2023-05-07 / さようならTwitter

今春、我が身に起きた出来事と心境変化についてあちこちで書いた。Twitterで書いた。Blueskyで書いた。このブログにも書いた。技術系の読み手が多いタイムラインでは努めて思想的に、感情的な読み手が多いタイムラインでは努めて客観的に書いた。反響は皆無だったが、いくつか感想も受けた。「箇条書きに要約して三行で読めるまとめ記事の形式で書いてほしい」とリクエストもあった。何日も何週間も何箇月も同じ話を書き連ねるわけにいかないので、一つ総括を書いておく。

私は2007年5月15日からTwitterを始めた。そして2023年5月15日を目処にTwitterをやめる。16年慈しみ育てた我が子のようなアカウントを「殺す」わけではないが、16年伴侶として連れ添ったサービスと「別れる」くらいの覚悟は決めている。あいつ消えたなと探しに来た人に、まずこの日記が読まれるとよい。(140字)


2022年10月末、イーロンマスクがTwitterを買収した。2023年3月29日には新しいTwitter APIの枠組みが発表された。この新体制により多くの独立系サービスが長い歴史に幕を閉じ、理不尽な高額課金を促されたNew York Timesなどの大手企業公式アカウントがTwitterへ決別宣言を突きつける。5月1日にはWordPressも連携廃止を決めた。忠実な顧客を囲い込むつもりが、世界全土からソッポ向かれつつある鎖国の様相だ。

多くのユーザーが新天地を求めてマストドンやBlueskyへ軸足を移し、音も無くタイムラインから消えていく。居残ったユーザーは経営交代によってTwitterが衰退変容しつつあることになかなか気づけない。私とて、昨秋の段階では極めて楽観的だった。いくら悪名高いイーロンマスクとはいえ、否、非情で合理的な人物なればこそ、こんな大看板を買っておいて「老舗の味」を守るのでなくわざわざブチ壊すようなバカはすまいと信じていた。昨年の春にはまだ月額$2.99だった頃のTwitterBlueも試した。愛するTwitter社になら喜んで課金するつもりだったが、広告の有無程度の違いなら、無料版の継続利用でもよいかと考えたものだ。ところが事態は一年で大きく変わってしまった。そもそもTwitter社という法人がすでに存在しない。

新API体制移行と前後した2023年4月2日、私は月例のTwitterアーカイブ取得に初めて失敗し、問い合わせ窓口がリンク切れのまま放置されていることに不信感を抱く。ちょうどTwitterのアイコンが青い鳥からDOGEの柴犬に変わる悪ふざけが起きていた時期だ。いずれエクスポート機能が有料化されるとの不穏な噂もあった。自分の預金を引き出せないような銀行に財産を託すわけにはいかない。ボイコットも兼ねて、以後は新規投稿を控えることにした。


4月20日には、アカウントの公式認証バッヂが削除されはじめた。2009年から続いた本人証明機能が効力を失う一方、課金を拒絶した一部著名人に対してマスクが自腹で有料認証バッヂを貼付していることも判明。こんなの独裁者による反体制派への嫌がらせだ。我々が手元で情報を取捨選択する自由も奪われつつある。CEOが何と言おうと、競合企業名をつぶやいただけで制限喰らうような場には言論の自由もクソもない。For You(おすすめ)欄は恣意的な評価付けで操作され、彼らが流したいものが垂れ流されるようになる。ブロックしたアカウントもブロックされたアカウントも気まぐれに漏れ出てくるのには驚いたし、日本語圏で自殺配信映像がトレンド入りしたのには絶望した。脅迫や二次加害や差別発言は野放しなのに、荒らしに遭った凍結アカウントの返還要求は無視され続けている。

大量解雇による人手不足の不手際なら仕方ないと言う人もいるが、割れ窓理論で考えれば、とっくにレッドカードだ。きっと次はこう言われるだろう。お金さえ払えばあなたがたに「ちゃんとした」Twitterを返してあげますよ、たったの月額8ドルです。勝手に取り上げといて何ふざけたこと言ってやがる。新有料プランでは一度に1万字も書けるそうだ。「誰もがみな140字を1単位として短文を投稿する」という、我々が愛したあのSNSの、最も重要で最も美しいたった一つの詩的なコンセプトさえ、すでに喪われてしまっている。で、何に課金しろって?

