2016-01-29 / 私の三人称、あるいは給料泥棒

さて、学事に呼び出されたという経緯はこうだ。新学期の全校メールで「セクシュアリティおよびジェンダーの関係で本名を呼ばれることを望まない学生は、これに真摯に対応する。通名使用の申請は、ただちにOFFICE OF INTERCULTURAL SUPPORTへ連絡を」といったお知らせが来た。普段、LGBT学生向けの学事連絡(超手厚い)は関係ないやと読み飛ばしていたのだが、へー、そんな部署があったのかと初めて知り、記載されたアドレスに連絡してみた。

「こんにちは、私はIku Okadaという名で通っておりますが、一部システムにおいて入学出願時点でのパスポートネームが優先され、かつ旧姓が無視され、夫の姓だけが記載されているようです。これは元をただせば選択的夫婦別姓さえ認められていない日本国政府の不条理な戸籍管理システムに由来するものです。たとえば私は日本の留学エージェントに、通名での出願は認められない、入学後に大学と直接交渉しろと言われました。私は私の旧姓が軽んじられる状況を、ある種のGender Issueと捉えております。つきましては登録情報への旧姓追加、および複合姓の正式使用を希望いたします」

我ながら、やや盛り気味に憤ってみせた文面ではある。私が自分で変更できないのはシステム根幹の部分だけ、あとはいちいち訂正して回れば大抵のことはすんなり通る。たとえば入学当初、学生証を作るときにも、窓口で「ちなみにどんな感じで印字されるの、私、preferred name(呼ばれたい名前、ニックネーム)があるんだけど」と言うと、担当者が作業中のPC画面をこちらに向けて「後から変えると追加発行料とられるから、今この氏名欄に好きな名前をタイプしろ。それをそのまま印字してやるから」って感じ。これはビザとの関係も考えて本名+複合姓にしたが、そこに全然別の通名を入れても問題なさそうだった。あとは新学期の授業一日目、最初の出欠で講師に名簿上の戸籍名を呼ばれたらすかさず「Just call me Iku, and I go by maiden name, Okada.」と告げればいい。その場で手書きで直してくれて、あとはみんなIkuとだけ呼ぶし、Iku Okadaと署名した課題を提出しても何も言われない。日本で認められないのがおかしいだけで、当然といえば当然の権利である。

しかしまぁ、逆に権利が通ってしまうがゆえに、たとえば講師から旧姓と新姓を1/0処理されたりもする。「あなたがどの姓を望んでいたのか忘れてしまったわ、なんてこと、不快にさせて本当にごめんなさい、間違った姓を削除したから、今後は二度と呼ばないわ」などと、ものすごい大事のように平謝りで詫びられる、その腫物扱い自体が、なんか困る。その点、旧姓と新姓を組み合わせた複合姓なら、そんなに長い文字列をいちいち発音したくない外国人はみんな「Iku」とだけ呼んでくれる。その意味で、お互いにめんどくさいことが減る、という話である。

インターカルチュラルサポート(多文化支援課?)の担当者からはすぐに返事が来た。「面談するのでこの日時にオフィスに来い」との通達。げ、面談ってなんだよ。自分で頼んでおきながら怯む。「その日は授業がある。この件、メールだけで解決しないかしら。システムの現状調べてくれるだけでいいんだけど」「私は、キミ本人と、直接に顔と顔を合わせて言葉を交わし、そして幾つかの質問をしたい。手続きはそれからだ。空いてる日時を教えてほしい」。げ、面倒なやつだ。えー、なんだろ、これ、日本の戸籍制度の特殊性について英語で説明しないといけないのか、あんまり細かい話すると「米国市民的にはありえないけど貴様の母国ではillegalなわけじゃないじゃん、ていうかなんで事実婚で手を打たなかったの?」的なボロが出るよな、それともアレか、夫との合意形成がなされていない無理な婚姻を強いられて苦しんでいるかわいそうなアジア人女性と勘違いされて「我慢しないで今すぐここへ駆け込んでおいで!」みたいに両腕を広げられてる状態かな。えー、面倒、パスパス、と思ってのらりくらりと何往復もメールを交わし、今日になって「金曜午後が空いているのなら、私は、いつまででもキミの来訪を待ち続けよう」みたいな返事が来て、観念して出向く。

