アーカイブ視聴期間にギリギリ間に合ってミュージカル『NOW LOADING』の配信を観た。演出・プロデュース・作詞・出演:天羽尚吾、脚本:相馬光、作曲・出演:海老原恒和。あちこちで評判を聞いていたもののバタバタで観られぬまま、だんだん周囲から「は? まだ観てないの? 私はあんたに薦められたミュージカル観たのにあんたは薦めたやつ観てないの?」などと圧がかかりはじめ、やべえやべえと慌てて観たら、これが素晴らしくよかった!!……と書くと同時に配信期間が終わってしまったので、各方面から「褒めるのが遅えんだよ」と叱責必至。強要はよくないよ、というテーマの作品を強要してくる、それがオタク。
さまざまな観点から、よくできている、と思う作品だった。一つはミュージカルとして。日本人が日本語で日本を舞台に日本製のオリジナルミュージカルを作る難しさについてはさんざん議論の対象になっている、ならばまだマシなほうで、議論の余地なく不可能だと斬り捨てる客も少なくないのだが(何様なんだろね)、私が近年観た小劇場系ミュージカルの中でも指折りの出来だと言える。
冒頭、登場人物が舞台上で一人でずっとオタク喋りを続けながらその延長線上でいきなり歌いはじめるツカミで大成功しており、それは「テンションの乱高下が激しいゲーム実況配信者」という設定の勝利。『A Strange Loop』に代表されるあの「オタク特有の早口とミュージカルは親和性が高い、なぜならミュージカル書く奴は本人も大抵早口のオタクだから」の日本版かつ最新版の様相、すぐ引き込まれる。不特定多数に手を振る挨拶と、音声通話中の相手とのぎこちない会話と、反響を手元で受け止めながら外ヅラを剥ぎ取って漏らす内心の叫びとが、テンポよく交錯して「歌」にもつれ込む手法が見事。単語一つでも聞き落とすと内容が掴めなくなるミュージカルもあるけれど、本作はいい意味で「聞き流せる」ポップス風の歌詞で、音楽劇との中間くらいか。
私はゲーム配信文化に疎いのだが、「誰かとインディー活動する面白さ」「親しくなってアフターでも繋がる楽しさ」「どれだけ親しくなっても互いの素性をよく知らない居心地のよさと、裏返しの怖さ」などが、努めて間口広く丁寧に描かれる。さっきまでドン底に落ちてた配信主が、ガチガチに緊張した初心者、つまり「ぼくよりだめなやつ」を迎えた途端むくむく元気になって、ネット弁慶なりのリーダーシップを発揮する様子など、わっかる……。うちら世代のノリわからん奴には理解不能っしょ、みたいな内向きの諦念が皆無で観やすい。アマチュア無線を題材にした漫画とかパソコン通信を題材にした映画とか、過去の名作に相通じる普遍性がある。
対象のゲームを見せすぎない作りもよい。てか、この予算でも照明と効果音の臨場感さえちゃんとしてれば「ゲームの芝居」が作れんのな!? と驚いた正直。「ゲーム配信に救われたから、ゲームの中で恩返しがしたい」という理屈には完全に置いてかれたが笑、「自分とバディになってもらえませんか」という愛の告白(ではない)には滾ったし、バディ爆誕の歓喜の歌が「突然アロハシャツを着る(概念)」に至るのが大変かわいかった。そして「ゲームの芝居」ならばここまでで終わっても十分麗しいのに、ああ、これ別に「ゲームの芝居」では、ないのね……? とジワジワ気づかされるのが、また別のよくできている点。
「男から男へ、また次の男から男へと、繰り返されるパワーハラスメント加害の連鎖」については、心を正座にして拝見した。男しかいない空間で、「男、見せろよ」という言葉とともに振るわれる暴力、女である私は、いくらわかった気になっていても「知らない」のだなと痛感させられる。男から加害されて傷ついてるのは女だけじゃない、男の被害者だっている、弱い男だって標的になるんだ、それがトキシックマスキュリニティだ!! いじめダメ絶対!! というメッセージをぶつける小劇場演劇は珍しくないが、「それを伝えるのに、なぜ、客席に向かってそんな暴力的に衝動的にガナるのか……運動部体育会系を仮想敵としながら彼らよりデカい発声を武器にする文化系肉体派男子、自分たちが何をテーマに描いてるか本当にわかっているのか……?」となることも多々あるじゃないですか。いや、あるのよ。男と男がミュージカルという形式を採用して同じものを別のかたちで真摯に表現してくれたの、客席の自分も真摯に観られてよかったです。
でもこれは口で説明するより観てほしい。そういえば以前、あるプロレスラーが同じように「パワハラ上司に追い詰められて自尊心ボコボコに潰れたけどそこからゲームのクエストのように回復した」実体験を寸劇仕立てにしていた。あれも「文化系肉体派」を選んだ男性が「脱・体育会系」を目指す、祈りの儀式のような表現だった。でもそっちも「答え」は出ていなかったと記憶する。『NOW LOADING』も同じで、正直「え、ここで終わっちゃうの?」と思う幕切れではある。でもそう思うってことは私の中に「スカッとしたい」欲望があるってことで、よくない。これがよくないんだよ。やなやつ殴ってスカッとして終わり、ではない別の地平で朝日が見たい。君たちと一緒に。
また、「先輩からダメな奴と烙印を押されることに怯えて誰かの何かの救いを求めていたが、では、後輩から落胆されることについてはどうか? おまえは一度でも誰かを何かを救おうとしたか、根本解決を図ろうとしたか? それではあんなに憎んでいたダメな先輩たちの再生産じゃないか?」という問いかけ、こちらは性別関係無く刺さった。『我は、おばさん』にも書いたこと。「我々の世代までで負の連鎖を終わりにしようぜ」とうそぶくのは簡単で、でも具体的に行動に移すのが難しい。誰かの手を借りて何かに成れる。一人芝居では描けないテーマだ。男と男が目を見合わせて終わる二人芝居で観られてよかった。
天羽尚吾はどの場面も当て書きなんだろうなと錯覚させる上手さがあるが、海老原恒和のほうは(先輩か後輩か、体育会系か否か、どのくらい深い愛情が有るのか無いのか、どこまでが嘘で真か)あらゆる意味で場面ごとに「どっちにも見える」境界を攻め続ける演技で、これまたすごかった。よっぽどヨガに向いてそうなルックスの天羽さんが「まじ無理〜」と音を上げると、海老原さんが今度はネット弁慶ならぬエクササイズインストラクター弁慶みたいになって戦士のポーズを強要するのに笑ったし、ラストで天羽さんがきれいにバランスとってて泣きました。私もヨガ続けよ、そして芝居を観続けよ。誰かを攻撃するためでなく、自分自身と闘うために。