2017-11-05 / 今日の1800字「繰り返す練習」

先日からまた、ドローイングワークショップに通い始めた。金曜昼、大概は弁当持参で学校に出向き、三時間ひたすらファッションモデルを描く。最初の一時間くらいは「素体」でウォームアップ、ボディスーツのようなぴったりした服のモデルが1分2分でどんどんポーズを変えるので鉛筆クロッキーが精一杯。途中からは「ガーメント(衣服)」といって、ボディラインの隠れた着衣状態で、布と体の関係性を確かめていく。通常は3分くらい、最大でも5分。こちらには着彩する余地もある。ファッションドローイングの宿題が終わらない落ちこぼれ学生は補講として、技能の高い学生はさらなる鍛錬の場として、単位にならないこの授業に熱心に出席する。「参加無料で一流モデルが描ける」ということで、私のような卒業生、本職のイラストレーターやファッション科の別の先生なども来たりする。

キチ先生は人体をボックスに分割するメソッドを使って、まったく絵の描けない子でも、プロとしての必要最低限に至るまで徹底的に指導する。1年生は「服なんて百年早い!」と、ひたすら箱人間だけを描かされる。フリルやドレープの表現、マーカー塗りを教わるのはずっと後。「諸君はイラストレーターではない、あくまでデザイナーである。共同作業者に設計図を伝えるヴィジュアルランゲージとしての画が描ければそれでいい」というのが指導方針、描き順も厳格に決まっていて、お習字教室みたいだ。

一方の私は「形は十分に取れているから、好きに描きなさい」と言われている。顔にズームしたり、いきなり面を捉えたり、重心をとるのに苦労している子の横で、紙面に風を吹かせて反重力っぽく描いたり。「グラフィックのヒトはこうやるよね、でもファッションなら、こう」と指導の比較対象に挙げられることもある。今まではデッサンかマンガ風にしか描けなかった人体を別のデフォルメで描けるようになった。ファッション画の核は「10頭身上等」かつ「ポージング命」。そんな意識で人体を描いた経験はなかったが、慣れると気持ちいい。

通えば通うほど、「反復練習の効果が出ているな」と思うことがある。1年前よりも迷い線が減った。線を引きながら次に足す色(=面)について考えを巡らす回路も開いた。細部の失敗を全体の見栄えで誤魔化すのも上手になった。失敗をおそれずにアナログで色を塗る度胸も、紙面全体の構図を考える計画性も、ずいぶん会得した。過去に描いたもののどこがどう下手なのか、客観視できるまでの時間が短縮された。下書きのような絵を人目に晒すことにも慣れた。数十枚描いたうち、いいなと思えるものはほんの数枚で、それだけを手元に残してあとは全部その場で捨てる。その潔さも訓練で身につくものだ。「金曜午後は、初心に戻って学校で絵を描く日」と決めることで、一週間のリズムもできた。これもとても大事。

手が眼の解像度を高め、眼の解像度が高まると、手も早く動かせる。深く考えずにササッと線を決められるようになれば、そのぶん、同じ2分間3分間の中で「考える」時間を長く取ることができる。この時間配分こそが、いわゆるクリエイティビティの肝である。眼前のモデルを捉えるのに精一杯のうちは、そこに自分のアイディアを足していくのは難しい。文章を書くのも、立体物を作るのも、歌や楽器演奏も、プログラミングも、同じだろう。

不思議なことに、デジタル作業をしている過程では、こうした「効果」は体感しづらい。ベジェ曲線を引くのが早くなったな、と気づいてもここまでの悦びはないし、自動化できない細かな操作を手で片付けているときなど、苛立ちのほうが優る。物理的に紙と向き合い、取り返しのつかない線を引き、ヤレをゴミ箱に捨てる、体を使った感覚が、重要なんだろうと思う。

同じ時間に同じ分量でずっと同じことを続ける、毎回の変化は小さくても大きな自信を得る、という意味では、ジムで筋トレをするのにも近い。私はこうした地道な反復練習が昔から大の苦手なのだが、絵を描くことは好きで、新鮮な悦びが続いている。同じことを、英語学習とか、目的を決めた勉強の読書とか、他の(苦手意識のある)ことに応用できるんじゃないかとも考える。そのときのポイントは「体を使う」ことだ、と発見できただけでも、通い続けた価値があった。今こうして字数を決めて日記を書いてみるのも、この授業がヒントになっている。