ご無沙汰しております。
今週末、まずはサンフランシスコ&シリコンバレー旅行記を書こうと思っていたのだが、
FlickrとHDDフォルダを整理しているうちに、過去の写真をあれこれ見つけてしまい、
また先週末、立教大学での伯父の講義最終回がとても素晴らしかったことと相俟って、
写真について、写真に撮られる人間の生と死について、あれこれ考えているうちに、
気がつけば結構な分量をtwitterにダラダラ書き連ねていたので、まとめておきます。
発言まとめは始めたらキリがない、だったらブログ記事を書いたほうがいい、のだけど。
そういえば今日、朝9時くらいに起きてからごはんらしきもの食べていないなぁ。ジュース飲んでウエハース食べたくらいかな。食事が喉を通らない……もしかして:恋わずらい!?(いや忘れてただけ)
https://twitter.com/okadaic/status/2582869525
あっというまに休日2日間が過ぎてしまった。ほとんど外に出なかったけど、それがまったく苦にならなかった。庭で野良の子猫が乳を吸うのなど眺めつつ、私はこうやって生きて死ぬんだな、と思うだけ。やっぱり:恋 was lie?
https://twitter.com/okadaic/status/2597838515
一応。この精神状態が以下のpostに影響している気がします。
ちなみに今日も、昼に納豆蕎麦と、クッキーくらいしか食べていない。
暑さバテのせいもあり、米国旅行で確実に太った反省もあり、いえいえ、これこそが恋。
「恋 was lie」は、(c) id:kisoem です。曲名になるって本当ですか!(プレッシャー)
遺影。私は自分の容姿が嫌いで、撮られるのも大の苦手だが、この二葉はとてもいい。[http://www.flickr.com/photos/okadaic/3713064994/] [http://www.flickr.com/photos/okadaic/3712252723/]
https://twitter.com/okadaic/status/2598378866
続)そういえば以前にもこの写真のこと書いていた。私が独りで死んだとき、今の家族も、未来にできるかもしれない新しい家族も、まぁまず絶対にこの二葉は選ばないと思う。でも、私はこれがいい。今は。[http://twitter.com/okadaic/status/1282221580]
https://twitter.com/okadaic/status/2598421494
続)正月のお祝い飾りの横で撮っているのに、なぜか、お葬式にとてもぴったりだと思うんだ。そういうのって不思議だな。ちなみにこの数箇月後、同じ服を着て同じポーズで、或る男性と2人仲良く並んだ写真もある。でも、こちらの一人のほうが、ずっといい表情をしている。写真は正直で誠実で、残酷だ。
https://twitter.com/okadaic/status/2598478601
「遺書を書いたら生に未練がなくなって死んじゃいそうだから、書かない」という人と、「遺書を書いておけば、心置きなく死ぬまで生きようと思えるから、書く」という人がいる。どちらの気持ちもよくわかる。
https://twitter.com/okadaic/status/2598600354
さきほどの遺影に関しては、実際の葬儀会場で額に入れてくれなきゃヤだとか、そういうのじゃない。だって葬儀は、私じゃなく遺された人たちのためのものだから。「あれを遺影とする」のは、もっと利己的な……あくまで自分のために(他が全部消えても)世に一つだけ私を遺しておく、という感じの行い。
https://twitter.com/okadaic/status/2598653736
続)またはミュージカル「シラノ」で(手元にないがおそらく原作でも)、美貌のクリスチャンの未亡人ロクサーヌに看取られる醜男シラノが「彼のために泣くとき、涙のほんのひとしずくかふたしずくだけ、私に」と言う、あの感じにも近い。ただのワガママ。叶えてくれる人が黙って叶えてくれればいい。
https://twitter.com/okadaic/status/2598739418
続)ここまで書いて思ったのだがね。たとえば、私が生身の人間として死んだとき、ネット空間上の私のホーム・ページに、最終更新として、あの2つの遺影と、お別れの挨拶がアップロードされる。そんなことを予約しておけるサービスができないものだろうか。現実世界で何かするより実現可能性高そう。
https://twitter.com/okadaic/status/2598787797
続)現実世界にある生身の私の亡骸は、そのとき遺った家族や友人たちに、あげます。煮るなり焼くなり海に撒くなり鳥に食わすなり、好きにすればよい。墓も適当にどうぞ。私は私で私のために何かできれば満足。それは何かと考えたら、予め決めておくことだった。たとえば写真や、たとえば辞世の句を?
