「何の目的でいらしたんですか?」と聞かれて言葉に詰まってしまった。日本出張といっても、人前に姿を晒すことでギャランティが発生するような、私がいないと成り立たないような「仕事」の用は今回、一つもない。打ち合わせだけは何件も詰め込んだが、これもすべてSkypeのビデオ通話で終えてしまうことだって可能な時代だ。私がいなければいないで、物事の回し方はいくらでもある。
みんな、そのことになるべく気づかないように、ごまかし、ごまかし、生きている。でも本当は、私は、あなたは、何もこの場にいなくたっていい。生まれ育った土地に長く住んでいたときより、そのことがずっと明確になった。仕事相手は依頼した原稿さえ期日内に届けばいいと考えている。遊ぶ約束をした友人知人だって、会えないなら会えないなりに密に連絡を取り合えばいいと考えている。何か頼みごとがあるなら、むしろ書面のほうが簡単だったりもする。ごまかすのはやめよう。私は、あなたは、この場に、いなくたっていい。
旅行者として故郷を訪れると、「私たちのこの世界は、あなたがいなくても支障なく回っているのに、どうしてわざわざ、ふたたびこの場に身を置きに来たのですか?」という無言の問いを突きつけられる。フーテンの寅さんみたいなものだ。自分自身に問い直しながら歩き回り、「いやぁ、じつは、とくに理由はなかったんですよね」と自信を持って答えられるようになる頃には、また次の飛行機が出発する。スナフキンみたいなものだ。
SNS上でしかやりとりしたことのなかった人と初めて会った。長い時間を過ごし、ハグをして別れたときに「ああ、私、このハグをしに来たんだな」と思った。もう10年以上も濃密な関係を築いてきた人たちと再会して思い出話に花が咲き、「私、この数秒、この数分のために来たんだな」とも思った。あるいは、初めてご挨拶した相手に「うわぁ、実在していたんだなぁ」と驚いたりもした。私がいてもいなくてもその人は揺らがないのに、接すると私のほうが揺さぶられる。また、ニューヨークで知り合った友人たちに声をかけて、日本で知り合った友人たちと引き合わせるような集まりもした。私がいてもいなくても、彼らはまた新しい人間関係を編み直していく。
あなたに会えてよかった、それだけで、来た甲斐がありました。ありがちな表現だが、片道14時間半も飛行機に乗ってくると、我ながらこの言葉の重みがまるで違う。その有難味が今はよくわかる。遠方から来たというだけで誰からも優しくしてもらえるし、こちらとしても厚かましさのアクセルが全開になる。さんざんよくしていただいた分、きっちり何かを返して、ちゃんと立ち去る。定住していた頃には保てなかった距離感だと思う。
同じ日本に住んでいたって、まったく出会わない人、まったく交錯しない人生というのは、星の数ほどある。若い頃、自分には求心力がないと思っていた。今日会ったばかりの人に明日も会いましょうと言わせるとか、直前にあちこちへ声をかけて出席率90%の大宴会をセッティングするとか、昔は到底できなかったことだ。でも今は、長くこの場を離れているからこそ、レアリティを武器に、この場で人と人を引き合わせることができる。交わらないはずの世界を無理矢理に一つに繋ぎ合わせる力。漫然と同じ場所に住んでいた頃には、持てなかった力。
「人生の主人公は自分自身だ」という物言いがあって、私はまったく信用していない。他の誰かの人生に、通りすがりの旅人役として登場するので十分だ。「いてもいなくてもいい」存在として、今後もなにがしか、存在感を発揮していければと思う。