秋学期の初め、ファッション科の教授とお茶しながら「学期ごとの成績を異様に気にするのは、クソ真面目な若いアジア人の留学生たちだけ」というような話を聞いた。全米の大学の標準がどうかは知らないが、我々がいるのは世界有数と言われるデザインの学校、ちなみにこの教授は在米数十年のアジア系である。
いい就職をするためにいい成績が必要というのは一般的な話で、デザインの世界はポートフォリオがすべて。通知表がオールAだって、作ったものがダサければどこからもお呼びがかからない。そして俗に「才能」「感性」などと呼ばれるものは、「教育」の過程での成績評価にはあらわれないことが多い。タマゴから雛を孵す養成機関で教育者たちにイイコイイコと褒められる学生が、その後、世界を震撼させる革新的なデザインを生み出すことができると思うか? 答えは大抵の場合、否だ。
そのことをよくわかっている優秀な学生は、大学を賢く利用する。現役で活躍する第一線の講師と直にコネクションを結べる授業だけ選び抜いて履修し、くだらない必修科目には顔を出さず、成績も取得単位数もめちゃくちゃ、卒業前にアドバイザーと腕ずくで交渉して特例扱いで免除してもらうとか、あるいはそのまま卒業証書ももらわずに立ち去って履歴書には堂々と「あの学校の出身です」と書くとか。自分の人生の焦点が定まっている学生は、大学に求めているものも明確で、学費を払う代わりにそれさえ得られれば儲けもの、と考えている。それでもいいんだ、と教授は言う。我々の使命も「在学中の優等生」を増やすことではなく「優秀な卒業生」を「実社会」へ輩出することであるし、社会的に成功した人間が後から名誉学位を授与されるのも当たり前の国だし。
そこをわかっていないのが古くは日本人、現在だと急増する中国人の留学生たちで、彼らは概して「学校から付与される成績」や「全学生の中で何番目か」といった相対評価の順位ばかりを気にかける。どんな授業でも闇雲に最高評価を求め、裏を返せば楽に単位が取れるヌルい講義が人気を集める。本人たちがそうした競争や受け身の評価に慣れきっているせいもあるし、「どうしてうちのボクちゃんの成績がオールAじゃないんザマスか!?」と学長室に直接クレームを入れるような保護者も珍しくないのだという。親のスネかじって高い授業料払って成績を買って、金ピカの額縁に入れて祖国へ持ち帰って、それで何物になれるっていうんだろうね? いや、彼らの祖国の社会においては、こちらと違って、そういうものが「才能」「感性」を担保してくれるのかもしれないけどね。……とまで過激な皮肉はもちろんおっしゃらなかったが、まぁそんなニュアンスのこと。
「一流大学はトップで入って中退するのが一番カッコいい」みたいな、そういう美学については日本でもよく耳にする。実際のところがどうなのかはよくわからないし、ここで言われる「カッコよさ」というのが何を競うものなのかも、正直ピンと来ないのだが。「それでも私、やるからには全科目で高得点を狙いますよ、なんたって、二度目の挑戦ですからね!」というのが私の受け答えであった。うーん、我ながらまばゆいほどの日本人優等生ぷりではないか。豪語した割に実際は朝の授業に寝坊して30分級の遅刻をかましまくっていたのだが(※本来ならそれだけで落第の対象)。
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私の通うプログラムは四年制大学卒業が入学条件で、出願時、前の大学の成績証明書の提出が求められる。信濃町にある他学部のキャンパスへ出向いて書類を受け取り、一度目の学生時代に自分がどんな成績を取っていたのか10年ぶりに見返すことになった。そこそこいい成績だったが、優等生と呼べるほどでもない。ほとんどの履修科目は科目名さえ忘れていた。どれがAでどれがBで、どれが捨て科目でどれがエグかったか、その後の人生にはまったく関係していない。見覚えのない講義名を見返しながら、「もう一度、これと同じことをやろうっていうのか俺は」と少々うんざりした。しかし、一度目と二度目は、ずいぶん違う。母国の価値観をひきずったまま海外留学して帰国しても何にもならない、という教授の言葉もごもっともであるが、私は日本がどうこうというよりは、「一度目とは違う、二度目の価値観」に則って、さまざまなことに一喜一憂している。
