死ぬ夢をしばらく見ない(2)

 つづき。俗に言う、一般人……「各種サブカルチャーに免疫のない人」というのは、20代半ばくらいだと、まだまだ本気の「死にたい」残弾数が多い。日の当たる大通りを歩くような青春を送ってきた人。ちゃんと今風に活字離れしていて、部屋に占める書棚やCD棚の割合が洋服ダンスのそれよりずっと小さい人。映画館はデートで行ってポップコーンを買うところだと思っている人。偏見ですけど。彼らは、10代では部活をして勉強をしてバイトをして恋愛をして、20代になったら働いたり働かなかったりして、そして、なんだかとても「死にたい」残弾を余らせている。持て余している。ときに暴発させたり、不発に終わったり。

 あきらかに順風満帆な学園生活を送ってきたふうな20〜30代の人に真顔で「最近、死にたいんだよね」「人生がむなしくなるときって、ない?」なんて言われると、当惑する。そして「この人は、10代のうちにあんまり空砲を撃ってきてないのだな」と思う。まだ余ってるのは、素晴らしく思えたり、暑苦しく思えたりする。

 彼ら、絵に描いたような爽やかな青春に忙しくて、モグラ叩きなんてしている暇がなかったんだろう。私たち日陰者と違って。今更その歳で直球の「死にたい」をぶちまける彼らに、少しの羨望と大いなる優越感を、抱くなというのは無理な話だ。いきなり自分探しの旅に出たり、純文学を読んで素で感動したりしている「大人」相手に、生温い笑顔以外のどんな表情をしていいのかわからない。低次元の争いだと思いつつもニヤニヤしてしまうのが“サブカル‐オタク”側に育ってきた我ら少数派の人間、というものではないか。そうさ、そこでそうやって私の日記を読んでいる、貴殿のことだよ。

 ところで。人生残りの「死にたい」回数を消化する、絶望を昇華させる、空砲。……この表現、もしかして男性のほうがピンとくるのだろうか。モヤモヤした闇に向かってひとりあてどなく空砲を撃つ期間が長い人物ほど、成長してからより深いクリエイティビティを発揮する、と書けば、心なしか『D.T. 』の思想っぽい。ひとり、薄暗い部屋で「死にたい」と言霊を解き放つ行為は「小さな死」と同義である。女性には正直ピンとこないが、そうした解釈も可能だろうか。