私には主体性がない。

私には主体性がない。
というか、自分の人生を生きているという実感がない。
頭上で別の誰かが笑っていて、私という存在にはそちらが本体なので
二十数年間、そいつの顔色ばかりをうかがって生きてきた。

いつも、目の前で起きていることすべてが、他人事のような気がする。
肉体が感じることはさほど重要でないと思いながら見聞きしてきた。

「どれがいい?」「何が好き?」と訊かれる状況がとても苦手だ。
自分の中には確固たる好き嫌いがあるのだが、それは善し悪しではないし、
そんなものを現実に直接アウトプットする行為は、どうも苦手だ。
だって、ものの善し悪しなんて状況次第で変わってしまうものであって
普遍性を求めれば求めるほど、即断なんてできなくなって当然ではないか。

だから私は、何事に対しても主体性を発揮する人に惹かれる。
たとえば、食に積極的な人と食事がしたいし、
できれば、性に積極的な人とセックスがしたい。
睡眠には唯一、自分自身が積極的なのでいいけど(笑)。

そう、寝ている間の出来事だけは紛れもなく主体性そのものなので
夜の夢こそマコトと感じられるな。江戸川乱歩はいいことゆった。

とにかく現実世界では、主体性のある人というのが眩しく思える。

自分より主体性のない人々の集団においては
私もレストランで注文する料理を決めたり、妙にてきぱきと動くのだが、
自分より主体性のある人と一緒にいるときには
なんて居心地がいいのだろうと思いながら、されるに任せている。

では、そんな私を占拠している欲望とは何なのかと考えると
きちんとした立派な主体性のある宿主を見つけること
そのものなのではないかと、怖ろしく考え込んでしまうのである。

就職適性診断みたいなものをやると、必ず
1位:秘書 2位:リポーター・通訳 3位:編集者
といった結果になる。誰かがいなければ成立しない仕事ばかりだ。

もちろん、すべての仕事がクライアントありきとも言えるけれど、
自分自身が触媒に徹することのできる仕事というのは、なかなかない。

誤解なきよう。編集の仕事にも「決断力」はとても重要だ。
ただ、たとえば赤・青・黄という3つのデザイン案から1つを選ぶとき、
もし私が編集者ならば、主体性なんぞで選ぶ必要は、微塵もない。

もっと美しい文章、もっと見やすいレイアウト、そう考えていくと
作家が何を言おうが制作者がどこにこだわろうが、答えは自然と1つに導かれる。
素敵。理詰めでディレクションできるって素敵。頭の中の霧が晴れる。
そうやって1案に辿りついたときだけ、「選べた」と実感する。

レストランでは何十分間メニューを眺めても注文できない私が、
目の前に何人か同時に男性があらわれるとなかなか1人に絞れない私が(笑)、
迷いなく判断を下せる場所。「これが人生なんだな」と実感する。
どんな内容の記事を作ろうがどうでもよく、働く喜びはそこにあるように思う。

というようなことはどうでもよくて、最近考えているのは
自分が「したいこと」と、他人に「してあげたいこと」との
境界線がどこにあるか、ということだ。
誰かのために……と思うより先に自分が「したい」と思うことと、
したいかどうかではなく「してあげたい」で行動すること、どちらが多いか。

私は、誰かに「してくれ」と言われたことならば全力で「したい」と思うが
瞳のキラキラした人に「あなたが本当にしたいことは何?」なんて言われると
「そんなのどーだっていいじゃん」と顔を背けたくなる。

だが、果たして「してあげた」結果は、相手が「してほしかった」ことと
つねにイコールであるのか。そんなはずはない。そんなはずはないから考えている。

最近、こんなんじゃイカンなと思うことが多いが、
今のところはこんな理屈しか出てこないようだ。
生活や人生に実感がほしい。他人様が感じているような程度のことでいい。
手に入れても私にはどれがそれかわからないような気もするけれど。