https://twitter.com/okadaic/status/2598895872
続)でも、死ぬような状況でそんなこといちいち指示できないじゃないですか。辞世の句だって、切腹するのでもなければ絶対かっこよく詠めるはずない。作家の死後にラクガキがぼろぼろ出てきて、タイムスタンプだけで遺稿扱いされるのとかも、好きじゃない。「これが最期とキメとく」のがいいよなぁ。
https://twitter.com/okadaic/status/2598953360
母方の祖父が病床で亡くなったとき、初めて思い知った。一番最後に撮られた写真が、その人の一番いい写真だとは、限らないのだ。祖母が遺影に選んだのは、いつもムッツリ無愛想だった祖父が、ほ、微笑んどる! という激レアな一葉で、だが飾られてみると、皆それこそが「生前の祖父」だなと思えた。
https://twitter.com/okadaic/status/2599040641
続)また、ろくに整理せずしまっていた大量の写真の中から、ぱっと「これでええんやない? 珍しく笑とるしなぁ」とそれを選んだ祖母が、本当に素晴らしい配偶者だと思った。もし私に今後、家族が増えていくのなら、葬儀のほうは彼らが勝手にするのが一番だ。ああいう写真、自分じゃ選べないもん。
https://twitter.com/okadaic/status/2599137088
@hsakawa 情報ありがとうございます。まぁでも今書いた通り、私は自分の死後の葬式までコントロールする気はないかなぁ。だったら「生前葬をやる」とか、そっちに走るほうが楽しそうだと思ってしまう。
https://twitter.com/okadaic/status/2599174356
ところでtwitterって、こういう不謹慎かつくだらない話を、ダラダラ書けるのがいいですよね。開店休業状態のブログやmixiに突然こんなん記事として書いたら、生真面目な人たちが「ど、どうしたんですか!?」「早まらないでー!」とか連絡とってきそうでかったるい。フツーに書こうぜぇ。
https://twitter.com/okadaic/status/2599215112
葬式といえば私と吉本兄は沼田伯父の葬儀委員長&副委員長に任命されている。今後もしかしたら別に喪主が発生するかもしれないが(!)それでも委員会の座は譲らないぜ。こういうのもイイ。(つうか目黒区美術館であんだけ盛大に生前葬やっといて、まだやる気なのかと……たぶん正しくは遺品整理係。)
https://twitter.com/okadaic/status/2599382500
……なんて、仲間内ではさんざん話しているのに、実の両親とはこういう話をしたことがない。まぁでも彼らこそ「七海五大陸に遺灰を撒け」とか「棺の設計図はこう」とか「霊前に毎日供えるのはこれ」とか超はりきってセルフプロデュースしそうなので、健在なうちは薮をつつかずにおくべきかもしれない。
https://twitter.com/okadaic/status/2599469094
子供のとき一度だけ、遺書を書いたなぁ。己に制御できないものがあることが怖かった頃だ。「私は自殺したのではありません」という断り書きから始まる。でも後半「あの人は表向き仲良く見えても本当は嫌いだから、葬式には呼ばないで」みたいなことばかり書き連ねる自分が嫌になり、破って捨てた。笑。
https://twitter.com/okadaic/status/2599551770
続)テレビで見る、事件や事故に巻き込まれて死んだ子供の葬式で、学友や父兄が「優しくて真面目ないい子だったのに」などとコメントする、あそこの人選をしたかったらしい。「あんな奴等に私の人生とやかく言われたくない! ××ちゃんとか○○先生とかなら許す!」……子供ってアホだなぁ(笑)。
https://twitter.com/okadaic/status/2599602576
やっぱり死生観の話は誤読されると嫌なので、自分でtwitterまとめ作っておこうかな、と思った。まだ誰も作ってないですよね。一部だけリブログされたりすると後悔しそうな気が……(投稿した時点で個別postなんだから、「禁無断とばし読み!」みたいなことは言いたくないのだが・笑)
https://twitter.com/okadaic/status/2599910582
ちなみに遺影については以前も何度か書いている。たとえば今年3月。
飯島愛の遺影は『婦人公論』表紙。そういえば矢野顕子が篠山紀信に遺影を(免許更新みたいに)アップデートしてもらってるという話、もう昔のことなのだろうか。すごくいい習慣と思うのだが。『オーエスオーエス』のジャケットがそうなんだよね。「あれから毎年撮ってもらってる」とか言ってたような。
https://twitter.com/okadaic/status/1282206380
遺影にする写真、心に決めてあるのだけど、これ自分で心に決めてるだけじゃダメなんだよな……。数年前お正月に帝国ホテルで撮ってもらった一対を(門松うまくトリミングして)並べてほしい。1枚目、真顔でキメてたのに2枚目を幼女が横切って頬がゆるんでる、というなんとも私らしい2コマ漫画。
2009-05-05 https://twitter.com/okadaic/status/1282221580
そして……いまローカルを漁ってみたら、
この写真が撮られた2004年1月3日のWeb日記が残っていた。
なんというか……本当にすいません……学生の書くものって社会性がなくて怖い。
でも、このタイミングを逃すともう絶対に読み返さないと思うので、記念に上げとく。
アーカイブからこっそりどうぞ。
遺影(にすることに私が勝手に決めた)の撮影者は伯父の沼田元氣さん。
まぁやっぱり、おそろしい力をもった写真家なんですよ、このひとは。
世間からあんまりそう認識されていないだけでね。
立教大の講義の話もしたいが、いかんせん最後の数十分しか聴講できなかったので
その程度で何か書くというのは、研究家(ヲチャーともいう)のプライドが……。
というわけで、今日はこのへんで。
追記:2004年1月3日の日記は帝国ホテルの新年イベントに出張して合法的に美幼女たちを撮影しまくったという内容だった。そのうち転載しますが犯罪の香りしかしない。2009年の立教大学での講義の最終回というのは、沼田氏が御母堂を撮り続けているシリーズの初お披露目で、たしか最後の最後に被写体御本人も登壇したのだ。感動的だったな。(2018年2月)
遺書や死や弔いについては、こちらの本にも書いた。↓