二十歳そこそこのクラスメートと机を並べていてしみじみ感じる。私には彼らに敵わない部分がたくさんある。美しい発音でなめらかに繰り出されるマシンガン自己PRトークであったり、「僕は将来クリスチャンディオールのディレクターになる」「30歳までにテッペン取れなきゃ死あるのみ」といった猪突猛進型の夢語りであったり、あるいは、つい先日までAdobe製品に触れたこともなかったのに植物図鑑をベジェ曲線でトレースした見事な作品を作ってきたり、毎日の睡眠2時間でリサーチやスケッチを繰り返していたり。若い! 若いよ君たち! と眩暈がするほどエネルギーに満ちあふれている彼ら。自分が同じ年齢のときに同じくらい貪欲でいられたかと振り返ると、まるで自信がない。背伸びして斜に構えて老成したフリをして、若さをドブに捨てていたよなぁ、と反省しきりである。
一方で、アラサーの社会人学生同士で、これだけは若いモンには負けないぞ、とたびたび意気投合するものがあって、それは「要領の良さ」だったり「仕上げの体裁」だったりする。若い学生たちは、11×17インチの白黒でパネルを作ってこいと言われてもなぜか15×20インチのカラーで完成させてきたり、それを四つに折り曲げてむきだしのまま持参してきてコーヒーこぼしたり、あるいは、何度注意されてもトリムマークを印刷せずにハサミで適当にふちを切ってきたり、果ては「絵の具が乾かなかったから来週持ってくる」とのたまったりする。別分野とはいえ一度でも社会人経験のある大人学生たちは、納期を守り、完成品はフォリオにおさめて持参し、万が一に備えて予備をもう一部作っておき、もし間に合わなければ過去のスケッチを駆使してアドリブでプレゼンテーションし、そのままプロダクトとして世に出してもおかしくない品質のモックアップや完成予想図を仕上げてくる。ここで与えられた課題を「仕事」と捉えて取り組み、ここで学んだことが次の「仕事」でも活かせるという具体的な手応えを日々感じている。誰に強制されたわけでもないのだけれど、私たちはそのようにする。二度目だから。社会人なので。
学校の成績で「才能」や「感性」は測れない。これは教授の言う通りだと思う。しかし、人生二度目の大学生活を選択した我々世代の学生たちは、とにかく「成果」に飢えている。宿題のためだけの宿題とか、そのまま世に出せないレベルの試作品の作りあいっこでは、心身ともに満足できなくなっている。オトナだからな。もはや我々は「才能」や「感性」、あるいは卒業後の職業適性といったものを、わざわざ他者に測ってもらう年齢ではない。手持ちの武器を知り尽くし、短期決戦から持久戦から撤退戦まで、場数にはそれなりの自信がある。ともすれば自己満足のカタマリとなりがちな課題制作を、学内の自己満足のままでは終わらせないぞ、何しろ「仕事」は「成果」がすべてだからな、という志で取り組んでいる。何よりもまず、自分のために。そして後からついてくる「成果」のために。
私はこの、社会人学生が集まったときの、若者とはまた別方向へ「ガツガツした」雰囲気が結構好きで、この空気を堪能するためにここへ来たのかもしれないな、とよく考える。親御さんに学費を出してもらっているから好成績の通知表を持ち帰らないといけない、という若者たちとは別の意味で、稼いだカネをつっこんで自腹で来ている我々社会人学生は、事あるごとに「元を取らなきゃ」と言い合う。同じ学費を払うなら卒業しないよりしたほうがよいし、成績が悪いよりは好いほうがよい。身一つでやってきた留学生はなおさらで、就労ビザもなくソーシャルセキュリティナンバーもなく、インターン先が見つかる保障もなく、でも、大学でよい「成果」が出せたら、この国で生きる次の道が拓けるかもしれない、と信じて行動している。
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「A評価というのはおおむね全学生の上位4%を指し、クラス内の相対評価ではなく生涯の絶対評価(今までに受け持ったありとあらゆる学生の中で何番目にすげえか、つまり数年前のアレキサンダーワンよりすげえのか否か)で成績をつける講師もいるので、該当者ナシのことも多い」というふうに聞いていたのだけれど、いざ蓋を開けてみると真面目にやりさえすれば結構もらえるもので、忘年会の夜にはずらりとAの並んだ通知表を見比べながら、社会人留学生同士「なんだ、ずいぶん頑張ったんだねぇ、私たち」と褒め合い、労い合って別れた。クラスメートからの嫉妬や中傷、足の引っ張り合いなどをおそれて、よくできた成績を人前で隠す必要もない。教室内の順位にビクビクしていたコドモ時代と違って、もうオトナだからな。
それから教授、私たちアジア人留学生がやたら「成績」に固執するのは、母国の文化圏では何をどんなに頑張っても、滅多になかなか褒めてもらえなかったから、というのも関係しているかもしれませんよ。こちらへ来てから、「人間、いちいち何か褒められるってだけで、こんなにも頑張れるものか!」と驚くことしきり。豚のまま豚として、どんな木にだって登れる気がしている。二学期目は講義の専門性が高まるのでこんなにいい成績は取れないと思うけどね。