2016-11-08 / 大統領選

 水曜日と金曜日は、徒歩20分ほどかけて13丁目の校舎へ登校する。火曜日と木曜日は、少し遠い16丁目の校舎へ登校するので、少し早めに出て地下鉄を使う。一駅乗って、ユニオンスクエア駅で下車。16丁目寄りの出口を出ると、地下通路の壁にはびっしりポストイットが貼られている。11月8日の大統領選はドナルド・トランプが勝利した。多くのニューヨーカーにとって「まさかの」結果である。これからの四年間に何が起こるのか見当もつかない。怒り、悲しみ、恐れ、不安、人々がそれぞれの思いの丈を付箋に綴って貼り付けていく。「サブウェイ・セラピー」と呼ばれるこの営みは、選挙結果の確定した9日から市内のあちこちで自然発生的に始まった。地上へ上がるとそこはユニオンスクエアパーク、古来さまざまな抗議デモ集会の発着点として機能してきた公園である。

 16丁目の校舎に向かう道すがら、ヒラリー・クリントンの横顔をかたどったステンシル・グラフィティが地面に残っている。選挙当日の11日8日も火曜日で、朝の登校中に見つけて写真を撮った。「Madam President」と銘打ったこのステンシルは学校周辺のあちこちに出現しており、私以外にも写真を撮る人が大勢いた。革ジャンを着たカップル、杖をついた老婦人、休憩中の厨房スタッフ、スマホを構える誰も一様にニコニコしている。その夜、女性初の大統領が誕生することをみんな信じて疑っていなかった。

 火曜はいつも21時40分まで授業があるが、その晩の講義は1時間半早く切り上げられた。秋学期の初めからヒラリー支持のピンバッヂをつけていたクラスメイトは学校を休んでジャヴィッツセンターへ行っていた。構内のラウンジではプロジェクターで開票速報が大写しにされ、パブリックビューイングの準備が整っている。みんな気もそぞろで授業どころではないのだ。一方で、誰かが「まだ20時過ぎじゃん、飯でも食って帰ろうぜー」と誘うと、何人かが従っていった。歴史的瞬間を見逃したくないので、私はまっすぐ家に帰った。あとの体験は、世界中の人々と同じだ。

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 毎週、火曜日と木曜日が繰り返されるたび、朝は同じ道を通り、みるみる薄くなっていく16丁目のステンシルを踏み越えて校舎へ向かう。あの夜、「飯を食って」帰った連中だって、選挙戦に興味が無かったわけではない。ただ、結果は見ずともわかっていると思っただけなのだ。去年の夏に東京から引っ越してきてからというもの、私はひたすら自宅と大学を往復するだけの日々を送っていた。朝9時から夜22時まで、校舎から一歩も外に出ない日もある。私が1年間ここで見聞きしてきたことはいったい何だったんだろう。それは「ニューヨーク」であって「アメリカ」ではなかったのだ。テレビの前で絶句しながらニューヨーク・タイムズの開票速報の針がぐいぐい傾いていくのをただ呆然と眺めていた。

 あまりのことに、とても宿題なんかする気になれず、水曜日は学校を休んだ。私以外にも欠席者が多く、講師もひどくショックを受けていて、まるで授業にならなかったそうだ。メンタルヘルスをやられた学生は健康課に行ってカウンセリングを受けろ、というメールが届く。誰も固有名詞は出さない。ただ「post-election」とだけ表現する。10日木曜日の授業は講師が30分以上遅刻してきたので休講。10分過ぎたあたりから腕時計を見ながら「こんな状況には耐えられない!」と悶え始め、荷物を掴んで教室を飛び出していったクラスメイトがいた。アメリカで生まれ育った白人の女子たちだ。「オバマがいなくなってしまうと考えただけで一晩中泣き通してしまった。Oh gosh, I’m f**kin’ love him!!!」と喉を詰まらせる彼女たちは、ユニオンスクエアパークの抗議デモ集会へ向かった。

