2020-01-05 / 無正月

4日は小雨。韓国料理「Oiji」で大学同窓生たちと新年会。やっと正月らしいことをする。同じ街で働いている人、結婚して遠方へ引っ越すかもしれない人、東京へ帰ったけど今も頻繁にアメリカに来る人。人生さまざま。最後は健康トークになる。「ヨガでは痩せない」「有酸素運動は気休め」「武道か茶道」など金言続出。人類全体の寿命が伸びてしまい、思ったより長く生きることになりそうな私たち、働き方より休み方に気をつけて、アウトソーシングよりセルフケアでやっていくしかないのよな。言ってるそばから肌荒れがひどいのでTheOrdinaryのアイテムを買い換える。

5日朝から急に冷え込んできた。淡々と机に向かっているけれども全然捗らない。まったく正月っぽくない正月、すなわちアメリカンな正月を過ごしたことに、何か誇らしい気分でいたのだが、単純な作業進捗だけ考えたら、初詣行っておせち料理食べてゴロゴロしていたのと変わらない気もする。

ゴールデングローブ賞授賞式、横目でチラチラのはずが、エレンのスピーチのあたりから結局けっこう観てしまった。もう観た作品もまだ観てない作品もあれこれ賞を獲っていた。『FOSSE/VERDON』の録画をためっぱなしにしているのがさすがにまずい。オーストラリアの山火事と気候変動、合衆国大統領とスレイマニ司令官殺害、飛び交う時事ネタのなか、Awkwafinaのアジア人初受賞、すごいな、我がことのように嬉しい。きれい、かわいい、面白い、全部獲りに行っていいんだよ、我々も。

信じてもらえないと思うけど、大晦日に鮨食ってカウントダウン観ただけで、明けてからは初夢も見ず初詣も行かず、学校行って働いてたら、正月がめちゃくちゃ平日のまま過ぎた。去年までは自宅で餅焼いておせちつついてゴッコ遊びしてたけど、ようやく実感がわく。ここは日本の正月ではない(今更か)。

続)「本当にみんなそんなに何でもない正月を過ごしているの???」と思って、今回初めて郷に入っては郷に従ってみたんだけど、本当に……何でもないな……サンクスギビングやクリスマスとは大違いである……日本国内の旅先で迎えた正月ともまた違う、心地よい「無」のカルチャーショックがある……。

続)月に移住して「ここでは月見団子が無い……!」となる感じ。まぁ海外旅行先で正月迎えた経験者には今更でしょうけど。去年まではうちも黒豆とか数の子とかちゃんとやってたので、試しにやめてみると、ギャップが……「我々にとって正月とは何か? 結局、雑煮のことなのか?」と自問してしまった。

続)ニューヨークの民も大晦日カウントダウンパーティーは派手目にやるんですけど、一月一日には何の厳かさもなく、たぶん一番似てるのは「ハロウィーンの翌日」なのかな。どんちゃん騒ぎのゴミが落ちた道端をのんびり出歩いてるのは観光客や冬休みの学生、店は普通に開いてて大人は割と働いている。

続)あとあれだ、あれに一番似てるわ、実家を出て、友人知人とも当日いっさい祝わなかった、初めての誕生日。「あ、とくにケーキ食べたりせず平日としてやり過ごしても、いいものなんだ!?」という驚き。寂しさよりも「今まで私が誕生日だと思っていたものの正体は何だったんだ?」となる、あの感じ。

続)そりゃあ、特別な日扱いして祝われたら祝われたで嬉しいものだし、当日を厳かに過ごすための各種儀式ってイイな大事だなとも思うけど、でも、そうか「すっぴんの正月」って「平日」なんだな……みんなから寄ってたかって化粧を施されたところしか見たことなかったわ今まで……と感慨深かったです。

https://twitter.com/okadaic/status/1212957736570413057

こうやってTwitterから転載するやつも、昔から試みているけど全然続かないよね。ただ、最近はスレッド機能も定着してきたし、以前よりコピペが楽になっているので、再開してみてもいいかもしれない。今年こそは、さすがに少し、お酒とTwitterを控えよう。「何かブログに転載したらその日は店じまい」というルーティンにするのはどうかなと考えております。

能町みね子『結婚の奴』

毎年のことながら、ここでサボると三日坊主になるので、何でもいいから日記に書き写しておくことにした。自分が出したこともあって「結婚本」をたくさん読む機会に恵まれたが、ここまで「同じだなぁ」と思いながら読んだのは初めてだ。もちろん、能町さんのお相手である夫(仮)はゲイ男性で、家庭の事情は全然違うし、俗にいう「共感」とは異なるのだが。「そうか、私もこういうふうに書けばよかったのだ」と唸りながら読んだ。

能町みね子『結婚の奴』は大変いい本なので、拙著『嫁へ行くつもりじゃなかった』で描写が食い足りねえと思った人は是非とも読んでいただきたい。いや、書いた私自身ですが。自分が「恋愛に向いていない」の一言で片付けてしまった「いきなり婚」の前段階を、こんなに丁寧に書いたものは初めて読んだ。