行ってみると留学生課などと同じ規模の普通のオフィスで、担当者Alexを呼び出すと個室に案内される。メールの感じから厳しい口調の女性Alexandraを想像していたら、すごい気さくな若いラテン男性Alexanderで面喰らう。英文の行間をまったく読みきれていない。そして、彼の目的はレターサイズ1枚の簡単な書類に直接サインさせること、あとはこっちで処理しておくからね、という簡単な雑談だけで終わった。拍子抜け。

書類にはまず、「Legal Name」と「Preferred First Name」を書く項目がある。戸籍名フルネーム(複合姓使用)と、通名Ikuを書く。「これ、出願時にも同じように書いて出したんですけどね、旧姓はたしかMiddle Nameの欄とかに書いたと思うんですけどね。反映されませんでしたねー。そしてここでも、『Preferred Last Name』という項目はないんですね。私が欲しいのはそこなんだけどなー」と言うと、「今度の書類は、うちの部署からトップに直接ねじ込むから、時間はかかるけど、来学期までに必ず反映されるよ。もし反映されなかった場合はすぐ僕に連絡して。万が一、次の学期の学生名簿にまたキミの新姓しか記載されていないようだったら、僕がキミの履修する科目の教員全員に一斉メールを送って、キミのことを授業一日目の最初の瞬間から、旧姓でだけ呼ぶように、強く通達する、約束する。どうか安心してほしい」と、まっすぐ目を見てすごい熱っぽい様子で言ってくる。「差別する教員はいねがー」とナマハゲ状態っていうか、リベラルなゲシュタポ、みたいな。嬉々として差別主義者の密告を待ってる感じ。

「えっ、いや、あの、そんな深刻な話じゃないんですよ。先学期も今学期も、指導教員はみんなPreferred Nameで呼んでくれるし、我が祖国ジャパンと違って、Last Nameで呼ばれる機会なんて滅多にないですからね。ただ、たとえば学部の広報ブログに載ったとき、学内で賞を受けたときなど、なぜか自動的に私の望まない戸籍名が記載されて、いちいち訂正してもらってるんです。この調子だと、たぶん学位記とかも自動で戸籍名になりそうだなと。彼らが準拠してる何らかのシステムの書き換えさえしてもらえれば、こちらの日常生活にはまったく支障ありません」と説明する。「そうかい、それもおかしな話だね。でもいいかい、キミはキミのPreferred Nameで生きることができる、キミが望む名前でこの大学を卒業し、この社会へ羽ばたいていくことができる。それを忘れないでほしい」また熱い。暑苦しい。

この「不具合が起きた原因を調べるよりも、まず先にキミの問題を変更させるよ」という姿勢には、「ほほぅ」となった。大学全体のシステムそのものに機能追加して苦情を全自動処理することのほうがずっと難しく、個別の事例に特別対応するほうが迅速、というのは、同じ「ご意見ご要望を反映して改善」でも、日本の常識とは真逆な気がする。「そんなやっつけ対応で大丈夫か、似たような学生が来るたびこの手間では、むしろ煩雑なのでは、システムあるんだから自動化しろよ」と心配になるんだけど、つまりこれはアレだ。学生名簿を管理するコンピューターシステムに新項目や機能を追加するのは、テクノロジーの部署の仕事であり、彼の部署の仕事ではないのである。そう、いつものあの、アメリカ式分業制なのだ。彼の仕事はあくまで「通名変更届を受ける」窓口。基本的に特例対応なので超絶ヒマであり、だからこそオフィスを構えて個別に真摯に対応してくれ(た上で技術部門にサイン済み書類を丸投げす)るのだ。そして、この彼らが普段オフィスでヒマを持て余している時間の高い給料も、我々のバカ高い高い高い学費のうちから賄われているのだ。金曜夕方なのでオフィスにはクッキーと缶ジュースと缶ビールがどっさり積まれている。これからピザも届くのだろう。くそー! とくに有能とも思えない貴様らが無駄にぞろぞろ個別の学事部門にいて、陽の高いうちからTGIFの準備ばかり勤しんでいても絶対に失業しないのは、学費! 俺たちの学費! 返せ!

