新聞を見ていて驚いたのが、「亜細亜某国にも焼きイモ屋があって、やっぱり女性に人気」という内容の記事。「やっぱり」って何だ。女子供が「甘いもの好き」はまだ許そう。でも「焼きイモ好き」ってまたニュアンス違うと思う。社会の木鐸たる新聞までもが「やっぱり」女性に人気、と書く。それは何かの「お約束」に則った文章だ。文末に見えない「(笑)」が付くような、「微笑ましさ」前提の文章。
「女の子は焼きイモに目がない」――家の近所まで焼きイモ屋が来るとつっかけサンダルで買いに走る。または道端に停車した焼きイモ屋に駆け寄って簡素な紙袋いっぱい買って戻ってくる。焼きイモ屋→決死の形相で追いかける→侮蔑、焼きイモ→オナラ→滑稽。そんなニュアンスを誰もが(なぜか)汲み取れる。
気になるのは、果たして「女の子の焼きイモ好き」は社会通念としてそこまで記号化できているのか? という疑問である。記号化されていれば問題ない。記号化された通念ならば、用いる方も用いられる方も諦めがつく。
「女子供は甘いものが好き」「男の子ははたらくくるまが好き」「女性は花束を贈られるのが好き」「紳士は金髪がお好き」といった通念は、社会に定着していて、多分ほとんど全世界共通で、それを前提に話を進めてもさほど怒られない。ばかりか「あたし、子どもの頃お人形さんよりはたらくくるまが好きだったの。」と言っても特に驚かれたり気まずい雰囲気になったりしない。むしろ、前提をすっとばして端的にパーソナリティを語れるから便利だ。通念「お人形」「くるま」という枠組みだけでなく、その「例外」までもが社会に認められているというわけだ。
私は誰かに「女の子なんだから赤いリボン好きだろ」と言われたら怒りもせず「別にぃ」と受け流せるだろう。互いに「まあ世の中、連綿とそういう風潮だ」という理解を共有しているし、実際の私がそれを好きでも嫌いでも、お互いに目クジラ立てるほどのことじゃない。
でも、「女の子なんだから焼きイモ好きだろ」と言われたら、なぜだか自分でもわからないが、私は憮然としてしまう。実際、大好きだけど。私自身が多少なり赤いリボンが好きだったり、別の女子への贈り物についつい赤いリボンをかけてしまうのは、幼少から「女の子らしさ」について教育されてきたからだ。しかし私が焼きイモを好きなのは、単なる趣味嗜好で「女の子らしさ」教育とは関係ない。
「女の子だから」「焼きイモ」という語の組み合わせにまだ納得できていない。「焼きイモ」には、根拠が無いのだ。女の子→便秘→食物繊維の摂取に必死→焼きイモ摂取に必死→オナラ→滑稽、という程度。単に食物繊維というならカボチャでもキャベツでもいいはずが、なぜかイモ。田舎くささを意味する「イモっぽい」的ニュアンスも侮蔑に一役買っている。私の記憶が確かならば、これは藤子F不二雄あたりからの比較的歴史の浅い「お約束」じゃないだろうか。
「女の子」と「焼きイモ」をセットで語る連中には「勝手に前提にするな」「根拠を示せ」と思ってしまう。中には、彼氏の前で「あ、焼きイモーv好き好きーv」と屋台に駆け寄ってみせるのが「ぬいぐるみ好きーv」発言などと同じく「女の子らしさの誇示」と思っている女性も居て、「それは違うだろう」といつも思ってしまう。