をはじめとする普段のパーソナリティが今一つ伝わっておらず、場がずっと「結婚したら子供は作るものだよね」「日本では未亡人が早くに再婚するとはしたないと言われるものなんだよ」「離婚でも死別でも親が代わるなんて子供がかわいそう」といったコンセンサスで進む。

「うちは子供を作る予定がない」「不幸から立ち直る時期を支えるパートナーが必要だという考え方もある」「就学児童ならまだしも、老親が成人済みの子供たちに遠慮して再婚を控えるのはナンセンスだ」「家族といえど独立した個人であるべき、子供は親のものではなく、親は子供のものではない」といったカウンターの意見を加えたいものの、センシティブな会話になると圧倒的に英語力不足。全部茶化した表現になり、ものによっては第一声を聞いた相手のギョッとした顔に怯んでしまい、二の句が継げぬまま会話を切り上げてしまった。今になってここにウジウジと日本語で書き付けている。凹む。

まぁ、おめでたい席で論争を起こす気もないけど、めっちゃ意見ありますよって状況でニコニコ笑うことしかできないのもつらい。帰途、懐かしい疲労を感じて、それは「話を合わせるのが仕事」とされていた日本社会の接待飲み会を終えた後の感覚に似ていた。もちろん、会自体はいい会だったし、友人たちの婚約については心から祝福しているんだけどね。それとこれとは別、これは私の、私だけの話なのだ。