ザ・インタビューズ転載日記(明石薫)

明石薫が自分過ぎてつらい、という一文にはたと膝を打った者です。そしてその感覚にとても共感致します…。 自分なぞは心身の調子がすぐれない時など「後腐れなく女の子かわいい!と叫ぶためだけに、私はいっそオッサンになりたい」と思ったりしてしまうのですが、岡田さんにもそういう事はありますか?



まずは前置きから。これは、話せば本当に、本当に長くなってしまうので割愛して書きますが……。私は10代の頃から「ホゴシャ会」という活動を細々と続けております。活動内容は「おじさま×ようじょ」を筆頭に広義の保護者×被保護者カップリングを愛でるというもので、私はこの活動を通じて長年「おじさま=ようじょ」というテーマについてひたすらに考え続けております。いや、あの、これは一種のライフワークであり、本当に長くなるので割愛しますが……。

ご質問者はおそらくは性自認が女性、そして漫画『絶対可憐チルドレン』の読者でいらっしゃるようなので、この作品の登場人物を例に挙げましょう。まず私は、「後腐れなく女の子かわいい!と叫ぶ」ために女性性を捨てる必要があるのかどうかが疑問です。心にオヤジを飼い馴らす薫ちゃんのように、女の子として女の子のまま、オッサン目線で女の子を愛でるのでは、なぜいけないのでしょうか? 異性として皆本が好きだから着やせマッチョにハァハァするぜ、という欲望と、葵や紫穂が好きだから制服のスカート丈を短くさせるぜ、という欲望、本当に両立しえないものですか。女の子はかわいい、皆本もかわいい、ハーマイオニーもかわいいし京介も帝三も苦しゅうないから全部まとめて愛を叫ぶよ、という、全盛りの思想でもよいのではないですか。

また、もしあなたが「ナオミちゃんが好きすぎてその愛を臆面なく叫ぶためだけにいっそ谷崎主任のような変態のオッサンになってしまいたい」と思ったとして、そうしてもし、その願いが叶ったとして、谷崎主任になったあなたは、次はきっとこう思うはずです……「ああ、私はナオミが好きすぎて、いっそ私は、ナオミになりたい」と……。つまり、あなたの魂は本物の変態のオッサンになれれば救済されるかというとそうではなく、オッサンはオッサンで少女に拒まれれば拒まれるほど恋い続け、痴人として墜ちてゆくのですから、これはもう、うわべだけ変化したように見えても結局は同じことでしょう。

むしろ我々が本当に望んでいるのは、「自分から一番遠いところにある存在、あの永遠に手に入らないものこそが、欲しい」(オッサンにとっては女の子、女の子にとってはオッサン)というその矛盾した気持ちを、ありのまま受け入れることではないでしょうか。

かつて幼女だった私は、しかし、年を重ねてもオッサンに成長することはできません。それは仕方のないことです。ならば第三者として、オッサンと幼女で回り続けるこの世界のすべてを観察し続けていたい。そんなふうに思っております。つまり「女の子かわいいしオッサンもかわいいし、かつて本物の幼女であり、今オッサンの精神がわかり、けれど死ぬまで肉体は女子であり、そうしてこの世界総ての観察者である」という自分の立場を、オイシイと思いこそすれ、厭うたことは、あんまりないですね。むしろ、本件について何かを厭いたくないからこそ、そうした結論を導き出そうとしているのでしょうが。

このくらいのことは普段から公言して憚らない程度にはオッサン萌えの幼女萌えですので、私をよく知るリアルの友人たちは「またこの話か」と呆れていると思います。回答すること自体はやぶさかではないのですが……。これは、「匿名の質問に回答する」仕組みでやりとりするような話ではないのかもしれませんね。結局これだけ長くなりましたが、私の回答は「YES、であるがゆえにNO」といったところです。「おじさまになりたい幼女になりたいと思いながらオッサンでも女の子でもない立場から二者を観察していたい」という感覚は、つまり、オッサンそのものにはなりたくない、ということですから。