【tkhk】 #002 / 大岩オスカールと快不快の時差

連載『とっかかりはひっかかり』第二回。

ここで何か書くと決めた理由は「Tumblrをまったく活用できていないから」という話をした。私のTumblrアカウントは現在「画像蒐集庫」「絵日記」「買い物メモ」の三種類あって、それぞれ目的は「電子化」である。後二つは用途がはっきりしているから放置したままでも気にならないが、その他のすべてが溜め込んである「画像蒐集庫」はそうもいかない。

私は昔から整理整頓が大の苦手で、一人暮らしのときはゴミ屋敷みたいな汚部屋に住んでいたし、今も清潔に片付けた自宅の中で、他者との共同生活から切り離された私室だけは、腐海のようになっている。よく「机の上は頭の中」という標語(かな? 少なくとも私には学校にある「廊下は走らない」「水を大切に」といった張り紙のように感じられる)を見かけるが、本当にその通り。

共有スペースの片付けは苦手ではない。潔癖性の人たちとは相容れないが、使ったものを元の位置に戻すとか、しかるべき時より早く生ゴミを処理するくらいは、私にもできる。そこそこ社会に適合したかなりの見栄っぱりでもあるし、他者の目に不快感を催さない程度には、空間や、あるいは自分の身だしなみを整える努力も厭わない。普段そんなにしないからといって、別に掃除やおしゃれが大嫌いってわけでもないのだ。

しかし「机の上は頭の中」であって、机上、およびその延長線にある自分だけが使うプライベートスペース、他者との接点を書き込んだスケジュール帳とは別に持ち歩いている無地の手帳、あるいはDropbox内にある仕事には直接関係ないものばかり詰まった「その他」フォルダ、そして頭の中については、まったく整理整頓ができない。こうした場所が「物が無い」「すっきりした」状態になることへの恐怖にも近い感覚があって、何でもかんでも溜め込んでしまう。

いつかまたゼロから探せばいいはずの記事や画像や動画を、なんでも右クリックで保存して「その他」フォルダに格納する。どうせなら「Tumblrで共有」もすればいいのに、溜めるだけ溜め込んで、上からフタをしてしまう。バーチャル空間だけでなく日常生活においても似たようなことを繰り返している。たとえば自宅やオフィスの部屋には、大きめの段ボール箱にそれぞれ数箱分、紙のスクラップが溜め込んである。新聞記事の切り抜き、雑誌の広告、映画試写会の招待状、包装紙、レシート、書き込みの入った地図。たまに虫干ししてみると、自分一人のために紙の状態でとっておく必要はまったくない、溜め込んでいても何の意味もないガラクタばかりで、我ながら呆れる。

結局、これらものすごい嵩のある「その他の資料」というのが「紙の時代のTumblr」であり、マイアカウントの過去ログに相当するわけだが、もうちょっと検索性が高くてもいいと思うし、知らず知らず保管コストがかかりまくっているし、未整理のまま放置していることへの精神的負担も相当なもので、いつかどうにかしなければと考えていた。

多くは10代20代の頃に溜め込んだもので、いま現在の私には、当時の私にどうしてここまでの情熱(という名の強迫観念)があったものか、よく思い出せない。インプットされた情報だけが溜め込まれて、アウトプットの重石となってしまわぬように、ちょっとずつ書いて、過去ログのほうを捨てていくことにする。


2008年に東京都現代美術館で大岩オスカールの展覧会があったようで、それに関するスクラップが幾つか出てきた。なんとかいう東京都にある美術館の広報誌(名前失念)だと思うが、《ガーデニング(マンハッタン)》の一部を縦長にトリミングしたページが残されている。
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/10.html

《ガーデニング(マンハッタン)》2003年、東京国立近代美術館蔵

当時の出来事をいくつか思い出した。時間の都合がつかず展覧会へは行けなかった。正直、そこまで観に行きたいとも思わなかった。実物以上に、印刷されたこの作品に関心を抱いたからだ。

とっかかりは、美しさだった。「なんだかわからないけど、きれいだな」と思って目に留めた一枚の絵は、よくよく眺めてみると、マンハッタンの街並みの上に色とりどりの花が咲いて、水面の睡蓮のように、動かない雲のように、漂っている光景だった。それでタイトルは「ガーデニング」。なるほど納得。

