やさしくされるおぼえはないと地球は言うだろう

この地球上で人間だけが森の木々を伐採して自然を破壊する。しかしまた、みずから破壊した自然を、もとに戻すことができる生き物も、人間しかいない。木を植える、種を蒔く。砂漠に失われた水を引き込む。それは他の生物がしないこと。

当の自然は、いつでも時の流れに従うのみだ。その流れに抗うことをおぼえた生き物は、よくもわるくも人間だけである。善と悪を分け、選ぶ。人間社会の中だけでなく、自然に対しても、思考して動く生き物でありたい。

10代のとき大学の志望動機にしたそんなような作文が、誰の受け売りかっていうと、父親が好んで引用していた、ミスター「共生の思想」こと都市計画家・黒川紀章氏の言葉。もとの言葉が何に載ってるのかは知らない。もしかしたら劣化複製で、オリジナルは実在しないのかも。でもすごく好きな「考え方」。

私は社会的生物ですから、ぶっちゃけ「誰も見てないところではゴミを分別しない」し、正直「我慢して後世に自然を遺すより、欲望のまま今を楽しく生きたい」。少しの間、ここに陣取って生きて迷惑かけて死ぬだけ。だけど「正しくないと思ったことは、止めさせる」。そんな行動原理で生きてもいる。

戦争大好きな世界宗教の信者たちと同様に、人類の「愚かさ」ばかり貶めて嘆いて強請る類の環境活動家は、大嫌い。「自然に優しい」って免罪符をわざわざ金で買ったりしたくない。信じてないもの。でも「種を蒔く生き物」の一員として、「破壊に反対し、保全を支持する」自分でいたい(これは伸たまき『愛でなく』の引用)。ま、ゴミはなるべく人の見てるとこで捨てよう。集合住宅はその点、助かる。


でまあ、そういう「考え方」は、私を支えるわりと太い柱のひとつになっているので、若尾文子を娶った男こと黒川紀章先生にはいつか御礼を言いたいと思っていた。今日、叶った。

彼の何が好きって、どう建てるかよりも「思想ありき」なところだ。もちろん本当は何事も「世に出す」ことが重要なんだけれど、彼の場合、自分は構想しさえすれば満足なのではないか。思想の汎用化はしたがるくせに、個別具現化は誰がやってもいい、できなきゃやらなくてもいいとか思ってそう。彼が「(後輩某)の作品には、思想がない!」と怒ってるの、なんだか憎めないんです。