今の自分と似たような状況にある人が、今の自分とはまるで違う心境をインターネット上で綴っており、読んだ直後は「まぁそういう考え方の人もいるか」程度に思っていたのだが、幾つかの出来事が折り重なって、数日経っても頭を離れずにいるので、なんとか言語化を試みてみる。
ひとつは小沢健二の「魔法的」。平日昼間15時開催のイベントが詳細不明のまま24時間前に告知され、おそらくは主催側も想定外だったであろう動員を集め、急遽整理券が配布されてあっという間に枚数終了し、入場できなかったファンも大勢いた、という顛末を異国の地にてチラホラ耳にした。実際に現地に足を運べたわけでもなく伝聞なのでそれ自体の感想は述べられないが、この突発イベントに対してSNS上などで「怒っている」人たちの様子がやけに印象に残った。彼らの言い分の中に「もっと『普通』にやってほしかった」という声を幾つか見かけた。
ここで言う「普通」って何なんだろう。何ヶ月も前から何が起こるか告知して、事前にすべての情報を明らかにし、会場代を入場料で賄い、その支払われたチケットに適っただけの、無理して仕事を休んできたようなお客さんにも見合うだけの、内容を見せる、ことなんだろうか。或いは、今から飛行機に乗って来ても間に合いませんよ、といった情況をリアルタイムでお知らせすることか。もしくは、日程は週末がよかったとか、もっと大きなハコでやってくれとか。ちょっとわかる気もするが、それが「普通」なのかはわからない。本物のライブツアーであれば興行側もそうした声に誠実に対応すると思うけど、今回は何しろ誰も何も知らされていない「魔法的」な出来事だったわけで。
サプライズパーティーって、必ず至らぬ点やありえない失敗やダサいことが起きてわけがわからなくなる不完全なものだし、入場規制くらってクアトロ前でたむろしながら音が漏れてこないかジリジリ待つ、そんな懐かしい行為をまさか今またやる羽目になるなんてウケるね! と、私は遠隔地でそんな能天気な空想をしていたのだが、当日の現場はもっとガッカリ気分でネガティブに殺伐としていたのだろうか。子供の遊びに付き合わされた大人がその理不尽さに不機嫌になる感じ? 体験していないので何とも言えないけど。
今回、怒っているファンの人たちだって、ありとあらゆる突発的なゲリライベントを、それに参加するわけのわからないワクワクを、全否定しているわけではないのだろう。でも小沢健二のような人に、「意外性」や「普通と逆」よりも「常識的」な「あるべき振る舞い」ってやつを求める信奉者も存外いるのだな、と興味深く眺めていた。昔からずっと一定数いたのがここへ来て顕在化したのかもしれないし、あの頃の僕らが年を取って「大人」になったからそういう捉え方をする人口が増えた、ということかもしれない。
あんまり外国かぶれみたいなことは書きたくないが、曖昧でいいかげんでこぢんまりして誰も全容を把握してない、そんなグダグダな出来事に、私はこの半年ですっかり慣れた。大抵がハズレだけどたまに大当たり、時間を無駄にされても苦笑いするしかない。時刻表のない地下鉄、言葉が全然通じない店員、予約して行ったのに閉まってる窓口、宣伝写真で見たよりショボいフェスティバル、なんかそういう環境全体が当たり前になってきた。むしろそのくらいが「普通」とさえ感じつつある。というか、「普通」の意味が薄れている。日本では頻繁に使っていた「それ、普通どのくらい時間かかります?」といった質問も、「そんなこと訊いて何になるんだ、個々の事例は独立事象だろう」と露骨に面倒臭そうな顔をされ、ありえないほど先の日付を言われたりもする(訴訟社会だから簡単に期日を保証しない、みたいな意味合いもあるのだろう)。
