202305_UnionSquare

2023-05-26 / さようならのあと、ブロックとパーティー

東海岸でもWGA(全米脚本家組合)のストライキが続いている。もう三週間を超えて一ヶ月近くになる。我が家の近所、さまざまな抗議デモの出発到着地点になることで有名なユニオンスクエア(交通の便がいいし、何しろ名前が素敵でしょ)の北側に、映画館のAMCとNetflixのオフィスとが向かい合わせに建つ好立地がある。大勢のライターたちがめいめいプラカードを持って一箇所をぐるぐる回って円を描く抗議活動を続けている。同じブロックのabc home(日本人観光客にも人気の家具屋とレストラン)が何かやらかしたのかなと見上げる通行人たちに、そうじゃないのだよ、と抗議内容を示したWGAeastのビラがどしどし撒かれている。19丁目の角にデモのステーションができて、先日は参加者にピザが振る舞われていた。顔だけではなかなか判別つかないが、著名な作家や脚本家も混じっているようだ。参加者同士が「あのショーの書き手とこんなふうにご一緒できるなんて光栄です!」「ずっとファンでした!」と握手を交わしたりしている。そして物書きがサッと書くプラカードは、さすがにどれも読み応えがある。

私がここを通るときはいつも急いていて輪に加わる時間が取れないが、連帯を示すべくメッセージのSNS拡散などに協力する。そういえば今月13日はジャパンデーのパレードもあった。この街では毎週末どこかしらで移民たちがルーツの旗を振りかざしながら練り歩いている。6月には大規模なプライドパレードもある。どこにでもScabby the Ratが現れるし、座り込みやダイインも起こる。ただ通りすがるだけの人たちも、ほんの数秒、イエーイと拳を上げて主張への賛同を示す。empathyもallianceも日本語に翻訳するのは難しいが、難しいから「無い」わけではない。「練り歩く」ことで「存在を可視化する」という意味ではパレードもデモも根のところは同じ。ぱっと見は平和的で楽しそう、ストリートパーティーかと思う、しかし一つの目的を遂げるための強い意志表明でもあり、小さき者たちの声が「消される」「潰される」ことへの身体を張った抵抗でもある。なるべく目立つ、胸張って歩く。みんなとの連帯が求められ、一人では成し得ないことだ。そして親日家の米国人から「2007年からずっと見に行ってるけど、ジャパンデーは年々派手になって商業主義に毒されてるよね?」と指摘を受けてぐぬぬとなったりもする。そう、そんなことのために練り歩くんじゃないのよ。

今月はAAPI Heritage Monthであると同時にJewish American Heritage Monthでもあるので、ベンプラット、ミケーラダイヤモンド(と表記したほうがいいのかもね?)、そしてジェイソンロバートブラウンが、ホワイトハウスで『PARADE』の歌唱披露するのを生中継で眺めるなどする。16時半から2曲パフォーマンス、ジルバイデンと軽く挨拶を交わした後、「今からすぐNYへトンボ帰りして今夜もこれからショーを開けないと、じゃ!」と言って、満場のホワイトハウスをビビらせてサッと退場する三名。トニー賞、獲ってほしい。本当に。既報の通り、ストの余波はトニー賞授賞式にも及んでいるけれど、ブロードウェイにはこのタイミングで華麗に復活したHam4Hamもある。みんな表通りに集まる。それがアメリカと言わんばかりに。


「さようならTwitter」からも三週間近く経った。この間、Twitterとの付き合い方を大きく変えたのでメモしておく。以下はBlueskyに書いたスレッドの焼き直し。

Twitterアカウント、活きている16年間は「極力ブロックしない」運営方針でやってきたけれど、今回の「やめる」を境にして、「積極的に予防ブロック措置を取る」新しい運営方針に切り替えることにした。当面は、「自著宣伝と推し布教以外に、場に『読みがい』といった価値を創出する新規発言投稿はしない」+「必要な読み手が遡って発言を参照できる、故人のメモリアルアカウントのようなかたちで残す」+「だが『貴様等に読ませる過去ログは無えのだわ』という態度で、閉め出すべき人は閉め出す」の三本柱でいく。これが私の考える「やめる」に最も近い。

ずっと「Twitterのヤベエ奴は見かけた端からさくさく事前にブロックしていくのがいいんですよ!」と勧めてくる言論人たちがいた。私は正直、その意図が汲めずにいた。なぜなら、議論はいつでもオープンであるべきで、どんな連中とも対話の余地だけは諦めずに残しておきたいと考えていたからだ。とくに、過去の誤った考えを改めた人たちが、別の目で(かつて反発して否定していた)同じ発言を、ふたたび読み返しに来てくれるような機会は奪いたくないと思っていた。

「立入禁止」の札を掲げて誰かを閉め出すというのは主体的行動だ。守備に回るほど攻撃も過激化することがわかっていながら、どうしてそこまでしてやる必要がある? こちらから何かアクションを起こす義理はない、おまえらのためにはブロックボタンを押す動作に数秒をかけるいとますら惜しい。そうも考えていた(※地上最強の俺様が雑魚の虫ケラを追い払うためにわざわざ動くなんてダルい、というのは漫画『聖闘士星矢』などに頻出する思想で、私は幼少よりその強い影響下にある)。なぜ私が、公道におけるパブリックな発言を、誰かに怯えてコソコソ秘匿しなくちゃいけないんだ。言論の自由が聞いて呆れるわ。私のアカウントはやめてもなくならない。私は絶対に出て行かない。膝を突いて尻尾巻いて(あるいは悪ふざけに飽きて)退場すべきはおまえらで、最後まで残るのは私が16年間にわたり続けてきた不特定多数とのオープンな対話の蓄積である。そんな憤りのほうが強かった。

