2017-10-26 / ブルックリンからの青い花

引きこもる日々。15日は先日見つけた学校近くの「villanelle」でブランチ。雰囲気に呑まれて昼酒飲んでしまう。夫のオットー氏(仮名)はワールドシリーズ進出かけたヤンキースの応援を続けていた。負けちゃって残念でしたね(←野球場に行った日から後はほとんど全然観ていない)。日本は選挙。遠くから眺めていたけれど、日本の人とやりとりをするのに会話に挟むことを忘れてしまう。遠くから眺めている日本は、三つか四つくらいの階層に分断されていて、うまくそれぞれを繋げることができない。天気の話をする人とは天気の話ばかりしていて、政治の話をする人とは政治の話ばかり、アニメの話をする人とはアニメの話ばかり、そういう感じ。

Skype会議が続く。私はいつも通りノートパソコンの画面に向かってハンズフリーで話すのだが、先方はiPhoneのアプリで「電話をかける」ようにして話しているという。「電話をかける」は、ここ数年でめっきりしなくなったことの一つ。携帯電話には毎日きっちり数件ずつ、まったく知らない州外の番号から不在着信が来る。受けてもほとんどが間違い電話かセールス勧誘なので、すべて無視している。実際の知人とのやりとりはすべて、繋がると同時に誰だかわかる仕組みの各種メッセンジャーで執り行われる。つまり私の人生にとってもはや「電話のベルが鳴る」はエラーのようなもので、煩わしさだけが増していく。子供の頃、知らない人から電話がかかってきて親に取り次いだり、親しい友達からの電話を待ったり、時間にお金を払うという仕組みにピンと来ず公衆電話でどんどん硬貨が減っていくのに驚いたりした、あれらがすべて過去のことになってしまい、これから先の人生でうまくその機微を思い出せるのか、自信がない。

たまにウキウキと電話を取るのは「Uber Eats」のデリバリーが届いたとかそんなときくらいで、ヴィーガンカレーの店と、ジャマイカ料理の店。外で食べると多いなと思う量を、最初から家で食べるとぺろりとたいらげてしまう、どちらもちょっと食べすぎた。遅ればせながら『HOUSE OF CARDS』のシーズン5を日本語字幕付きで観始める。一番最初をDVD購入で観始めたので、そのままずっと続いている。はー、ポルノです、ポルノ。ケヴィンスペイシーとロビンライト主演の、男と女がくんずほぐれつ、大変よいやおい3Pドラマ。

『宝石の国』も追いかけ視聴してますが今のところ素晴らしいですね。月人のBGMが『かぐや姫の物語』の「天人の音楽」と同じでなかったことだけが納得いかないけど(同じはずがないだろうが)(原作漫画読みながらずっと頭の中で鳴らしていたから)。


『ユリイカ』2017年11月臨時増刊号「総特集◎志村貴子」(10月28日発売)にエッセイを寄稿しました。正直言って、私に依頼が来たことにちょっと面食らったのですが、女子校出身者で男役経験者という立場から、杉本恭己の失恋と井汲京子の結婚について書いています。ふみちゃんやあーちゃんのことは他の方がたくさん、多角的に書いているはずなので。書いてみたらやたら長くなってしまって特集全体のお邪魔になっていないか心配ですけれども、私が言いたいことは全部、2016年のアルバム『ブルックリンからの帰り道』であの人が歌ってくれています。

「女の子が 女の子を 好きになるのに ゲイである必要はない」(友部正人「from Brooklyn」)

やっぱりでもこのことをちゃんと理解するのに在学中ではあまりに時間が短く、もっとずっと長い歳月がかかるのですね。あの頃のまるで集団催眠みたいな状態についてずっと「疑似恋愛」という言葉を使っていたんだが、それはそれで不正確だったかもしれない、と思う今日この頃。「私はレズビアンではないのだが、」というのをなんとか説明しようとして、同性愛者の尊厳を軽視するような言動になったこともある。言動には反省しているけど、説明はしつこく続けていきたい。それは同性愛者が「私は異性愛者ではない」を説明しようとするのと同じで、人類全体でみて多数か少数かに関係なく、お互いに、当たり前のことではないし思考停止してよいものではないと思っているので。その意味で、『青い花』は同性愛者の恋愛だけを描いているのではない、というのが意外と大事なポイントだと思っている。

ちなみに原稿には書かなかったんだけど、私は正直やっぱり『青い花』が苦手で、そう思う理由の9割方が、奥平忍(あきらの兄)の存在なのですね。『青い花』が好きだと言うと、奥平忍の存在を許したことになるようで、そこにどうしても抵抗があるというだけ、だけなんだが、漫画的に過剰に気持ち悪く描かれているにしても、ちょっと見の絵柄がかわいいからこそ、心底ゾッとする。それもまた志村貴子作品の大事なポイントなんだけど。あーちゃんがふみちゃんを好きになるのに、兄という生身の男性の存在が影を落としていると思いたくないんだが、兄がいるせいでそうも読めてしまうのがつらい。女の子が女の子を好きになるのは、女の子が女の子を好きになる、それだけであってほしい。ゲイでもゲイでなくても。

ところでこの街に暮らして、オノヨーコとも坂本龍一とも小沢健二ともすれ違うのに、まだ友部正人とすれ違えていないのはどういうことなの……。やはり私も走るしかないのか、ニューヨークシティマラソン。