半日も気にかけていただろうか。作家名と作品名を憶えるだけならスクラップする必要もないな、と一度は捨てかけた冊子を、やっぱり思い直してそのページだけ破りとった。職場で見たのを憶えているから、たとえば朝に届いたその冊子を開封して、昼休みにごはんを食べて戻ってきて、一仕事終えてふと時間の隙ができたときにゴミ箱から拾い上げる、くらいの時間経過はあったと思う。

「きれい」だからではなく「気持ち悪い」からだった。その数時間の間に、私の頭の中にはびこった《ガーデニング》のイメージは、「きれいな絵」から「気持ち悪い絵」へと醸成されていた。

「コンクリートジャングルで空を見上げることもなく忙しく働いている顔のない人間たちの上に、虹がかかるようにして幻の花が咲き乱れている、誰にも気づかれぬまま、誰かが手入れしている花壇のように。自然に咲いたものではなく、野にあふれる美しさを集めた箱庭のように」……そんなイメージとして記憶にとどめたはずなのだが、繰り返し、繰り返し、思い出しているうちにそれは、

「摩天楼の写真にケバいカビがびっしり生えたみたいな絵」

というキャプションとともに、私の頭の中に住みついてしまった。一度そう認識してしまうと、もう元のイメージには戻れない。昼ごはんを消化している胃袋にとって大迷惑なほど強烈なインパクトである。冊子を拾い上げてふたたび実物を見てみると、同じ絵なのに、やっぱり触るのもはばかられるほどキモい。捨てたはずの「快」が「不快」になって頭に住みついたので、仕方なく、やっぱり実物もスクラップして保管しておくことにした。

このときは作品について何の予備知識もなかったのだが、今思えば、作家本人も気持ち悪いのを承知で描いていると思う。こちらが公式サイトに掲載されている《ガーデニング》シリーズ。マンハッタンはまだかわいいほうだが、《Flower Garden》(2004)あたり、ガチである。腐海だろ。
http://www.oscaroiwastudio.com/oscar_website/gardeningseries/gardening.php

もちろん、カビがなんでも不愉快かというとそんなことはなくて、菌類には菌類の「美しさ」や「神秘性」がある。カビだってアートだし、テクノロジーだ。これについては『菌類のチカラ(Super Fungi)』というドキュメンタリーが面白いのでおすすめです。
http://vimeo.com/54527501

さておき、インプットされた「快」であるはずの情報が、脳内で「不快」として定着する感じ、とくにその「時差」が非常に興味深かったので、この絵のことはずっと忘れずにいた。どこからともなく飛来した胞子が、私の脳の皺と皺の間にちゃっかり菌糸を伸ばして、そこを菌床にすることに決めてしまうまでの時間。私のほうでは美しい花を迎え入れたはずが、気づいたときにはカビが生えていて、でももうそれを除去することもできなくなっている。


大岩オスカールつながりで、他に面白かった連想を二つ。一つは《ガーデニング(マンハッタン)》と同時期にスクラップしたものが一緒に発見された、2007年のアニエス・ワイルダー『超重力 無限再生ジャーニー』展のDM。

《The End》(2004)を使ったもので、今ぐぐったら<壁と壁とのあいだ約6メートルに、角材を組んだ六角柱が渡してある。釘とか接着剤を使わずに、角材をギュッと圧縮した力だけで支えているらしい。>との端的な説明があったので、コピペしておく。

これはこれできれい。で、何が可笑しかったかというと、《ガーデニング(マンハッタン)》と一緒に別の大岩オスカールの絵もスクラップされていて、それが《カラスの巣(Crow’s Nest)》(1996年)だった件。

2008年の春、私の頭の中では、「黒っぽい木材を組み上げた不完全な球体」を目にすると、とても好もしい「現代美術」と見做す、そんな現象が起きていたのだろうな、ということがとてもよくわかる。点と点を結ぶと線になる、線をつないで面にすると、そこに載るものすべてが、そのように見える。