それで私は、今回のこと「小沢はもっと『普通』であるべき」とは感じなかった。これって自分も今、彼らが言う「従うべき普通」の効力が及ばない海の向こうに住んでいるから、なのかもしれない。あと、こと小沢さんに関しては、昔どこかで「カエターノヴェローゾみたいになりたい」と語っていたのを「なってる、だいぶなってる」と思ったり、或いは、同じくニューヨークを拠点とする友部正人との共通項が「増えてる、かなり増えてる」と思ったりしていて(※個人の感想です)、私はその雰囲気がすごく好きなせいもあるのかな。朗読、聞きたかったなぁ。
でも日本の国内では今、こうした出来事が極端に少なくなり、許容されづらくなり、たまに起こると「非常識」といった評価を得てしまうのかもしれない。まぁキャパ800の会場で一般整理券が100や200では、実際に現地に並んでいたら私とて怒る側に回った可能性はある。でもそんなことや具体的なイベント内容(なんか素晴らしかったみたい)について話しているのじゃない。同じことで同じように怒っているはずの人たちの一部が、他者を責めるときに当然のように「あるべき」や「普通に」といった言葉をぽんぽんぶつけるのが、なんだか私には恐ろしい、という話。
もう一つは、とあるニューヨーク在住の留学生が書いたもの。私はそれをやっぱりインターネットで読んだ。だいたい私と似た年齢の社会人らしく、これから海外留学を志す若者に向けて、冷静な目線でいろいろ情報発信している、ように見えるブログだ。少なくとも私が渡米準備中だったら、大変ありがたく一字一句を大切に読んだと思う。しかし今はこの人の筆致の偏りがよくわかるし、ためになる情報が書かれていても、その偏りのほうが気になって、うまく読み進められない。
たとえば「マンハッタン島内にワンルームを借りて住んでいるような学生は億万長者のドラ息子ばかりで、俺のような日本人の庶民は『普通』ブルックリンに住みます」とか。「あの界隈はヤクザ者の◯◯人ばかりなので『普通』は近寄りません」とか。私の知る日本人学生にはマンハッタンで一人暮らしする子もいる、みな働かずに生きていけるほどの超富裕層ではない。むしろ初めて親元を離れる諸外国の富豪の子女ほど門限厳しい学生寮や同郷人の家に預けられている印象がある。今はブルックリンだって人気のエリアは地価が高騰し、節約で郊外に住むというより、「どうせ同じ価格帯ならブッシュウィックがイケてるしー」なんて理由で部屋を探す人も少なくない。ヤクザ者の移民街と評された辺りは、たしかに真夜中は用心が要るが、近所にはそれこそ学生寮もあり、住む人種もさまざまだ。もっとずっとヤバい通りはいくらでもある。
この人は「留学生がこの水準の生活を維持するのは『普通』は無理です、だから『普通』はこれこれを切り詰めます、その際はこうした制度に頼るのが『普通』でしょう」といった節約術を中心に書き連ねていくのだけど、どれも言うほど倹約にはなっていないし、手当たり次第に「贅沢」をdisりまくるのが、面白おかしく書いているようでちっとも笑えない。マンハッタンに住み、外食と観劇を繰り返し、バーゲンで洋服を買いあさり、地下鉄が動いてるのにタクシーに乗り、美術館が入場無料の夜は大混雑してゆっくり観られないから金払ってでも他の日に行くわ、という私の暮らしは、「普通でない」豪遊をしている奴、死ね、となるのだろう。だが、ちょっと待ってほしい、もしこの人が本当に「必要最低限の実費だけで業界最安値の米国留学がしたい」という考えだったら、そもそもまずニューヨークの大学院なんか選ばなかったはずじゃないか?
