体感気温は摂氏-19度。ヒートテック上下にフリースのトップス、最強ダウンコートで出かける。身体は平気なんだけど、顔が痛い。かつて夫に買い与えたまま夫が紛失して夫が買い直していたネックウォーマーが夫によりどこからか発掘され、まったく同じ型のネックウォーマーが我が家に(やっぱり)二つあったことが判明した。おいおい。というわけで、一つは私がもらって装着してみたのだけど、結構あたたかい。吐く息はあっという間に白くなる戸外、マフラーを口元に当てていると吐く息の水分がマフラーに付着して凍って顔に当たってちくちく痛い、という例の問題、ネックウォーマーをゆるく装着して鼻を埋めているほうが過ごしやすいことがわかった。
ところで私のこの最強ダウンコート、あちこちでお褒めにあずかり、でも衝動買いだったので詳細がわからず、「ジャパンの最も寒い地域で手に入れたヨーロッパ製(札幌ステラプレイスのセールで買った)」と受け答えていたのだが、本日とうとう「ブランドどこ、タグ見せて!」と言われてひっくり返したら「Marithé+François Girbaud」のだった。恥ずかしながら読み方さえわからんかったが、マリテ+フランソワ・ジルボー。これですね、東京では当然ちっとも出番がなく北海道のスキージャンプ取材でのみ活躍した雪山に耐えるロングのダウン、現在は晴れの寒い日に大活躍。胸元のベルトを締めるとキュッと細身になります。日本ではあんまり見かけないけどアメリカでなら買えるんじゃないかなー、などと適当なことを言っていたら、いつの間にか本国フランスで経営破綻してた。と思いきやポップアップショップが復活していた。よくわからん。このふんわりした裾のラインが、ちゃんとかき合わせるとコタツを抱えて歩いてるようにあたたかい。けど、階段を降りるときなど擦れやすく、地べたが異様に汚いこの街には向いていないかもしれない。本日は地下鉄の階段の途中にこんもり脱糞があった。犬のだと思いたいけど、だいぶヒトのっぽかった。避けた。
クソの話からチョコの話へというのも恐縮ですが、本日はバレンタインデー。エクササイズのスタジオに出かける途中、モコモコに重装備した手袋で真っ赤な薔薇の花を一輪だけたずさえて大通りを横切っていく若い男性を見かける。立て続けに二人。「バレンタインデーはお菓子会社の販売戦略で、こっちの人たちは日本ほど祝わないのよー」というのはそれはそうなんだけど、所詮は相対比較。せっせとカードを書いて配る人あり、呼び込みに力を入れる花屋あり、チョコレートの試食会といったイベントあり、「おたくの夫婦はどう過ごすの? 何かスペシャルなことしないの?」と訊いてくる街中のおじさんおばさんあり。レストランもバレンタインの週末限定でプリフィクスメニューを用意しているところが多く、数週間前からせっせと予約を勧められる。アラカルトどれにするか迷ってないで一秒でも長く見つめ合ってロマンチックに過ごせ、食事はこっちで決まったもん出してやっから、というデートプランである。今年はプレジデントデーも含めて土日月祝の三連休となるので、いつもより商魂たくましいのかもしれない。
とはいえ本当に寒いのでまったく社交をする気が起きない。本当はあれこれ誘いを受けていたのだけれど、結局キャンセルしてしまった。せっかくアメリカに留学したのに、ほとんど学校と寮の往復だけで終わってまったく遊ばずに帰国してしまう若者たちを見て、昔は「なんてもったいない! そんなんじゃ留学の意味がない!」と憤っていた。今は他ならぬ自分自身が「今日遊びに出かけて、課題のほうが今ひとつで終わるのは嫌だなぁ」「ここで社会人の輪に飛び込んで何者でもないのに人脈だけ作るよりは、あの教授陣たちのおぼえめでたい生徒であったほうが充実するんじゃないかなぁ」「地元にただ仲良しを増やしたところで実益ないもんなぁ」と守りの姿勢に入ってしまう。一度目の学生時代もボーッと過ごしていたけれど、二度目の学生生活も、なかなかどうして腰が重い。迷いなくまっすぐ目の前の物事を吸収する年齢はとっくに過ぎており、だからこそ「私はなぜここに居るのか」ということを問い続けながら暮らしていて、答えの出ない間は、エネルギーを温存する方向へ向かってしまう。