続)数年前に亡くなった共通の友人が実名で登場する。自分と違って恋愛を堪能している、自分とはまるで似ていない人に対して抱く、恋愛に最もよく似たどす黒い思慕について、そうか私もこうだったのかもしれない、と思いながら読んだ。型通りの幸福にも憧れながら、誰かに何かに「片想い」をし続ける。

続)やっぱり恋愛と結婚はまるで別じゃないか。いや、恋愛と結婚を同時に同じ相手とこなして子まで作る人たちのことも立派だと思いますよ。でも、寝る前のひととき憧れる恋と、なんで死んじゃったんだと好きだった人へぶつける憤りと、ただいまを言う相手を得る結婚とは、分けてみると、こう分かれる。

続)「恋したい気持ち」を完全に手放せたわけではないが、他者との共同生活の中でスッと解放される瞬間はある。結論は同じでも、私が「棚ボタで結婚することになって後から気づいた利点」を、能町さんは準備段階から明確に着実に理詰めで狙って突きに行ってるのが「銛ガール」的でもあり、差が面白い。

続)恋愛感情がまったくない夫になる予定の人と最初に口と口でキスするくだり、「わかるわーーー、うちもこうだったわーーー」と後出しのドヤ顔で共感しながらも、「そうか私、自分の結婚本にはこういうこと全然書かなかったんだよな、我ながらスカしてやがるぜ……」と数年越しで反省会を開きました。

続)雨宮まみさん、私は会うたびに「丸くなったな」と思っていた。初対面の頃はマジで身ィ削っていたのだろうが。私は渡米後ほとんど会えなかったし、最晩年を知る人はまた違う見解かもしれないけど。「幸せになってつまらなくなった」の一歩手前まですべすべに磨きをかけている段階だと思って見てた。

続)そう、一番の感想は「なんだ、我が家も、結婚(仮)でも、よかったのでは……?」です。他にも要素が多いからそこに着目する人は少ないかもしれないが、あちこち理性的でありながら最後「(仮)でもいけるな」という読後感になるのは、大変よい「結婚について書かれた本」だよなと思ったのでした。

https://twitter.com/okadaic/status/1213835475108143110

普段はTwitterにはなるべく書評めいたことを書かないようにしている。深い意味はないけど、2004年に出版社社員になったタイミングで、将来的に自分の業務と重なりそうな分野については迂闊な発言を控えようと決め、それすなわち、活字で書かれた本の脊髄反射的な感想を書くのをやめることになったのだった。漫画や映画や芝居や音楽について萌えを叫ぶのはセーフ、という自己判断。

でも、結果的にここ数年は「漫画たくさん読んでそうだからおすすめ教えてください」「音楽詳しそうだからコメントください」といった依頼が来たり、あるいは「小説の話をするのって珍しくないですか?」と驚かれたりもして、正直それもどうかなと思っている。趣味嗜好にめちゃくちゃ偏りがあるところ、さらに偏ったように見られている気分。2020年は読書記録管理をどうにかしたい。

最近また少しずつ読むことのリハビリを始めているのだけれど、何度も何度も何度でも書き残しておこう、どんな本を読もうとも「これについて今すぐみんなに何か言わなくちゃ!」なんてことはまったく思わずに済んだ、インターネットがなかった10代当時の、あの、あの頃の読書体験に戻りたいんだ、私は。

https://twitter.com/okadaic/status/1175623532543381504

関連して、久しぶりに自分が書いた雨宮まみさんのエントリを読み返してみたりした。『わたしの好きな街』の担当編集者が、「冒頭が雨宮さんと岡田さんの章から始まるアンソロジーを編むことができてよかった」というようなことを言ってくれて、あれは嬉しかったな。四谷でもよく雨宮さんとすれ違ったり、食事したりした。『結婚の奴』には能町さんが駅前の「ロン」で煙草を吸ったエピソードが出てくるのだけど、私もあのまま住み続けていたら「ロン」か「フクナガ」に通って、あるいは「フカツ」の前を通るたびに、繰り返し彼女のことを考えたのだろう。

街の記憶というのは不思議なもので、街並みについて細部を忘れてしまっても、人と人とを結びつける物語に絡めて憶えていることが多い。今、ニューヨークでジャイロトニックのセッションを受けている間、「無」になる直前に思い浮かべるのはいつも、表参道で別のスタジオに通っていた頃のこと。渡米直前、当時は英語の成績を上げることばかり考えていて、今日は根津美術館に寄って帰ろうかしら、なんて余裕もまったくなかった。そのスタジオには何の思い入れもないと思っていた。

でも今は、ニューヨークにいてエクササイズしながら、目を瞑っても歩ける表参道の道程をイメージとして辿ることが、自分を無心に近づけてくれる。その街並みが、毎週のように会いに行っていた人たちが、自分にとって置いてきた「過去」になったからなんだろう。もう通わない道をなぞり、もう会えなくなった人たちを思い浮かべ、頭の中に残っている情報量がちっとも目減りしていないことを確かめる。本当は少しずつ忘れていってしまっているのだろうけど、歌の歌詞を諳んじて憶えるように、何度も反芻している。神棚も仏壇も持たないなりに瞑想している。