「半年前くらいから突然、人が変わったように束縛が強くなって金をせびり、今までの約束や信頼関係をすべて反故にしながら俺様ルールを強いて、気に食わない奴にはレッテルを貼って暴徒に襲撃させ、ナメくさった態度でまともな対話が成立しなくなった」そんな恋人がいるとしよう。ヤバさに気づくのに五箇月かかった。別れるまでに一箇月かかった。「でも、大金持ちだし根は悪い人でもないのよ、一緒にいればメリットも多いし、たまに殴るのも愛ゆえだと思うの、きっと更生させてみせるわ」と考える人も、いるのだろう。好きにすればいい。私だって完全に関わりを断つことは難しい。だけど別れる。それだけの話だ。


4月に「Twitterをやめる」と宣言してからフォロワーが千人単位で減って2.7万人台になった。そもそも発言数が激減し、連日何かしらがどこかしらでバズるような勢いも失ったので、私の存在が不特定多数の中で際立って見えることはなくなったはずだ。よほど熱心な読者以外はとっくに「消えた」扱いだろう。いや、新アルゴリズムに従順な記法を守ってFor You欄に浮上させていただけるよう日夜努力しているアカウント以外は誰からも見えなくなって、そして、見えなくなったものはみんな、音も無く忘れる。自力で思い出すことさえしないのだ。

あるいは時々「あいつは逃げた」と嗤われているのを見かける。沈みゆく泥舟から一足先に立ち去ることをやたら否定的に腐すのは、古来変わらぬ日本社会の特徴である。彼らには海外居住者の姿も見えない。出て行った者たちは、普段見えないというだけで無きものとされ、もっとひどいことが起きてから突然「なんであいつらだけ無傷なんだ、ズルい!」と矛先を向けられて非難される。慣れっこだ。移動の自由は基本的人権なので全然ズルくない。己の内なるモラルの声に従って具体的な行動に移す、何も悪いことはしていない。

「やめたと言うくせになんでまだあんなに存在感があるんだ」「結局まだいるじゃないか」といったイチャモンは、その人自身がTwitterをやめるにやめられない不安の裏返しだろう。酒や煙草を断つようにやめるのがいい、という例え話は、以前この日記に書いた。今まで以上に加速するデマや誹謗中傷を飛ばし合い、今まで以上に過激に排外的に荒れていく日本語圏Twitterを眺めながら、せめて何かの役に立てばと、日にいくつか他人の発言をRTして力を添えることもある。それもそのうちやめるかもしれない。今は推し俳優の公式アカウント運営だけが気がかりだ。まぁ後援会会報があるので何とかなるだろう。もう紙媒体と独自ドメインしか信じられないよ。


まだ英語版しかなかった2007年からTwitterにいたのだから、アーリーアダプターと呼ばれたってよいだろう。私は140字フルの長文連投に「続)」記法を編み出した最初期の日本語圏の一人であり、その後の公式スレッド機能実装のユーザーモデルにもなった、らしい。文筆家という肩書きで仕事を請けるようになったのもTwitterがきっかけで、とくに営業もかけぬまま何冊も本を出した。Twitterがなければ今の自分はない。15年半はずっと素晴らしい蜜月が続いていた。でもそれが壊されるのは一瞬だ。

4月6日以降、ひとまずの転居先はBluesky(bsky.social)となった。Twitterの創始者ジャックドーシーが牽引する、まだ総人口60000人程度のクローズドベータ版。私のフォロワーも400人程度しかおらず、何か書いても反応はほとんど得られないが、眺めるだけでも面白い。今現在のTwitterとはまるで違い、16年前に初めて会ったTwitterとは似た雰囲気がある。二度と同じ過ちは繰り返したくないと制度設計の知恵を絞り合う分散型SNSの、「強くてニューゲーム」の楽しさ。いずれ公開されれば環境も変わるだろうし、半年後にはまたよそへ移っているかもしれないが、それでも居心地が良い。

第一作にすべてが現れる、という言葉がある。私の一冊目の本は『ハジの多い人生』というタイトル、ハジはハジッコのハジだ。今から約10年前、それは「SNSからいきなり世に出る」といった横道の生き方を意味していた。今は「分散化」と「脱中央集権化」について考えている。インターネットの地図は秒刻み分刻みで書き換えられ、そこには本流も支流もなく、舵を握るのは自分自身である。そう知る者同士であれば、いずれまたどこか、世界のハジッコで会えることでしょう。どうぞお元気で。

ハジの多い人生

Mine Has Been A Life of Much Margin
2014/2020 _ JP

ここに至るまでの日記が辿れるタグを作っておいたので、よほど暇な人は読んでみてくれ。