中学入学当初、先生や部活の先輩と距離を詰めたくて、わざと敬語を使わずに接していたことがある。いきなりタメ口というわけではなく、「質問して返事を請うときなど、相手へ投げかける言葉はデスマス」「不変の事実や、限りなく独り言に近い自分の見解を述べるときはデアル」といったルールを自分で勝手に決めて、おそるおそる使い分けていた。今もよく、当時のことを思い出す。
「先輩、今日の部活いらっしゃいますか?」「うーん、まだわかんない、サボるかも」「そうなんだ、私もやめとこっかなー、中間テスト前だしなー」「いやおまえは行けよ」「はーい、わかりました。でも先輩だけってズルいなぁ。あ、雨が上がった! ラッキー!」……うまく再現できないけど、例文を作るとまぁこんな感じだろうか。周囲の子たちは「目上の人間の前では、知る限りの敬語を最大限に駆使して接するべし」という当たり前の躾を受けて素直に育っているので、「私も今日は休みたいと考えています」「雨が上がったようですね」といった言葉遣いになるし、「嬉しい」「嫌だ」といった感情や「腑に落ちない」といった意見については、先方からわざわざ見解を問われるまでは表に出さないのが、奥ゆかしい後輩のあるべき姿とされている風潮があった。きっと今の中学校でもそうだろう。
私は、それをどうにかして崩したかったのだ。理由はよくわからない。ただ、体育会系の部活で実施されていた「上級生と同じ持ち物を使ったり髪型がかぶったりしてはいけない」「校舎の廊下で上級生とすれ違うときは隅に寄って黙礼し、通り過ぎるまで頭を上げてはいけない」といった、(おそらくは宝塚音楽学校を模したゴッコ遊びなどから始まったのであろう)(もちろん校則には記載されていない)不文律のようなものを心底アホらしいと思っていた。周囲の同級生たちが「先輩に目をつけられると大変なことになる」と震えながら階段の踊り場を素早く直角に曲がって歩くなか、「はー、なんかみんな大変だねー、うちの部活は文科系だから上下関係まったく厳しくないんだよねー、やっぱ年功序列のタテ社会より実力主義がいいよねー」とうそぶきながら、優しい上級生たちにかわいがらつつ平気でタメ口をきく尊大な俺、というセルフイメージに酔っていた。要するに、厨二病の発動の仕方は各人各様、というわけだ。私が採択した「先輩にフル敬語を発動しない不遜な後輩」というキャラクター設定も、他の子が採択した「親にも打たれたことないのに鬼先輩の理不尽なシゴキに耐える従順でかわいそうでいたいけな後輩(涙が出ちゃう」というキャラクター設定も、どれもこれも似たような「中学デビュー」の一種である。
「他者から与えられたルールに従うのではなく、自分で自分の振る舞いのルールを決め、それにのっとって行動する」……ということを、意識して始めたのが、この頃からなのだろう。もちろん、大抵の物事については社会の中で形成されたルールのほうが圧倒的に正しく、私のような人間は「おまえの身勝手なルールなど知るか!」と怒られることのほうが多い。そりゃあ、約束には遅刻はしないほうがいいし、ゴミは自治体の分別に従って捨てるべきだし、全裸で往来をうろつくのはやめておけと思うし、目上には敬語を使ったほうがいい。私だって、さすがに、そういうことは人並みにわきまえているつもりだ。たぶん。おそらく。その上で、隣のクラスメイトから「ちょ、敬語! 先輩にその口のきき方はヤバいよー! 何考えてんの!」とたしなめられても、虚勢を張ってふんぞり返りながら「いいの、いいの、世間のルールではアウトでも、俺のルールには抵触してないから」と頑張って笑っていたあの頃のことを、今でもよく思い出すのである。
「不変の事実」(眼前の事実and/or不変の真理)という言葉は、一年生の英語の教科書で覚えた。日が昇る、時は金なり、1+1=2、過去、現在、未来にわたって変化しないそういう「当たり前のこと」は、現在形のまま、時制を変化させずに表現するのだという。12歳の私は、このルールがいたく気に入った。そもそも時制変化の文法が苦手だったので、テストに出る例文のなんでもかんでも不変の事実に思えてくるし、なんでもかんでも不変の現在形で表現したくなる。不変の事実は、会話する人間の一時的な感覚やその場の認識、体内時計などに左右される余計な気遣いがいっさい無用なのである。その確かさがとっても素敵なことのように思えた。「ならば、不変の事実を伝えるときには、たとえ目上の人にでも、敬語なんかも使う必要はないのでは? 日本語と英語の違いはあれど、文法的にはさほど間違っていないのでは?」……という謎の実験精神が、そもそもの事の発端だった気がしてならない。
その後、私はこの「自分でルールを作り、世に醸成されている『空気』といった不確かなものではなく、そのルールを基準に行動する」ということを、さまざまなジャンルで続けていった。一番イッちゃってるのが「手書きのための独自のコンデンスドフォントを作って自分がワープロになる」であり、ありがちなものでは「アニマルプリントの服は着ない」「アノニマスな人物が描かれた服飾品は持たない」といったファッション系のルールがある。他にもたくさんあって、今も自分の暮らしを縛っているのだが、あまりに日常に溶け込んでしまったので普段はその大半の意味や由来を自分でも忘れてしまっている。いつからホットのレモンティーを飲まなくなったんだろう? 知らんわ。
日常会話に英語を使うようになってまずこの「不変の事実」について考えることが増え、次に、外国語で目上に対する敬意をどう表現するか迷うことが増えた(誰だよ英語には敬語がないなんて適当なこと教えた中学教師は!)。結果、高等部の先輩に向かって「違いますよ先輩、代官山駅には、急行止まんない。」などと敬語タメ混じり文で話しかけながら、内心ビクビク「今のは、日本語文法の丁寧語としてはアウトだけど、マイルールではOK、たとえけしからん態度だと注意されたとしても、『不変の事実』だからと説明すれば、きっとOK」などと考えていた、子供の頃のことを、今まで以上にしょっちゅう思い出す。全部の状況をうまく思い出すことはできないけれど、当時の私は、何かがしたいと思っていた。既存のものにいちいち介入して、何か自分にとって(都合の)良い変化を起こしたいと思っていた。「壊す」「乱す」「無に帰す」ではなく、今ある何かを「組み換える」といったような動作によってだ。そうした「何か」を集めて積んで突き詰めて、現在の私ができあがっているのだよな、と、ずいぶん遠くに来てからも何度も振り返る。