バードサンクチュアリという考え方がある。鳥たちが自由に「空」を飛ぶことのできる自然を保護するために、人間たちが「地上」の環境をととのえて聖域とする。
昔「バードサンクチュアリの戦争」を空想したことがあった。隣接し対立する二つの国家が、それぞれに鳥たちのための聖域を囲う。国境線を挟んでちょうど隣接し対立するところに二つのバードサンクチュアリができあがり、豊かな森林の緑とじっとり滲む湿地帯に埋もれて金網の柵はやがて腐食し崩れ落ちる。ぼんやりと曖昧になった隣国との境をでは何処に引くのか、両国の首脳がひとつ円卓に座り、広げた大陸地図の上に赤鉛筆で線を書き込むと、利権を求めて地図の上をすべる二つの赤鉛筆は衝突し、切先をぶつけあい、やがて大陸地図の上に赤い血が流れる。
人は紙の地図の上に血を流し、緑は大地の境界を侵しあい、そして鳥は空を飛ぶ。鳥が空を飛ぶ自由のために地上に境界線が引かれ、鳥は地上に引かれた境界線によって誰か人間から空を飛ぶ自由を与えられる。しかし、鳥が空に飛ぶということ自体は、誰に与えられたものでもない。どんな人間が領空権を持っていようとも、鳥はその空に飛ぶ。自由は、いつも誰かから誰かへと与えられる、かたちのないものだ。一方から他方へ風のように流れていく。風が凪いでいるときさえも鳥は空に飛ぶ。
……そんな、加藤登紀子の歌か朝日新聞の天声人語みたいな物語を夢想したことがあった。ああっ、体が勝手に左に傾くの!
もちろん対象となる鳥の種類にもよるわけだが、「おまえを放して自由にしてやろう」と「おまえのために一番すみよい鳥籠をこさえてやろう」では、どちらがいいのか。「自由にしてやる」というのは人間の自己満足で、私なぞ「それまで自由を与えていなかったのか」ってことのほうが気になるし、鳥籠は鳥籠で「一番すみよい」なんてランキングが本当かどうか疑わしい。
でもまあこのさい「鳥のためを思って」などと考えず、自分のしたいようにすることだと思う。←この投げやりさは養老孟司の真似。鳥がそこにいなくても変わらずに鳥を愛すことができるのならば、自由を与えて鳥を放せばいい。鳥に与えたいものが毎日の餌や鳥籠であるならば、それを与えればいい。鳥はそれがそこに存在することで、与えられたものをかたちとして返してくれる。餌に対して糞が返るように。