死ぬ夢をしばらく見ない(1)

 子どもの頃から繰り返し考える、死期についての空想がある。

 人間には、実は「4023回、左親指が右目の睫毛に触れたら必ず死ぬ」とか「鳥と昆虫が同時に視界に入ることが619回あったら必ず死ぬ」とか、そういうルールがあって、そのことに誰も気づいていないだけである。生後すぐに死ぬ赤子も大往生のご老人も、みな同じ回数に縛られている。それが“死期”で、どの生にも、みんなそんな死が訪れる。……と、上に「」で括ったような条件を幾つも挙げていく一人遊びだ。より突飛で、よりリアルな条件を考案するのが楽しい。

 でも最近考えるのは、それとは少し違うこと。

 もしかしたら、人間が一生に「死にたい」と思う回数は、あらかじめ上限が決まっているのかもしれない。そして、私はそれを10代半ばまでに使い果たしてしまったのかもしれない。と。

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 今の私に、あともうひとつ「希死念慮」というピースが嵌まったら、頭の中に「鬱病」という真っ黒いジグゾーパズルがきれいに完成するはずだ。でも、もう何年も、私は本当に心から「死にたい」と思ったことはない。たとえ口に出して言ってみても、そこに「現実逃避したい」以上の意味はない。

 今の私、と書いたけれど、よく考えたら10代半ばからそうだ。身近には流行より10年早く手首切ってた子もいたし、精神的に食事を受けつけない身体の子もいた。それなのに私ったら、痛いの嫌だし食べるの好きだし、クーソーしてから寝てください、という糸井重里の指令通り、霞を食べて排泄するばかり。比喩表現のほうの自殺行為すら経験がない。波風の立たない凪の青春。学校に行くのは嫌い、制服を着るのは好き、友達は嫌い、知らない人は好き。紙という紙にラクガキをし、机という机に突っ伏して昼寝をしながら、自分の鼓膜にだけ音楽を流してくれるコード付きの耳栓をして、つらくとも生きていた。櫻井敦司や大槻ケンヂがやたらと真剣に死にたがる歌詞を書くと、好きななかにも「暑苦しい大人だなァ」と思ったりして。

 きっと「大人になったら、今よりずっと楽しいことが待っている」と、心のどこかで信じていたからに違いない。「大人になってまで、死にたいと思っていたくない」と、子どものうちからふてくされていた。だから10代のうちに思っておこう。死にたい死にたい死にたい。おや、だんだん死にたくなくなってきたぞ。

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 「うまく死にたがれるタイミング」は、確実に存在している。モグラ叩きのモグラのように、ぽこぽこわいてくる。人よりちょっと早めに多めに訪れたタイミングを、10代の私は「あー、ちくしょお、今すぐ死にてえな!」の掛け声とともに、すべてきれいに叩いた。モグラが出尽くした平らな地面を叩き続けてむなしいだけなので、もう死にたいとは言わない。言えない。少し叩き残しておけばよかったかな。

 大人になったら今よりずっと楽しいことが待っている。最近たまに「それって、この、今のことか!?」と思う瞬間がある。幼い憧れを叶えたとき。積年の夢が果たされたとき。こっぱずかしいけど、実感することは、ある。こんなミーハーな頭の悪さを持った人間は、もはや、おいそれとは死ねないだろう。すでに左親指が右眼の睫毛を、4022回、触っていたとしても。