担当者の暑苦しさを憤怒の熱ではじき返しながら書類に目を落とすと、最後は「Which pronoun(s) do you prefer to be called?」という項目だった。希望する代名詞、つまり「三人称」を選べという項目。「He」「She」のほか「They」があって驚く。えっ、多重人格者なんかはここを選ぶってこと? とビリーミリガンが頭をよぎるが、たとえば「男でもあり女でもある」状態で生きている人々の中で、この選択肢にすごく救われる、というタイプの人もいるのかもしれない。日本語に当てはめると「あの人」みたいな感じのニュアンスかな。とまで想像して己の不勉強を恥じ、家に帰ってから「単数形のthey」について少し調べた(この記事とか)。日本語だと、トランスジェンダーを「彼」と呼ぶか「彼女」と呼ぶか、このカップルは「夫婦」と呼ばれたいのかそうでないのか、面倒だから極力そういう表現を避けるか、といったことに咄嗟に気を回すくらいはできるのだけど、本当は英語の「He/She」も同じ速度で考えられないといけない。ちなみに「代名詞を使わず、名前のみで呼んでほしい」という項目もある。もっと別の自由記述オプションも選べる。当然といえば当然の権利である。
ここまでくると、なんだか申し訳ない気持ちにもなってきた。迷いなく上から二番目の「She」をチェックしながら、私より、もっとずっと苦しい思いをして生きてきた学生だってたくさんいるんだよな、と痛感する。男子として男子のままスカート履いてるファッション科の学生もウロウロしている美術大学だが、そんな目に見えてわかりやすい部分以外にも、一人一人の事情があるのだ。学費を出してくれる親御さんが、カムアウトしたにもかかわらず頑として同性愛者であることを認めてくれない、せっかく死ぬほど努力して自由の国ニューヨークへ来て周囲はみんなオープンなのに、僕だけがまだ保護者に一挙手一投足を監視され続け、悪夢のような牢獄に縛られたままだ、と泣くほど怒っている友達もいた。こちらの中学高校の制度はよく知らないがたとえば、志望大学に合格して初めて自分で自分に「Preferred Name」をつける自由を得た、という学生も少なくないのだろう。ジェンダー問題以外に、親から与えられたキラキラネームが恥ずかしいとか、親と同じ名前をジュニアとして名乗るのが精神的苦痛だとか、そんな事例だってある。そういう人たちのために、この紙切れ一枚の書類に、びっしり代名詞の候補が書いてあって、ぽっかり空欄があいているのだ。好きな名前を書いていい。ここは大学なのだから。一番最初の社会的なCertificate(認定証)を、ここで掴んで、その名で世に羽ばたいてゆけばいい。

サインした書類を手渡しながら、思わずこんなふうに話していた。「あのー、ぶっちゃけアレなんですわ、私、社会人留学生で、Iku Okadaというのは我が祖国ジャパンでキャリアを築いてきたアーティストネームなんですわ。そして、祖国ジャパンでも夫の姓は公表していないんです。彼には彼のプライバシーがありますからね。だから、私には私のポリシーがあって日本政府と闘争し、自分で付けた名前もあり、それが誇りで奪われたくない、でも、I don’t hate my husband’s name. Both of last names are mine. I’m happy with them. 要するに、いきなりオモテに自動的に戸籍名を表記されちゃうみたいなことさえなければ、学内でも、日常生活でも、複合姓ってことで十分なんですよ。このHeとかSheとか見ていたら、ここへ来る他の学生のこと考えちゃった。They need this document, more than me.」……すっごいしんみりしたというか、なんか、LGBT学生に宛てたメールから、全然別のことを申請してゴメンよ、みたいな気持ちになった、ということを一生懸命伝えようとしたのだ。

しかしさすがアメリカ、一枚上手である。「えー? なんでだーい? あのメールを見つけてキミがここに連絡してきてくれたのが、僕はとっても嬉しいよ! だって秋学期には誰にも相談できなかったんでしょ? 目の前の不具合に、自分で事情説明して自分で設定変更画面とか開いて、たった一人で対応してたんでしょ? そんなキミのために書類をトップに通す、こんな部署が大学にあるんだってこと、知ってもらえただけでも嬉しいよ。だってそれが僕の仕事なんだもーん!」

……熱いし、ウザいし、めっちゃポジティブで、まったく歯が立たない。「そうね、私ラッキーだった、今後トラブル起きたらあなたに直接連絡すればいいってわかったもんね。お目にかかれてよかったです、ありがとう」と握手して別れた。ほっといたら大半の学生に気づかれないまま終わる、そんな部署の仕事がある。そこでは高い高い高い学費や天文学的な額の寄付金によって雇われた、書類を右から左へ流すだけの、大勢の給料泥棒たちが働いている。そして私は好きな名前で卒業証書を受け取れる。もっと大きな社会問題はいざ知らず、カネで買える程度の自由でよければ、何だって、誰にでも、簡単に手に入る国なのである、きっと。