2016-06-02 / この街にはヅカがない

1日の水曜日は、夫のオットー氏とともに近所のGoodwill営業所まで。約1年前の引っ越し時にもったいなくて一応持ってきたはいいものの結局サイズを直してまで使うことはなかった立派な遮光カーテン、まだ履けはするけどサイズ合わなくて痛いだけの靴、東京では仕事着として重宝したがこちらの暮らしでは着る機会がないジャケットやシャツ、などなど、数袋分まるごと寄付する。ただ持ってくだけで、玄関口で中身も見ずに「ああ、そこへ置いとけ」と言われて、それだけで断捨離すっきり終了(税額控除用の手続きには別途書類が必要)。日本を離れるときにもいろいろな手段を使ってずいぶん衣類を処分したが、点数を明記しろとか指定の伝票で送れとかなんだかんだあるわけで、ここまであっさりしてるのは初めて。受け取る側がコレでは、きれいに仕分けしていくのもアホらしい。なるべく特定の宗教色が薄いところを、と選んだのだが、こんなに気軽にできるものならもっと使おうと思う。

すっかり身軽になってそのまま五番街を北上すると、ファストファッションの店がずらりと軒を連ねている。たとえどんなにお金持ちでも、夏のセールで5ドル7ドルの売価がついたTシャツを喜んで買う人が絶えない。すりきれるまで自分で着るのでなかったら、別のかたちで世の中に廻していかないとなぁ、と思う。「あるものだけで十分に暮らしていける」という気分はいつだって我々の内にあって、あとは、それを阻害する外側からの誘惑といかに距離を保つか、である。まぁ必要な家具を全部運び込んだ上に、日本の貸倉庫に同人誌どっさり置いてきて、おまえが何を言うかって話ですけど。

夜は某誌編集者のサトコさんとハッピーアワーの生牡蠣を堪能。同い年というので意気投合したはずが、乾杯と同時に「えっ、腐女子って何ですか? 意味は……?」から入り、「えっ、小室哲哉って昔ヴィジュアル系だったの? へー、BUCK-TICKって群馬出身でTHE BOOMって沖縄出身じゃないの!?」という感じで、いつもの自己紹介だけでもすごく話し甲斐がありました。「たしかに世代的に『SLAM DUNK』とか大好きだけど、男同士がどうとか考えたことなかったわー、完全にヒロインの子目線でしか読んだことないわー」「ヒロイン、いたねー、なんだっけ名前?」「なんだっけ……ほら妹の……」「……ってなるじゃん、男同士の物語において女子キャラ刺身のツマじゃん、流川の名前は忘れないじゃん……」「なるほど」みたいな話を。たとえロウアーイーストサイドのおしゃれレストランであろうと。世界のどこにいても。世界が終るまでは。話し続ける私であった(A:赤木晴子)。まぁ文化年齢の微差はさておき、共通の話題としては「今時の女の子はみーんな援助交際してるんでしょ?」なんて言葉をぶつけられながら多感な思春期を過ごした世代。ジェンダー論になると必ず自然とそのあたりにさかのぼる、気がする。なんかそういう総括、必要ですよね、1980年生まれ。

2日の木曜は家に引きこもってて何もしなかったのだけど、唯一特筆すべきこととして、5ヶ月前にできたばかりという近所のワインバー行ったら、ソムリエとしてカウンターだけの店を切り盛りしている美人のおねいさんが、蘭寿とむ様そっくり。いやもちろん歌や踊りは知らんし二の腕とかアメリカンサイズでタプタプなので実物には遠く及ばないんですけども、「イーストビレッジの蘭寿とむ」となら呼んで差し支えないレヴェルの男前な美貌。呼びとめてグラスの赤ワインの説明を何種類か聞いてたんだけど目が合うとポーッとしちゃって、唇にピアスしてるのもかっこよくて、テイスティングしても味わかんなくて「じゃあこれで」しか言えなかった。いいわー、本当これだけで生活が潤うわー、ブロードウェイにはやっぱり、石川禅と新妻聖子と、あとタカラヅカが足りてないよね! 7月に『CHICAGO』来るけどさ!

「アメリカにはタカラヅカがない」というのは、じつは随所で実感することだったりする。日本では、女性がちょっとマニッシュな服装や髪型をすると、老若男女すべての人からすかさず「おっ、タカラヅカみたいだねー!」と言われる。まったく同じ言葉でも、褒めているときもあれば、嘲笑しているときもある。中性的な姿をした女性は、「男っぽいね」じゃなく「女っぽくないね」でもなく、ただ「ヅカ(の男役)っぽいね」とだけハンコを捺されて、それで終わり。私はかつてタカラヅカが嫌いだったので、この言葉もイヤで、「あんなのと一緒にしないでよ」とずいぶん悩まされてきた。今はタカラヅカが大好きなので、同じことを言われると逆に「おおおおお畏れ多い! やめてください私ごときにそんな身にあまるお言葉!」と震え上がってしまう。どちらも極端だけど、どちらも「タカラヅカがある国」だからこそ生じる現象である。

頭はモヒカンでタトゥーも雄々しいけど服はおっぱいボインボインの超ミニボディコン、とか、ロングヘアにフェミニンなフルメイクだけど着てるものは全身男物、とか、ワークブーツとオーバーオールにノーブラでホルターネック合わせてる、とか、「マニッシュ」の範疇にもいろいろある。トランスジェンダーは除くにしても、「好きな服を着てるだけ、それがたまたま男っぽいだけ」という女性たちのバリエーションは、じつに多種多様である。たとえば私が日本で着ていて「ヅカっぽいね」「ヴィジュアル系っぽいね」「FSSっぽいね」と評された(厨二病全開のモテを意識していない)同じビラビラの服装が、こちらの友達からは「今日はモードでクールね」「ステージのショーモデルみたいね」と言われる。日本にだってモードのランウェイはあるはずなんだけど、こちらにはヅカ(と永野護)がないから、「非現実的」「幻想的」「倒錯的」な格好は、全部こうした一語で片付いちゃうのだろう。

ニューヨークは本当にカッコイイおねいさんが多くて、でも、必ずしも彼女たちが「ヅカっぽい」とは限らない。私は今ではヅカが大好き、なんだけれども、女として女のままマニッシュでカッコイイ蘭寿とむ似のワインソムリエなんか見てポーッとなってしまうと、「こういうカッコイイおねいさんが好きなだけで、そういうおねいさんが集まっている場所が日本国内ではそうそうないからヅカが好きって結果に到達しただけ、なのかもしれない」と考えもする。「ヅカっぽい」という言葉で概念を共有できるから、それを好きになったり嫌いになったりもしやすいのか。それとも、あらかじめ「ヅカっぽい」なんて括り方などない世界のほうが、もっと曖昧にモヤモヤと、のびのびと、「そうしたもの」にもっと自発的に惹かれていけるものだろうか? そしてまた、私の場合、こうした同性に惹かれる気持ちは、自分のセクシュアリティとは(今のところ)直接関係がなく、ブロマンスですらない。こうした気持ちを表す言葉は、英語圏にあるのだろうか? そう考えると「ヅカっぽい世界観が好き」と言って一発で通じるのは、とても便利だなとは思うんだけど、概念があるからこそファンの側も枠組みに嵌めて思考停止に陥る恐れもあるよな……。多様性と画一性の狭間で、スロベニアかどこかの赤ワイン飲みながらそんなこと考えていた。