日曜日の晩、乙女美学校が終わってからイヤなことがあったので歓びとはどんなものか知りたくなった。
学生の頃は簡単だった。接客業のバイトに出かければよい。歓びを知るためだけにウエイトレスやバーテンダーを続けていた。制服を来て、お客様という神様に仕える聖職者として勤め上げる。そこには家庭教師や塾講師やWeb制作では知れない歓びがあった。
というわけで昨晩は夜通し、部屋の床を磨いた。
日が落ちるまでは一日じゅう洗濯機を回しながら、
男からの電話を無視して蔵書の藤子F不二雄作品を全部読んだ。
日が落ちてから自転車でインドカリーを食べに行った。
また漫画を買って喫茶店でホットココア飲みながら全部読んでしまった。
夜風にあたるのが気持ちよかったので隣町の隣町まで自転車を漕いで
グレープフルーツジュースを買ってきた。
銭湯がどこも閉まっていたのでお盆休みだったことを思い出す。
床に置いたものをすべてどけて部屋の隅から隅まで床を磨いた。
普段はほとんど箒がけしかしない。何週間ぶりかなんて考えたくもない。
初めはフローリングワイパーを使っていたのだが
そのうち気がつくと知らず知らず、這って手を突いて磨いていた。
ちょうど酢をきらしていたので仕方なく化学雑巾でまかなった。
台所と風呂場と床の洗剤がそれぞれ別なんて馬鹿げている、という信条から
ゴミ分別も満足にしないくせに掃除だけはちょっと自然志向である。
汚れているところをひたすら拭いた。拭いても拭いても埃は積もる。
だから拭くのだ。部屋着がぐっしょりとなるまで這いまわり続けた。
男からの電話は何度か鳴って3時過ぎにはさすがに切れた。
8つに折った化学雑巾をあますところなく使いながら
頭で考えていたのは「ラグジュアリー」という概念について。
自分ひとりで一晩で掃除しきれる広さの部屋の主になるということは
つまり、自分ひとりですべてを御しきれる世界に住むということは
なんというリュクスだろう、と本気でそう結論づけた。が、
ベランダから始めて玄関へ到達する頃にはどうでもよくなっていた。
室内の涼感を演出するために夏は水鉢や籐製の籠を置くとか
よく雑誌に書いてあるそういう無駄な行為が私は大嫌いである。
日本には四季がある。窓の外から季節は勝手に訪れるものなのだ。
すでにそこにある季節を感じるためにも、
邪魔なもののない機能的な部屋に暮らしていたいと思う。
それにしても物が多すぎる。掃除をするとちゃんと気づく。
汗だくになったのでまた洗濯機を回しながらシャワーを浴びて
体の熱が逃げる前に昨日の乙女美学校でおみやげにもらった
「コダマシャトルラムネ」のうんと冷やしたやつの栓をぬいて
ひといきに飲んだ。
ああそうだ、歓びとはこういうものだったと思い出した。
掃除や洗濯と宗教的(≒性的)興奮は密接な関係にあると思う。
毎日6時間の授業のあと1時間以上かけて校舎中を掃除する
ミッションスクールで育ったからなのだろうか、これ。
問題は、この瞬間的な法悦を得るために普段のうちは超汚部屋である点
人間、堕ちるところまで堕ちないと浄化されないのである。