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文筆家・岡田育の近況と日記。

2016-11-24 / 雨宮まみさん

 雨宮まみさんについて考えるときいつも浮かぶイメージがある。2011年の年末、初の単著『女子をこじらせて』の刊行に合わせて彼女は、「こじらせカフェ」というゲリラサイン会の告知をブログに投稿した。「特定の日時に喫茶店のテーブルに目印を置いて佇んでいるので、声を掛けてくれれば著作にサインをする」というものだ。
 新刊を買ってカフェへ赴くと、雨宮まみが一人でお茶を飲みながら私たちを待っていてくれる。書店や出版社の仕掛けるフェアとは異なり、彼女個人が一対一で、読者とサシで向き合う。面白いことを考えつく人だなぁと思い、当時勤めていた職場のパソコンでブラウザのタブを開きっぱなしにして何度も読み返した。誰が来るかわからないところにたった一人で立って、何が飛んで来ようとも「個」として受け止め、すべてをその場で打ち返す。そういう仕事を有言実行する人は、多いようで、じつは少ない。
 直接ご一緒したときの楽しい思い出以上に強固なイメージとして、私の頭の中にはずっとこの「不特定多数の訪いを待ち受ける雨宮まみ」の想像図がある。行ったことのない町田の喫茶店の、二人掛けのテーブルが、格闘技のリングのように思い浮かぶ。まるごと真似しようと思ったわけではないし、逆立ちしてもできっこないのだが、それは会社を辞めた後、私が「個」として世界と向き合う際の、お手本の一つだった。

 出版社勤務を経て文章を書く仕事を始めた、という経歴だけなら似ているし、時々ものすごく大雑把に一つに括られることもあったが、それはろくに顔を見比べもしないで姉妹を「似てる」と言うような無礼さであって、雨宮さんと私とは当然まるで違う。同じブランドで買い物をしても選ぶアイテムがこんなに違う。同じスタジオでプロフィール写真を撮っても仕上がりがあんなに違う。同じタイミングで同じ男を好きになっても、惚れた理由や愛し方がまるで違う(※ダグラス・カイエンのことです)。
 一緒にイベントに出演するとき偶然にまったく同じ赤いドレスを衣装に選んだことがあり、お揃いで真っ赤な口紅をつけようね、と示し合わせたのに、私が持参した口紅はクリアなツヤ感あるもので、まみさんはみっちりマットな女優っぽいやつだった。「これは私よりも岡田さんのほうが似合うだろうから」とアクセサリを譲ってもらったこともある。たしかに雨宮さんのテイストとは似て非なるもので、そして私には意外とよく馴染んだ。こんなにまるっきり違う人と、それでも幾つか共通点があるのは、大変喜ばしいことだと思っていた。
 直接親しくなった後も、私にとって雨宮さんは「待っていてくれる」人だった。集合時刻に遅れて文字通りお待たせしたこともあるけど、もうちょっと概念的なもの。対談中、次の発言がばっちり用意されているのに、こちらがとりとめもない話を終えるまでじっと待っていてくれる、とか。誰かと誰かを引き合わせる約束をしたら、全員の都合がつくまで忘れずに待っていてくれる、とか。
 あるいは旅先で買い物を頼まれたとき、雨宮さんに渡す包みが滞在中ずっとスーツケースに入っていて、彼女が東京でそれを待っていてくれるのが嬉しかった。同じ芝居を観て感想をシェアするのも楽しかった。彼女のほうがフットワークが軽いので、一緒に観るとき以外は大抵、私が待たせることになる。とあるタカラヅカの夜公演を観に行ったら、同日の昼公演を観終えた雨宮さんにお茶に誘われ、興奮気味に「んもう、今すぐ観て!」と急かされ、「ええ、今すぐ観ます」とツッコんだことがある。
 今年7月の東京出張中、またしても「今すぐ観て!」と薦められ、東劇でシネマ歌舞伎『阿弖流為』を観た。終映後、建物の外に出て、あー、これ早くまみさんと語らいたいなー、とスマホでメッセンジャーを開いた瞬間、万年橋の向こうからバッチリおしゃれした雨宮さん本人がつかつか歩いてきた。高らかに「ラブ・ストーリーは突然に」のイントロが流れるほど完璧な絵だった。たった十日間の一時帰国でこんな偶然って起こるだろうか、あまりの運命的な出会いに取り乱してキャーキャー騒ぐ私と対照的に、彼女はおっとり笑って「私、連日来てるからさぁ」とサッと夜回のチケットを買った。ちょっとだけ立ち話をして、いくつか先の約束をして、「また、日比谷かブロードウェイか、どこかの劇場前でね」と別れた。私にとってはそれが最後の挨拶なので、たぶんいつまでもいつまでも、とくに東京宝塚劇場のロビーの人混みに、ずっとまみさんを探してしまうと思う。

