2019-01-03 / 初詣

あけてしまいました、おめでとうございます。今年の年末年始はいつも以上にお正月っぽくないお正月だった。12月31日の昼に年越し蕎麦を食べに行き、その後は散歩して外でコーヒーを飲んで、普通の食事を(ほとんど夫が)作って食べて、私はもう何度も観たことのある映画を夫が初めて観るのにダラダラ付き合い、夫を寝室へ見送った後で夜更かししていたら、ズルッと年が明けてしまった。

帰国するわけでもないし、特別な飾り付けをしたりもしない、紅白歌合戦も観ない。あの派手な「日本のお正月」とは全然違う。ちょっとおせちめいた惣菜を買ったり、ちょっと水回りの掃除をしたり、Happy New Yearと言い合ったりはするけれども、毎年一応はテレビで流していたタイムズスクエアのカウントダウンだって、とうとう観ないまま終わってしまった。午前2時、例年よりずっと暖かく、激しい雨が降っており、窓の下にはタクシーがひっきりになしに通って、たまに酔っ払いが奇声をあげてクラクションに応えるのだが、これだって普段の休日の夜とあまり変わらない。

この、普段と変わらない感覚が、逆に新鮮で喜ばしかったりもする。親元を離れてすぐの頃、生まれて初めて「誰とも言葉を交わさずに寝て起きたら元旦だった」というやつを体験したときの、あの静かな興奮がよみがえってくる。もう数年経つと揺り戻しで、日本の賑やかなお正月とか、旅先で迎える特別なお正月とかが恋しくなるのだろう。今はその手前、「何もしない」贅沢を噛みしめている。

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今ちょうど、この「何もしない」時間を大切にしよう、という本を書いている。昨年1年間「大手小町」で連載していたコラム『40歳までにコレをやめる』を書籍化するための作業中。2020年、40歳になるまでに本にしないとシャレにならないので焦っているところ。楽しみにお待ちください。

2018年は『天国飯と地獄耳』というエッセイ集を刊行できて本当によかった。2014年から2015年までの東京と、2016年から2017年までのニューヨーク、自分にとっての大きな境界線を、あのようなかたちで記録に残すことができたのは得難い経験だった。次に出す本はまたちょっと毛色が違うけれど、これもまた一つの節目になるだろうと思う。

渡米した直後、新しい環境を楽しみながらも日々を振り返る余裕がまるでなかった私は、自分はもう日本語で物を書くことはできなくなるのだろうと信じ込んでいた。それでもやっぱり何かしら書いている。不思議。そこには深い意味があるのかもしれないし、ないのかもしれない。そして「あなたが書けなくなるなんてことは絶対にない」と力強く否定してくれたのは、誰あろう、私が書いたものを一行も読めない英語圏の知人たちだった。不思議。それは無根拠な励ましだったのかもしれないし、赤の他人ゆえにアイデンティティをずばりと見抜くような予言だったのかもしれない。別に、どちらでもいいや、と言える図太さだけは身についた。


ところで私が住んでいるこの街には「初詣」に行ける場所がない。日本で暮らしていた頃よりもズルッとした気分になるのは、正月休みの期間が極端に短いこと、クリスマスのような飾り付けの風習がないことに加えて、「初詣に行きたい気持ちの向かう先がない」せいもあるのだろう。

一昨年はニューヨーク市内にある寺と神社(仏教と神道の施設)を探してみたのだが、検索結果に表れた場所がちょっと……こう……想定していたものとはずいぶん違う雰囲気だったので、見なかったことにして終えた。私はまるで信心深い性質ではない。というか、この「初詣がしたい」渇望は、信仰心とはほとんど関係がない。むしろ、年に一度の元日にだけは、宗教的意義すら超えた魂をリニューアルするスポット、どんな神を信じる人であろうと自然と手を合わせて拝むことのできるような「拠り所」が必要だ、という話なのである。

昨年は「セントラルパーク」を初詣先に選んだ。ニューヨークという名の宗教に総本山があるのなら、きっとこの場所に違いないと考えたのである。ところが折悪しく大雪が降った直後で、一面の銀世界はとても美しかったが、めちゃくちゃ寒く、長い時間をかけて散策しながら新年最初の瞑想をするという目論見は見事に外れ、滞在五分くらいで逃げるように帰ってきた。

今年は「自由の女神」を初詣先に選んだ。ニューヨークという名の宗教に御神体があるのなら、きっと彼女に違いないと考えたのである。こちらは去年よりはうまくいった。ちょうど日暮れどきで、バッテリーパークから西に向かって自由の女神像を拝むと、後光のように日の入りを一緒に拝むことができた。帰宅して現像してみたら、どうってことない遠景の写真の一葉にすぎないのだけど、1月1日にこの場所からこの光景を眺めて一年の「ご加護」を願うという行為それ自体が儀式であって、誰かとシェアすることはできないもので、写真に写ったものはどうでもよいのだ。

もののついでにウォール街へも足を伸ばし、昨年11月から常設展示されることになったFearless Girlと記念撮影した。まだ歴史の浅い、広告塔として建てられた像であるにもかかわらず、ちゃんと「御本尊」という感じがあるのが愛らしい。2018年もさまざまなことがあった。(かつて深澤真紀さんとの対談で述べた通り)私はフェミニストを自称できるほどの人間ではないが、それでもあれこれ告発や事件報道などに打ちのめされて、「これが原因で今ここで憤死してもおかしくないな」と思うほどの怒りに襲われたりもした。絶望で死にたくなるのには慣れているが、生きていたいと思いながら心因性嘔吐に苛まれるなんて、生まれて初めての経験だ。「Girl’s Sideに立つ」というのは当たり前のことではなく、つねにその意味を問い続けながら下す判断、掴んだら手放してはならない自由であり権利、漫然と生きるのからは程遠い営み。そして、立つからには、なるたけ笑顔で。

かたや夫のオットー氏(仮名)は、Charging Bullに触りながら「商売繁盛、金運、金運」と唱えていた。数日前に映画『ウォール街』を観てテンションが高まっていたせいか、証券取引所前にあるEQUINOXを見て「ここだけは絶対スカッシュのコートがあるね!」と嬉しそう。たしかにな、絶対したいよなスカッシュ。でも年末にあの映画を観ていなくたって、世界中から集まった老若男女が、2019年の元日にブルの金玉を触ろうと大行列をなして群がっているのだ。この拝金主義者どもめが……! と言いつつも、「ご利益ありそう」という意味ではFearlessGirlも到底敵わない。行列に並ぶほどの情熱がなくタマには手が届かなかったけど、私も前脚を触っておいた。御神体は自由の女神で、金の雄牛はその狛犬のようなもの、恐れを知らぬ少女は道祖神とか、そんな感じ。今年もよろしくお願いします。あんあん。