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「私を見て」から「見つけてごらんなさい」への転換(草稿)

(twitter転載)

また悟った……。最近の私の行動はつまり
twitterに発言を「埋めて」いるのだ。
時系列まとめ読みできるブログ=「私の総資産額を見て」願望とするなら、
時間も空間も超えて自由に検索・発掘してもらうことが前提のtwit
=「私の置いてきた埋蔵金を、その片鱗でも捕えてごらんなさい!」。

これは現在、私のブログよりtwitterのほうが多く読まれている点がミソ。
あんなにくだらない発言が500人のタイムラインに流れているわけですからね。

私はどこかの段階で、ネットの中の自分自身の見せ方を
「地味な場所(アクセス数の乏しいブログ)にすべて晒す」から
「派手な場所(パブリックタイムライン)にあちこち埋める」へ
変えたのだと思う。転換させたのだと思う。
そのココロは……海賊王ゴール・D・ロジャーですよ。
「ぐぐってごらんなさい、見つけた分だけ好きに使うが良いわ!」と。

この感じは(何度も書くが)、HTML日記ともブログともmixiとだって違う。
それでは、どうしてそんな強気になったのかというと、
「見つけてもらえる」度合いがぐんぐん強まっているからだし、
ネットにおいて「すべて公開すること」の意味が変容したからでもある。

少なくとも、90年代末にあった“私ごときが発信させていただいてすいません”感は、
もうない。微塵もない。読みたいなら、顔が見たいなら、そっちがぐぐってこい。
シロウト発信側が「もっと私を見てください」と(異様な)積極性を持つ時代から、
「公開されてるのは当たり前、あとはおまえが見つけろ」の時代へ……?

twitterらへんを介して、私はようやく
(95年に私を魅了してのち、心を捉えて離さなかった)
ネットの「無限」性を実感し、実感によって信じられるようになった気がする。
これは遅いんだろうか?

で、今まで埋める(→見つけてもらう)のに熱中しすぎていたけど、
そろそろ、とっちらかっているので自分用に「地図」みたいなものが欲しい。
探してるけど無いねぇ。