 私は彼女を待たせっぱなしだった。必死で追いかける局面もあったけど、私のいいかげんさが彼女のひたむきさに追いつくなんて到底不可能なことにも薄々気づいてはいた。多少モタモタしても彼女は余裕で待っててくれるだろうと、甘えていたところもある。あまりに激しく回転しているから、まるで静止しているように見えていた。facebookを開けばいつも彼女の更新がタイムラインの一番上に来ていて、大学のクラスメイトより頻繁に会っているような気さえしていた。
 まみさん、なんで死んじゃったの! 次帰ったときごはん行こうって言ったじゃない! 生誕40年記念祭の話を聞くの楽しみにしてたのに、40歳で死ぬってなんなん!? と言ったら、「ねー、あたしもびっくりだよー!」とからから笑いながら返事が返ってくる、気がする。それもまた私の脳内にだけ描かれた美しすぎる幻である。そんな勝手な「想像図」に満足してないで、なんでもっと自分から動いて彼女に会いに行かなかったんだろう。何度でもそう後悔するんだが、私はいつでも、回転が遅い。
 書籍化を前提とした連載、始まったばかりの新企画、ぷつりと途切れた近況投稿、どれを見てもまるで信じられない。もしも自分で自分の人生の幕を引くとなれば、あの人は全部の後始末を執拗に完璧にばっちり終えていくだろう。芸能界を引退する歌手がステージにマイクを置くみたいな、ああいう派手なセレモニーやるでしょう。いやー、ないでしょう、ないない。遺言状の準備はあったらしいけど、もしものことがあったらパソコンのハードディスクが自動的に爆破消滅する装置くらい仕込みかねないでしょ、デミフレアナパームぶっぱなしたいよねって言ったじゃん。これはない。こんなのってない。らしくない、全然、らしくない。「うっかりかよ!」とツッコミを入れることしかできない。
 東海岸時間で16日水曜深夜、訃報を聞いてすぐ、親しい人たちが一様に口を噤んでいるところへ、奇妙な文面のネットニュースがいくつも流れてきて驚いた。Twitterではそれが拡散されて大騒ぎになっていたけれど、俄かには信じられなかった。あんなに葬式を嫌がっていた人が突然亡くなって、公式発表が出るまで伏せておいてほしいという近親者の意向とともに伝わっているのに、なんでもう軽々にその死が何かの象徴のように報じられ、バーチャル通夜会場で評論の対象になんかなっているのか。信じられない、こういうの大っ嫌い、どうして静かにできないの、冒涜じゃないか、口先ばかりご冥福をお祈りしている連中は本当に彼女の書いたものを読んだことがあるのかよ。と、ものすごく腹立たしい気持ちになった。
 今まで便利なインターネットに甘えていたぶん、他でもないインターネットに手ひどいしっぺ返しを喰らった気分で、電話やメールといった内向きに閉じた連絡手段で共通の知人と話しながら、親指がずっと雨宮まみのトップページをリロードしていた。雨宮まみの急逝について私がモヤモヤ抱えているこうした憤りを、まみさんならもっと的確に言語化してくれると思ったからだ。朝5時まで一晩中リロードし続けたけれども、どれだけ待ってもまみさんの更新はなかった。あっそうか、本人が、死んじゃったからだ。と思い知るのに半日以上かかり、その間に彼女は荼毘に付されていたらしい。この目で見られなかったし、全然実感がない。

 それで、これはどこに向けて書けばいいのかわからないけれど、インターネット上に残っている雨宮まみさんの痕跡が、これからもずっと残されたままだといいなと思っている。「超いい表情だから絶対アイコンにすべき!」と言った写真が使われている、このプロフィール画面を私はまだまだ見ていたい。何か素敵なものにふれて感極まって検索したらずっと昔に誰より早くものすごい熱量で考えられる限りの感想をすべて書き尽くした記事を発見し「またid:mamiamamiyaか!」と何度でも打ちのめされたい。いつも新しく素敵な人たちを次々に紹介してくれて、先日もそのうち一人とニューヨークで献杯したのだけど、私と彼女のfacebook「共通の友人」欄には、ずっとまみさんが燦然と君臨し続けていてほしい。「最初の出会いってたしか2008年で、高河ゆんが描いた『CAROL』の下敷きでしたよね?」と思ってぐぐったら、こうしてすぐに当該tweetが見つかってほしい。
 遺された者の勝手な思い込みや想像図にまさる姿は、本人が書いた一字一句の中にしかない。たとえ出版社の刊行物が絶版になっても、アカウントは「個」のものだ。新規更新の停止が仕方のないことならば、過去ログだけでもソースを眺めていたいし、トラックバックを飛ばし続けたい。もう死んじゃった人に「消えないで」って言うほどアホみたいなことはないし、「私の胸には今も生きている」といった表現でしかない表現もあまり好きじゃない。でも街角でばったり会えないならせめて、インターネットで待っていてくれよ。
 吐き出さずにいるとこのまま美しい妄想の「イメージ」が上塗りされていくばかりで、実際には行きもしなかった2011年の町田の喫茶店にだって、行って会って人生相談でもしたかのような錯覚までおぼえてしまう。でも一方通行のまま「個」を「個」として受け取っただけなんだよね。しなかったこと、伝えなかったこと、そんなものの美しさにこんなに簡単に屈するんだったら、じゃあ物を書くっていったい何なのよ、と、私まで消えてしまいそうな気分になったので、今はわがままに自分の書きたいことだけ書き残しておきます。寂しいです、とても。