2016-02-08 / ママは大学1年生

月曜日のフォトリソグラフィ。ホールパンチで台紙とマットフィルムに穴を開け、レジストレーションピンで留め、完成した図案の下絵をフィルムにトレースする作業で2時間半の授業が終わる。二色印刷なので二枚作るのだが、私はだいたい一枚目の半分くらいまで。細かい図案にした子同士でクレイジークレイジー、こんな絵柄を選んだ俺たちクレイジー、と唸りながら細かい作業。平面部分を大きく黒く塗りつぶすのが面倒だなーと思っていたら、ルビーレッドと呼ばれる濃い赤のフィルムを切り出して使えと渡される。漫画でいう「ベタ用スクリーントーン」みたいな話で、ちょっと気が楽になる。

今回はプリントメイキングの工程に慣れるという名目ですべて手作業でトレースするのがキモ、ならば、というわけで下絵もほとんど全部を手描きイラストで埋めたのだけど、これはこれで楽しかった。何度でもしつこく書いておくが、こちらでは「手で描いた」ものがとにかくめちゃめちゃ褒めてもらえる。字が綺麗、スケッチが上手い、仕上げの絵が細密、などなど、とうとう俺様のあふれる才能が開花したかと錯覚してしまうのだけど違って、どちらかというと「手で描こうとする、その心意気やよし!」という褒め方なのだった。「アンチデジタル、アンチAdobe、手でできることは手で!」みたいな話である。美術大学ではずっと続いている強固な価値観だと思うが、そう言われて見渡すと、街中でも素人っぽさの残るカリグラフィや、ちょっとアンバランスな落書きみたいな絵がイイ、という風潮はある。全部がカッチリしてるとダサい、じゃっかんヨゴシが欲しい、みたいな……。

手書き文字に関しては、どうも「活字を真似て」「万人に読める」文字を書くという行為が発想からして抜け落ちている人たちが一定数いるようで、日本人が普通にお習字的な意味でタテヨコの整ったアルファベットを書いただけで「ファビュラス、ビューティフル!」状態。「それに比べて僕は私は字が汚いのが恥ずかしいわ〜」と言って、まぁたしかに崩しまくった筆跡だなとは思うけれど、正直、そこの美醜の区別は私には判断つかない。たぶん、東洋人から見て「鼻が高くて美人だな」と思う西洋人が、本人は「鼻が大きすぎて不細工だわ」と思っている、みたいなのによく似た話で、いくら説明されても彼ら(ここではとくに英語圏ネイティブの人々)の「絵が下手」「字が下手」コンプレックスの根っこが掴めない、という感じがする。

先学期から女だらけのクラスで「末弟」扱いだった中国人男子、忘れ物をしたり頼みごとをしたりでおんぶに抱っこ状態だった他の若い女子学生たちに愛想を尽かされて冷たくあしらわれはじめ、とうとう私のことを猫撫で声で「ママ〜」と呼んでは、定規を貸してくれだの、色味のアドバイスをくれだの言ってくる。「おまえの母ちゃんになった覚えはねえ!」と言ってもやめてくれない。ブラジルのポスターを作っているボストン女子が笑い転げる。いつも無口な背の高いニュージャージー男子はニコリともしない。隣で作業して初めて、細面で少年顔の彼が新学期から金色の口ひげを伸ばしていることに気づく。「おっ、ヒゲじゃーん?」といじりそうになったが、こういう姐御風の態度をとるから果ては「ママ」とか呼ばれちゃうんだな、と反省して口を噤む。彼は、講師に言われたことをとてもよく守る。たとえば、次の授業ではいろんな太さのペンを使うぞと言われたら、大抵の子は適当にありもので済ませて不足を買い足す程度だけど、彼は勧められたメーカーで太さ全種類買い揃えて持ってくる、ようなところがある。かと思えば「紐で綴じる代わりに、森で拾ったこの小枝を使って製本したい」みたいなこだわりを見せる。真面目に育ったいいとこのお坊ちゃんなんだろうなぁ、と想像している。ものすごくおとなしい花輪君、という佇まい。

ジャージー男子と日本人女子と私、静かに作業したいメンツは少し離れたところへ移動して手元に集中していたのだが、残りの学生たちは講師と一緒にずっと昨晩のスーパーボウルについて雑談しながら、わいわい作業している。留学生の誰かが「そんなもんよう見いひんわ、アメリカ人やあるまいし」みたいなことを言っていて、講師Martinがその子に向かってめっちゃ嬉しそうにマウンテンデューのCM「Puppy Monkey Baby」の真似をしてみせている。いくら真似したところで、観てない子はキモがるだけである。留学生で、観たけど、別にそこまで刺さらなかった私が、通りすがりに「クレイジー……」とつぶやいたらややウケ。常日頃感じている「アメリカ人って、バカだなー」を煎じて煮詰めたようなCMばっかりで、その現象自体は面白かったですけどね。ガガ様の国歌斉唱と、ブルーノ&ビヨンセ&コールドプレイのハーフタイムショーも私は感銘を受けたんだが、ほとんど話題になっていなかった。20代の子たちは「街中でしょっちゅう流れてるヒット曲とかイイっていうの恥ずかしい」という大二病まっさかりなのかもしれない。だとしたらあんな昼日中の紅白歌合戦みたいなショーの話はできないか。

一学期目、なんでもアメフトやメジャーリーグやお菓子やテレビ番組の固有名詞に喩える講師がいて、初回授業の自己紹介の時点から「俺の雑談にちっともノッてこられない留学生」としてややハブられ気味となり、そうした地味にチクチクくる精神的苦痛を修行と思って耐えていたのを思い出す。でも、もうすっかり慣れたので今は無理してアメリカンな話題についていこうとも思わない。宿題する横目でテレビを観る余裕も出てきたからどれも大した話じゃないことがわかる(一学期目はたとえば大統領選について訊かれても完璧に受け答えせねば、などと妙に力が入っていたが、実際は外国人留学生相手にそんなネタを振ってくるデザイン科の講師は皆無)。あとMartinのことは大好きなので、何で盛り上がってても平気。要するにEdwardの「よーし、端から出身地と贔屓のチームを名乗れ! なんちゃらズのファンには単位をやらんぞ!(北米一同笑)」みたいなノリと合わなかっただけである。

英語の授業、オンラインクラスの日だと思って自習室で待機していたら、10分前になっても5分前になっても、電子会議室(どう和訳しても死語)への扉が画面上に出現しない。シラバスが変更になって今日は対面クラスの日だったことが3分前に判明、慌てて教室へ駆け上がる。50分ほどのドキュメンタリービデオを観て、それにまつわるQuiz(小テスト)。前回の小テストは3回挑戦してもギリギリ満点が取れなかったのだが、今回は2回目でクリア。我ながら、穴埋め形式のリスニングは得意、超得意。といってもこれ、アナウンサー話法のヒアリング+単語力+文法からの類推で、つまり悪名高き日本の英語教育の賜物である。いくら正答できても「パネルを操作して餌をもらうのが得意なサル」みたいな気分にしかなれない。ちなみに全文を書き出す形式は苦手で全然違う内容の文章を書いたりする。スピーキングは相変わらず全然ダメ、確実に退化している。ディスカッションのとき何度も言葉に詰まるし、口が回らず二文以上つなげて話せない。なんで日本にいたときTOEFLであんな点数取れたんだろ? 「住んだら自然と喋れるようになる」は幻想ですよ、みなさん。