善悪と公私とアンパンマンとバイキンマンについて

 「善」や「正義」は「公のもの」だが、「悪」のたいがいは「私的なもの」。新年早々、昼過ぎまでそんな「絵のない夢」を見ていた。覚醒夢の一種で、寝ながら考え事をする感じ。(実際は夢うつつなのかもしれないけど、砂嵐の中で自分以外の顔のない男と対話しているというようなイメージの白昼夢だ。)

 この問題を考えるとき、私はいつもアンパンマンとバイキンマンを想像する。とてもポピュラーなキャラクターなので人に説明しやすいし、原作者やなせたかしの意図が、私の考えていることに近い気がするからだ。

 アンパンマンはあくまであの「社会」の秩序を保つために「命令」によって行動していて、そこに「自分の正義」なんて発想はない。だから彼の造形はちょっと面白みに欠けるし、誰に対してもフラットな応対、悪に対して「許さないぞ」と断定する強気の物言い、その強気の根拠が無敵のアンパンチという「力」であること、などが、ときどきとても残酷に、「心ない」ように思える。標的に向かって引き金をひいたら取り返しのつかない兵器のような。「思想なき善人」の不気味さを体現しているのがアンパンマンだ。

 一方のバイキンマンは、つねに「己の理想」や「オンナのわがまま聞いてやるため」といった私的な行動原理を持つ。彼はまず、手段を開発する技術を持った科学者である。真のマッドサイエンティストにとって目的など二の次なのかもしれない。ドキンちゃんに「きれいなお花を摘んできて」と言われれば、自慢の技術や忠実な部下を駆使して花畑を根こそぎ掘り起こす。でもアンパンマンが正義を行使するときの「機械的」な感じよりずっと血が通っている感じを受けるのはなぜだろう。愛らしい彼の、行き過ぎた振る舞いが「社会」から「悪」として排除されるとき、視聴者の心に何かがチクッと刺さればよい。

 もちろんバイキンマンの勝手を許していては「社会」が成立しない。でも、彼自身それを理解して辺境に住み、領域を侵す者、自分を邪魔する者だけに牙を剥いて暮らす。たまに「暴れてやるぅ!」とヤマもイミもオチもなく本気で人に迷惑かけに来ることもあるけど、それを「裁く」存在が、暴力解決装置・アンパンマンでよいのか?

 「私的な善人」というのはどんなものだろう。町民から頼まれてもいないのに勝手にアンパンマンを毎日パトロールにやる自警団長気取りのジャムおじさんか。「私的な善人」と「私的な悪人」はとても似ていないか。公なきところに「真の善」はあるのか? だんだん性悪説みたいな話になってきた。

 町民は何をされても「ありがとう、アンパンマン!」と言う。この台詞が繰り返し強調される。「公的な善行」にきちんと謝意を述べる大切さを説く物語だ(暴力解決でもね)。やなせたかしは、機械的に保たれる「社会秩序」の大切さと「個個人が心に持つ闇」との折り合いを描こうとしている。

 だから、アンパンマンとバイキンマンの関係はどこまでも対立で描かれる。闇がなければ見えない光、光がなければ生じない闇のように、互いが存在しなければ成立しない関係として描かれる。バイキンマンはどこまでもバイキンであり、たまに人々に認められることはあっても、人々と相容れることはない。「大長編のときだけ頼もしくなるジャイアン」みたいなことは絶対に起こらない。(まぁ『ドラえもん』世界では善悪を語れないよね、あの欠陥ネコ型ロボット、あいつが一番享楽的で利己的だもん・笑)。

 アンパンマンとバイキンマンを、キリスト教的な意味での天使と悪魔に喩えたりすることもできるだろう。天使は文字通り「神の使い」、神の道具、みな同じ顔をして、性別すら持たない軍隊である。対して悪魔は、いつも「個」の集合体として世界に悪を働く。社会が把握しきれない異端の「個」への恐怖が、悪魔というかたちになった。中世の「魔女狩り」は、集団が集団を維持するために個を裁くことの正当化。裁かれる魔女には顔があるが、裁く群衆には顔がない。また、偶像崇拝を禁止する別の一神教、人類の約半分に布を被せる例のアレは、人間が「顔を持つ」こと自体を禁じているという捉え方もできる。そしてアンパンマンの顔はいくらでも「 替 え が き く 」……いやこれは考えすぎか。

 まぁつまり、それこそ、どっちが善い悪いの問題ではない。ポストモダン以降(※適当言った)、ヒーロー物の流行は「ワケありの悪」vs「苦悩する善」の構図が当たり前みたいになっている。大人は大人の事情でそういう物語を好む。でも、揺り戻しのように「理由なき絶対悪」にシビレる瞬間もある。なぜか? とことん「個」を突き詰めていくと、人はどこかで「社会」とぶつかり、大抵は、鈍い音を立てて崩れ落ちる。だからではないか。「善悪の悪」に惹かれるのではなく、「公私の私」に惹かれているのではないか。

 こういうことをじっくり説いたら、「大人社会を小馬鹿にしつつも犯罪には走らない」中庸な10代青少年が増えて、盗んだバイクが減るかな。一方でガキどもときたら、「制服義務の学校でも、私服可の学校でも、校則でなく『流行』に合わせてみんなスカート丈を揃える」みたいな、子供だけの気持ち悪い同一化ルールで「今時あの丈、ナイわぁ〜」とか言ってどんどん異端を排斥していくんだけど。KY。それが一番怖いけど。