【月極日記】 2018-11-23 / 邪教と私

note定期購読『夜半の月極』のためのノートでした。

noteの使い方、再開早々さっそく迷子になっているのだけど、深く考えずに「月額(≒ワンタイム)500円の読み放題をすすめる」「継続課金の無理強いはしない」「新規投稿は有料noteのみ」というマイルールで続けていきたいと思います。

で、びっくりするほど売れないですね。びっくりです。私がきちんと紹介宣伝していないせいもあるけれど、おそらくはnoteというプラットフォームの使われ方が数年前から大きく変化しているからじゃないでしょうか。そこの理解に努める過程で、つらつら考えたことを書きます。あとは好きな動画とか、おすすめのnote記事など。


https://twitter.com/okadaic/status/1062442118130610176
■買わずにつつく人々

最近、一番驚いたこと。私は現在「有料noteしか投稿しない」のに、記事更新と同時に見知らぬフォロワーから「いいね」が付く。購入者ではない。つまり読んでいない。それでも「いいね」が付く。人に読ませる文章を書いて売る身として、これより気持ち悪いことって他にあるだろうか?

もちろん善意から押していることは伝わるし、どんなリアクションでも励みにはなるので有難く感じる。でも私はそこに、年賀状の応酬みたいな、21世紀にはまるでそぐわない「虚礼」を感じたりもする。noteというメディアは、こんな旧態依然としたことのために使われていて、会社としてはウハウハに儲かるだろうけど、でもそれでいいのか?

彼らnote利用者はおそらく、通知に気づいた私が彼らのトップページを訪問し、彼らの記事に「いいね」返しをすることを期待しているのだ。そのために、新着欄に浮上してきた記事には何でも「いいね」を押す。買わずに。つつく。ただつつく。モンティパイソンのスケッチが思い浮かぶし、そういえばfacebookにも昔あったね、そんな機能。

Monty Python – Nudge Nudge

最近のnoteでは「無料サンプル記事をたくさん上げて、面白いクリエイターだと認知してもらい、ファンを増やしてから、さりげなく課金コンテンツへ誘導する」のがスマートな方法とされているらしい。このセオリーを実践する利用者たちは、自分の記事へと人の流れを誘導するため、あらゆる手を尽くす。でも、そうやって無料コンテンツが大半になるなら、みんなと一緒にハッシュタグ大喜利やってないで、独自のブログ作っていきなり傑出すればいいのに。ジェーンスーがどうやってエッセイストとして華々しくデビューしたのか知らんのか、とは言いたくなる。老婆心。老婆心からね。

でもnote運営はまったく別のことを言い、若い世代は続々とそれに従い、私はこの新しく意図的に形成されつつある凄惨なレッドオーシャンを興味深く眺めている。「 お仕事募集 」や「 私の仕事 」のタグは大盛況で、フォーマットに則ったみんなの投稿を読むのは、(無料なら)楽しい。昔流行った「100の質問」みたいだな、と思う。一方で「 規格と違う職務経歴書を作ったら仕事がもらえた 」という記事は、(有料だと)売れない。もちろんそんな惹句は書かなかったし、私はこの記事が売れずとも路頭に迷うことはないので構わないが、ただ、売れないんだな、と興味深く眺めている。

自分に見合った手段と方法の「継続」こそが最大の武器、という観点からいうと、新しくnoteに城を築き上げようという人々と私とは、根本的に立場が異なる。毎日更新しているtweetは11年分すべて無料で読める。公式サイトだって開店休業状態とはいえ稼働している。セルフプロモーションだけならnoteじゃなくたっていい、逆に、利用規約があり手数料がかかりドメインで管理できないメディアでやる必要、まったく感じられない。現代ッ子には伝わらないだろうが、自作のメリット果てしないんですよ。デザイナーとして出向く仕事の面接では「サイトはどこまで自作?」と必ず訊かれるし、ある種の人々にとってはポートフォリオ作成の基本だと思う。私が学校の先生だったら教え子に別の指導をするかな、という程度の話ですけど。

■つつくために買う人々

「買って中身を読まずにつつく」は、私にとっては非常にハードルの高い行為で、「宗教上の理由でできない」としか言いようがない。「インターネットは実質無料であるべき」教の、「ただし無料で楽しんだものでもフルに堪能して満足したら客が投げ銭を惜しむべきでない」学派の、原理主義として。売れてる本のタイトルや、新聞の有料記事を見出しだけを読んであれこれ物言ってるような人たちが、私から見た「邪教の徒」ですね。いや信教は自由ですけど。

Instagramならまだわかるよ、完全無料でコンテンツが写真縛りだからな、開くと同時にパッと見た写真に「いいね」、私だってするし、押した「いいね」に一つ一つ真心が込められていなくたって、まるで気にならない。でも読み物で本文を読まずに同じことするのは、いくら自分を世界へ売り込むためとはいえ、ちょっと悪魔に魂を売り渡しすぎじゃないのかと、心配になる。老婆心。老婆心からね。

今どうしても「いいね」が付けたくて買ったのは以下のnote。佐々木あららさんの「いちにちの記録」はもともとTwitterで始まったもので、私はこのコンテンツがとても好きだ。いつか一冊の本にでもなったら絶対に買うぞと決めていて、noteを再開してみたらどうもこちらへ引っ越したようなので、一番新しいやつを買いました。過去記事全部は買ってないけど、マガジンになったら定期購読するかもしれない。すごくいいんですよ。みんな買って読め。

https://note.com/sasakiarara/n/nbef4423f103e

この文章を読みたくて買ったというより、「いいね」する権利を買ったという意味合いがある。私はずっと、読者として、佐々木あららさんにお金を払いたかったのだ。インターネット上に散らばる、こうした名状しがたい気持ちに初めて気づかせてくれたのが、世に出てすぐの頃のnoteだった。

そうやって「有料課金のできる日本版Medium」という第一印象のまま、もっと面白いことに「だけ」この場を使えないものかな、と一人で勝手に考え続けている。結構孤独なものですが、みんなとワイワイ騒ぐより、孤独に考え事している時間が好きなんですよね。

ちなみに私は「自分のnoteが売れたぶんだけ、他人のnoteを買う」ルールも敷いていて、これもおすすめです。見知らぬ誰かがこの仕組みで私に100円払ってくれたことの喜びを噛みしめながら、誰かが作ったものにこの仕組みで払う100円は、とても安く感じられる(しつこいようだが、手数料を引かれているにしてもな)。そうして「何か作った人」という条件に合致する人々の間で100円単位の投げ銭が回っていく。これがnoteの楽しいところだと思います。