ただ生きて呼吸しているだけでチップ込みの金をむしり取られていくような街である。それを承知の上で、むしろ喜び勇んでそうした「税」を納める勢いで、ありとあらゆる手段でどしどし他所者が上陸し、あわよくばそのまま定住して夢を掴みたいとも願う街である。「下積み時代は貧乏暮らしを耐えるのが『普通』です」と書き綴るこの人の言い分もわかる。どうしてもこの街で学びたい、そのために多少の金銭的つらみには耐えるよ、って思いは私も同じである。でも、だからって見聞を広めるコストまでケチっていると、わざわざ来た甲斐なくなるんじゃないの? とも思ってしまう。
何本か記事を読んでの私の感想は、「この人は、『俺』という一人称を使う代わりに『普通』という言葉を使っているのだ。そして、そのことに自分ではまったく無自覚なままなのだ。怖いなぁ」だった。日本では何不自由なく恵まれていた勝ち組(の俺)も、この街では同等の生活水準を保てない、と綴る文章に、海外留学してなお「日本」と「俺」が絶対基準で、それこそが世界における「普通」である、という感覚がにじみ出る。そして「俺」の想像が及ばない「俺」には到底理解できないもの、たとえばこの街で平然と暮らす富裕層あるいはアウトローを指すときに、「普通」を振りかざしてこき下ろす。いやしかし、そんなに「普通=俺」ばかりが大好きなら、その「普通=俺」理論が通じる場所で別の生き方をしたほうがハッピーだったんじゃないのか。本当はそこそこ豊かな割に「贅沢は敵だ!」というスローガンで連帯感を満喫できる均質な空気の国、私ひとつ知ってますよ。
昔、どこぞのおじさんから、「ジャニーズやタカラヅカに貢いでる女の子って、うんとお金持ちのお嬢さんか、でなければ会社に隠れて水商売してたりするんでしょう?」と言われたことを思い出した。彼にとっては、一回一万円近く払って同じ舞台やコンサートを何度も観るという行為は「普通でない」ものなのだろう。「普通」に働いて「普通」に家族を養い「普通」の生活をしようと思ったら、そんな趣味にお金をかける余裕はない、もしそんな「普通でない」ことに現を抜かしているのなら、何かとんでもない犠牲を引き換えにしているに違いない、という理屈だった。そして私にはちっとも魅力的と思えない酒場で空になったキープのボトルを補充していた。彼の飲み干してきたボトルはジャニーズのコンサートに換算すると何回分か。それとも会社名で領収書を切っているのだろうか。それが「普通」。普通って何だろう。
先日のメトロポリタンオペラ『トゥーランドット』は、じつに贅沢な観劇体験だった。最初は高いなぁと感じたチケット代も、観終えた後には「あれだけの額でこれだけのものが味わえるなんて!」と思った。お金と時間の許す限り何度だって来たい、となると、お金と時間は頑張って捻出するしかねぇな、と奮い立った。幕間にシャンパンを飲み、終わってからもワインがはずんだ。グラス一杯の値段は、週明けから学校が始まったら昼の弁当代にだって絶対出せない額である。
でもいいんだ、私にとっては、これこそが「俺」の感覚で、まぁまぁ「普通」の範疇だ。大金持ちになれなくたって庶民として庶民のまま、何かしたいという気持ちを抑圧せずにすむ程度のフトコロ具合を保っていたい。そのために必要なだけ働こう、勤しもう。手を伸ばせば届くところにあるものを、ちょっと頑張れば掴める人間になろう。「普通」は届きっこない、と言われたって、伸ばせるだけ手を伸ばしてみよう、それでもしかしたら超絶ラッキーな出来事が転がり込んでくるかもしれない。たとえ何一つ得られなかったとしても、大抵は、挑戦するときのワクワクだけでお釣りがくる。私はそのくらいちゃらんぽらんに、曲がりくねった無駄だらけの人生を生きている。
結局、その無駄なことを楽しみ続けるしかないのだろう。「普通が一番」という考え方もわかる。幼い頃からそれが口癖の友達などいたし、年齢とともにそちら側へ渡っていく人も多かろうし、それが先鋭化すると「普通でない」物事になんかいちいち労力を割いてらんないよ、と怒ったりするのかもしれない。でも私にとってはこうやって「無駄が多い」状態こそが我が人生の「デフォルト」であり、それが世に言う「普通」とズレていたって、私にはこれが「普通」で「一番」なんだよなぁ、だから贅沢の肉と書く贅肉がちっとも落ちてくれないのかな? でもこれだって、俺史上では相当ヤバい領域でも、アメリカ人たちの中で暮らしてると「普通」より痩せて見えたりするんだよね、錯視錯視、とかまで思い至ったところで、4800字費やしてようやくモヤモヤが晴れた。