いつかニューヨークシティを離れるとき、それが消極的な理由ではなく、「他にもっといい居場所が見つかったから」でありたいなと願う。一学期目は無我夢中でそんなことさえ考える暇がなかったが、2年間に満たない卒業までの期間がいかに短いものか、年の功のぶんだけ知っている。泣いても笑っても、残り日数をカウントダウンしながら生きている。行きたい美術館もあり、観たいミュージカルもあり、食べたいフードもあり、できれば英語で読みたい本もあり、直接に言葉を交わして親しくなりたい人々もいなくはないけれど、それは生まれ育った極東の大都会・東京でだって同じ。35年も住んでいたのに東京を東京としてめいっぱい楽しんだことなんて一度もなかったかもしれない。でも、それが不幸だったわけではなくて、どこに住んでいようが俺の人生そんなものなのだ、と唱えて気持ちを鎮めている。子供の頃からずっと東京中心部で育って学んで働いてきた、と言うと、こちらのヤングなオシャレピーポーたちには鼻血を噴くほど羨ましがられる。私は彼らの憧れを受け止められるほどの華やかな東京ッ子ではない。あなたがたが雑誌で読み、観光旅行で眺め、ホテルやタワーから見下ろした東京のほうが、ずっとキラキラ美しくて、私のちっぽけな人生なんかまぁそれに比べたらずいぶん冴えないもんですよ、と申し上げる他はない。
それで、私が今のところ胸を張って言えることは、「ホームシックになんか、まだまだ全然ならない」ってだけ。毎日毎日、同じ通学路を徒歩20分かけて朝から晩まで学校に籠もり、常連になったと言える店は画材屋だけ、タイムズスクエアのボウルが落ちてもチャイナタウンでクレーンが落ちてもニュースでしか知らないし、大統領選の報道も日本語訳でばかり読んでいる。そんな暮らしの何が面白いのかわからないと思われているだろうし、我が故郷は後ろ足で砂をかけるにはあまりにきらびやかな街なのであるけれども、私は今のところ「元いたところに戻りたい」とは思っていないし、傍目に冴えない暮らしと思われていても他人の目に映る姿より己が欲望の赴くままに生きていくぜ、というのが現在の心境。こう書くと堕落しか待っていない気もするが。近所のメキシカン料理屋でワカモレとタコ(蛸ではない)とホタテ(帆立である)の簡単な夕食を済ませて寝る。
「寝室が寒いんだよね。僕が窓側で寝てるからだと思うけど、夜中に目が覚めたときなんか、とくに寒いの。やっぱり東海岸は、西海岸と違って気候がちょっとねぇ。学業が落ち着いたらハワイとかに引っ越すのもいいんじゃないかな……気候は大事だよ。あときれいな空気ね。この街は、いくら換気しても排気ガスがねぇ。ハワイはとにかく空気がいいんだよぉ。まぁとにかく、寝室が寒いから、オイルヒーターは居間じゃなくて寝室に置くのがいいと思う」とぶちぶちのたもうているハワイ大好き夫のオットー氏(仮名)の話を適当に聞き流し、朝起きて、そんなに寒いかいなと寝室の窓際に立ってみたら、……二重窓の内側が開いていた。換気大好き夫のオットー氏(仮名)、ちょっとでもあたたかい日は毎日のように寝室の窓を開け放ってルンルン換気して、それで外側の窓だけ閉め、内側のほうを閉め忘れていたのだ。この冬一番の冷え込みと謳われた昨日今日、摂氏-26度の夜に、我々は、二重窓を一重のまま開け放って寝ていたのである。おいおい(一日ぶり二度目)。そりゃ寒いはずだよ! おま、これ日記に書くからな! というのが我が家のお熱いバレンタインナイト明けの会話。