まだカメラ付き携帯電話+コンパクトデジカメの組み合わせを持ち歩いていた頃だが、当時の写真フォルダを漁ってみたら、たとえば街中で見かけた「黒っぽい木材を組み上げた不完全な球体、のようなもの」を「アートだ!」と思って撮影した、そんな写真が残っているかもしれない。もっとうんと子供の頃、街中で布に包まれたものを見かけると何でもかんでも「クリストだ!」と思ったのと同じ。


もう一つの連想は、とても単純。こちらが大岩オスカールの《Ghosts》(2008)。

2010年頃からガラパゴス携帯電話を持ち歩くのをやめて、iPhoneを手にするようになった私が、2012年くらいからかな、熱中して遊んでいたゲームアプリが、『BADLAND』。https://itunes.apple.com/jp/app/badland/id535176909

どっちもキモくて、どっちもカワイイ。一つの時代が終焉した後であることを感じさせる横長の世界で、他のものは生きてるんだか死んでるんだかわからない静けさのなか、小さな黒っぽい白目の怪物たちだけが、群れながらウヨウヨしている。

『BADLAND』をパッと見たときには、その感覚が何か、思い出せなかった。プレイしているうちに思い出した。「そうか、何かに似ていると思ったら、大岩オスカールの絵だ」「だから私は、このちょっと怖くて気持ち悪い感じのするビジュアルを、既知のものとしてすんなり、懐かしく受け入れられるのだ」。

『BADLAND』の画面を見せながら人にこのゲームを薦めると、「え、何これ、ちょっと怖い系? 心臓弱いんだけど私」「うわ、何いまの、増えたの!? いっぱいいる、キモ!! ゾワゾワする!!」「やだ、死んだの、こんな死に方するの、キーモーイー!!」などと大騒ぎされる。海外でどうかは知らないが、日本人の反応は、おおむね芳しくない。私はいつも、こう答えていた。

「ところがこれが、プレイしてるうちに、このキモイと思ってた生き物を、ものすごくカワイイと思うようになるから。繰り返し繰り返し彼らの生き様を体験して、ああこれは自分たち人類とは別の生態系で生きている存在なのだと認識できた途端に、増え方も、死に方も、生理的に不快なものだとは感じなくなるから」

ここにも「時差」が働いている。誰かに手入れされた美しい切り花と思ったものが、みずからの意思で増殖していくカビのように見える。得体の知れないカビのように感じられたうごめく何物かが、自分と同じ、いじらしくかわいい生き物のように見える。繰り返し観ることで耐性がつくわけだが、「目が慣れる」からではない、と思う。ゆっくりと時間をかけて「頭がそのように受け入れる」から、と言ったほうが的確なのではないか。机の上を腐海にしている、頭にカビの生えた人間は、そんなふうに思う。

スクラップをぎっしり詰めた箱から、大岩オスカール《ガーデニング》の切り抜きを発見したとき、「うわ、やだ、箱の中にカビ生えてる?」とは思わなかった。ゴミにも等しいガラクタの山から、「なんだかわからないけど、きれい」なものが出てきたと、そんなふうに思った。

私が部屋いっぱいに蒐集しているのは、そういうものたちであり、その「なんだかわからない」を自分なりに言語化して外の世界へ置きなおしてみることこそが私の仕事であり、たとえ報酬が出ずとも少しずつその作業を続けなければならない理由は、自分自身の混沌とした頭の中を、もうちょっとだけ整理整頓する必要があるからである。もちろん人類と菌類とは共存可能であると信じているが、他所から舞い込んできた多種多様なカビにすっかり覆われて支配されてしまうと、私自身のアウトプットが大変しづらくなるのだ。

大岩オスカールの絵は、「生きてるっぽい」ものと「死んでるっぽい」ものが絶妙に共存しているところが魅力的だと思う。自然があまり野放図すぎず、文明社会もまだ死に絶えてはおらず、静かな世界だがのったりと音もなく動き回るものだっており、動と静、両者の「時差」を埋めながら、時間はゆっくり確実に、前へ前へと流れていっている。願わくは、私の散らかった机の上も頭の中も、混沌としてカビすぎず、必要最低限に前へ前へと生産的な、これらの絵のようでありたい。