 選挙権を持たない留学生たちは教室に残り、ただ黙々と手元の宿題を続けていた。私も当初は「デモより他にすることがあるだろう」と思っていた。いくらヒラリーの得票数が上回っていたって選挙結果は覆らないのだし、まだ就任後に何が起こるかも不明瞭な状態で抗議するのは筋違いじゃないのか、ただ不満をぶつけたいだけじゃないのか、と思っていた。しかし次第に考えを改める。愕然としているのは、公然と差別発言を繰り返す男がもたらす未来に怯える、被差別側のマイノリティだけではない。むしろ、若くてリベラルで裕福で高学歴な白人たちのほうが、よほどショックを受けている。いわゆる「勝ち組」として、この街で小さき者たちに寄り添い、持たざる者たちの分まで最大限ノブレスオブリージュを発揮し続けてきた彼ら彼女らのほうが、ずっと大きなショックを受けているようにさえ見える。心配。本当に心配。

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 以前から言ってますがアメリカは「打たれ弱い」よなー……別に自分が打たれ強いとも思わないし、打たれ弱いのが駄目だとも言わないけど、幼い頃からアメリカというのはあらゆる意味で自分が所属するそれより無条件に「強い」集団なんだと思い込んでたので、露呈する脆さに面食らう感じ……。でも、私のクラスメイトって、たとえば9.11のときまだ別の州にいる幼稚園児だったとか、そんな世代なんですよね。これが初めてのアイデンティティ・クライシスだという子も少なくないのだろう。バーニーサンダースの熱烈な支持者もたくさんいた。アンチヒラリーを公言しながら、でも、大人と違って絶対にトランプには票を投じなかっただろう彼らが、今どんな想いでいることか。

 「おいおいなんだよー、頭のおかしな老人がトップ張る社会で個々にギリギリ生き延びながらなんとか社会を回してく、ってだけなら、私の出身国では日常茶飯事だよー!? 東京都ではこんな感じのおっさんが4期も都知事を務めたんだぜー!? いちいち凹んでらんねーだろ、お互い頑張ろうぜー!?」みたいに声を掛けてあげたいんだけど、誰も石原慎太郎のことなんか知らないし、何の慰めにもならない。あとはもう、次の四年で新大統領が「米長邦雄に連盟会長させてみたら一定の成果をあげたどころか意外とうまくいった」みたいな効果をもたらすことを期待するしかないよな。それで過去の振る舞いが帳消しになるわけではないし、思想に殉じて死ぬ人が出てくるとシャレにならないんですが。11日時点では、うちの大学にも、ポストイットで築かれた「嘆きの壁」が出現していたようだ。24日現在、まだまだ「壁」はポストイットで埋め尽くされている。

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 12日、学生寮でとうとうヘイトクライムが発生した。ユダヤ系女子学生の部屋のドアに鉤十字が描かれたのだそうだ。他大学はさておき、うちの大学でそんなことが起こるなんて信じられない、というのが正直な感想だ。ハンナ・アーレントのお膝元でハーケンクロイツの落書きとは、悪ふざけにもほどがあるだろう。本当に、マイノリティが「権利」以上に、度過ぎた暴行や正当化されたリンチで「命」を奪われることのないように、と、そんな心配をしなければならなくなってきた。デモに飛び出して行ったアメリカ人の学生たちは、そんな事態を食い止めるためなら自分が死んでもいいくらいに思っているかもしれないが、ちょっと頭を冷やして地下鉄乗ってブロードウェイ行って『レ・ミゼラブル』でも観てくるべき、学生の革命ゴッコがどんな顛末を迎えるか思い知るべき、って閉幕しちゃったんだった! となると『ハミルトン』しかないな……。

 ちょうど、とある媒体から留学体験について記事を書いてほしいという依頼が来ていたので、大統領選の結果を受けてニューヨークシティがどんな雰囲気に包まれているか、「私が見聞きした範囲」だけに絞って書いてみようと思っています。続きはそちらで。