かたちのないもの

 昨晩寝ぼけて書いていた。物事を真に受けるタイプの方は読まないほうがいい。私たまにこういう抒情でゴリ押しするようなこと書いちゃうからいつまでも人間として大成しないんだよなー。

 かたちのないものを誰かに与えると、それがそのまま自分へ返されてくるような気がしてしまうのでいけない。笑顔や愛情もそうだし、諦めや哀れみもそうだ。それらは一見、交わすものであるように思えるが、その実いつもどちらかがどちらかへ一方的に与えているだけのこと。それが原則。何か見返りを求めて行動してはいけない。もっと言えば「何か見返り」というしろもの自体、かたちなきものである。

 たとえばポケットの硬貨や札入れの紙幣にはかたちがあるが、お金にはかたちがない。ずぼらな友人に貸したままになっている本のように、長い時間をかけてゆっくりといつか自分のもとへ戻ってくるのは、紙幣や硬貨だ。お金は戻ってこない。人のための情けと同様に。誰かや何かにお金を使ったという、行為は二度と戻ってこないし、同額のお金を使い返されることで帳消しにもならない。

 嫌いなものや不必要なものを衝動的に買ってしまった後の、自己嫌悪を通り越した多大なストレスの原因もそこにある。負けに負けた博打が続いた後で、それまでに賭けた金額をすべて奪い返すほどの一度の大勝ちをおさめたからといって、それでその場を辞すことはできずもう勝てないとわかってもなお新しく賭けてしまうのも、眼前に積まれた札束では拭いきれない、かたちのないほうの負債を拭い去ろうとするからだろう。

 かたちのないものを誰かに与えるということは、それはただ与えるということ、奪われるということで、旧時代の芸術家が我と我が身を削って作品を創りつづけるのと同じことを誰もが日常的に一般的におこなっている。自分が振りまいてしまった満面の笑顔はもう回収できないし、皆の微笑に両替して戻してもらうこともできない。他人を蔑めば対等な関係は築けないし、一度諦めれば二度と帰らない。そんな危険なことを繰り返しているのだから、自己犠牲精神でも愛想でもヒガミ根性でも女子高生への援助でも、何かを振り撒きつづけている人がちょっと方法と用量を間違えば、芸術家でなくともからからに枯れた廃人になってしまうことは容易い。