だが、今後の私はTwitterを「やめる」状態を「継続」していくわけで、さすればここを節目に、Twitterでアクティブであった今までの16年間とは、また違った振る舞いも必要になる。今後は警戒巡邏としてのエゴサーチ頻度も下がるだろうし、となると(毎分毎秒Twitterを監視していた昔と違って)事前に火種を潰しておくことの重要性も増す。不在のときは家に鍵をかけて戸締まりしたほうがいい、くらいの、当たり前の話だ。

取り急ぎエゴサーチをかけて、「あいつはあんな長文を書いて15日を目処にTwitterをやめると言ったくせにまだアカウントを削除していないしRTを続けている、Twitterをやめていない、さぁみんなで指さして嘲笑しよう」と書く人たちと、あと「トランスアライどもがトイレの話の途中でTwitterから逃げた、我々の勝ちで、左翼の負けだ」といった認知の歪みに個人名を盛り込んで囃し立ててくる差別者たちとを、いくつかブロックした。「まだまだ視界に入ってくるから、完全に見えず聞こえなくなるまで叩いて、存在を消し去ろう、息の根を止めよう」とエスカレートする類いの暴力があるとき、殴られっぱなしのまま放置するのもよくない。「お望み通り、おまえらの視界には二度と映らないようにして、おまえらにだけ見えるかたちで『永久閉店』の札をかけて、ここから閉め出してやるよ」という無言の返答くらいは投げ返してよいだろう。

Twitterをやめる理由の一つに、「ブロックしたりされたりしているはずのアカウントの発言が読めてしまう」という杜撰な不具合があった。今春、アカウントを非公開にしたり手動で全発言を削除したりして「Twitter不支持」を表明する人もいたけれど、お次は「消したはずの発言が表示されてしまう」不具合の報告も相次いでいる。場が機能していた時代ならブロックの厳密性や排他性が増すけれど、現状ここまでグダグダなら「ちょっと拒絶の意思表示するくらい何だよ、どうせブロックされても読めるんだろ? 好きにしろや」と捉え方も変わる。せっかく公式実装されている機能をもっと活用すればいいのに、と勧めてくれた人たちの言う意味が、やっとわかった。十数年越しで。時間がかかるものだなぁ。

しかし一方で、「攻撃されたくなかったら人前に出るべきではない」という考え方はクソだ。ちょうどBlueskyで<no one should fall for the “if you don’t want to be attacked, just never go out in public” bullshit>と書いている人がいた。自由を脅かされて身の危険を感じ、嫌がらせを受けたくないならその場を立ち去ればいい、といった考え方「だけ」を採用していたら、インターネットはあらゆる意味で差別主義者どもの手に落ちてしまう。そうはさせないために、陽の当たる表通りに当然の権利として「最後まで立っている」を実現すべく「陣を張り直す」のだ、という鋼の意志でやっていかないといけない。無言でいるのも疲れるものだけど、言い返したらそれこそ負けだしね。あと、この日記に今またこのテーマで2000字超の長文を書いたわけで、私は別に口を塞がれたわけではない。


朕思ふに、「我慢ならない、許せないから、この人とこの人とこの人をブロックする! 嫌いなものを遠ざけて大好きな人やモノやコトに囲まれて生きる! それがWATASHI!」というアイデンティティ形成をする人と、「私自身は誰も排除しない、相反する思想のアカウントをフォローだってするが、それでもなお、この人とこの人とこの人からはブロックされてしまう、つまり、彼らのような人の逆鱗に触れたり、彼らのような人から『消えてくれ』と願われる、それがWATASHIという生(しょう)のカタチなんですな……」と確かめる人とがいる。後者にとっても、ブロック機能は有益だろう。このあたりはBlueskyで日々白熱するフェデレーション/モデレーション談義などで強く意識するようになったこと。

「食べたいものがハッキリしているみなさんが、ハッキリしている順に、まずはお好きに選んでください、私は最後に箱に残ったケーキをおいしくいただきます」と言うことがある。利他的で遠慮深い人だと勘違いされるけど、全然そんなことない、まったく利己的である。食べたいケーキがはっきりしていれば真っ先にそれを取る。何なら二つ買ってきて自分で一つ取ってから人に分ける。しかしそれとは別に、人々の渦巻く欲望が私という存在のありようを、その流れ着く先を決めていく、そんな波との戯れを楽しむこともある。モンブランかと思いきや案外ショートケーキ、十年前までならザッハトルテだったものが今はベイクドチーズケーキ、残り物には福があり、身を任せるのも一興だ。しかし「ラストダンスは私に」と同じで、「俺たちで分けたらおまえの分のケーキはもうなくなったんだ」と言われたら相応にキレる。数が合わないなら、それ自体、誰かが不正を働いている証拠なのだ。正しく分配されるまで座り込みを続ける。

Blueskyは5月20日前後に「bsky.app」がウェブ版でも見られるようになった。招待コードは順調に増えていて、つまりは余らせてもいる。引き続き「ブログを読み」「予習ができていて」「私信のやりとりが可能な」相手に配っている。どうも三つめを勘違いしている人がいるようだけど、一方的に何通送ってきても読めないメッセージは読めないですよ。それは私信ではなく迷惑メールフォルダに振り分けられるやつです。過去にどんな間違った成功体験があるのか知らないが、そうして執拗な手段をとり続ければ(対象が音を上げて)何か要求を呑んでもらえる可能性が高まる、という発想がまず危ない。心身の健康のためにもやめたほうがいい。この日記に好意的に書いた平和な抗議活動と、そうした脅しの手口、何が違うのか、どこが転倒してしまっているのか、立ち止まって考えたほうがいいです。


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