誰かと過ごす時間を、お金で買うということ

 話題のネカマ愛人ブログ見た。月80万のお手当てとかブラックカードとか書いてたら別の(本物の?)愛人からのツッコミに負けて正体暴露、という流れ。愛に形はそれぞれなのに「愛人」には相場とセオリーがあるのですね。その決まりから一歩でも道を踏み外していると、保守本流から鼻で笑われるのですね。と、本題とは別のところばかり気になった。そうなのだ。実際に書いてた人の性別なんて多分どうでもいいことなのだ。

 ▼愛人ブログを2年続けた男がネカマを告白→再開の声続出
http://d.hatena.ne.jp/kurimax/20071208/1197074229

 ログを読んでいて、この架空の愛人・妙子さんが「私もパパにいただいたお金で女の子を買ってみたいわ」という下りなど、激しく共感した。筆者は、よくぞ書いたなぁ、うまいなぁ、と思った。フィクションでないと書けない紋切り型のシーンかもしれないが、だからこそ。ノンフィクションに描けないことを書くのがフィクションなのだから。今となってはすべて後付けですけどね。

 人に養われている女性が、今度は人に対価を(自分の目で見た価値で)つける側に回りたくなる、そんな気持ちになるということは、往往にしてあるだろう。もちろん相手は、ホストじゃなくて、美人で聡明な若い女性。私も、声をかけて女の子を呼び止めて、お金を払って、ただ一緒に上等なごはん食べるだけで、あとは戯れに「ねぇ、何か面白い話してよ」とか言って困らせたりしてみたい。ひとまず私は誰かの愛人というわけでもないので、困る側でもいいな。

 いただいたお金のぶん、私は完璧に愛人役を務めます。だから、誰か、お金を払うから私の前で完璧に何かを務めてみせて……。繰り返す「誰かの時間をお金で買う」ことの無限ループ。家庭人には悲劇的と映るかもしれないが、この連鎖反応って恋愛の駆け引きにも似ているし、眺めていて見飽きない。誰かに何かを与えているぶん、等しいものを別の誰かから(お金を払って)得ようとする気持ちに、私は「せつない」という単語を思い出した。にこにこ微笑んで一部始終を眺めているであろう、パトロンの気持ちを想像しながら。