需要を感じたので、まとめて書いておきます。渡米してから初対面の人に「私は誰か」を説明する機会が増えました。共通の文化的背景を持たない相手にゼロから経歴を説明するのってこんなに大変なんだ! と苦労しながら、慣れない言葉で「ゼロからの自己紹介」を重ねています。あれを日本語に翻訳しなおすとどんな感じかな、と想像しながら、新年の節目に少し長めの自己紹介を書いておこうと思いました。
講演を頼まれたときなどに使う「逆再生」方式で行きます。日本語のプロフィール文ってなぜか出生年から書くのが定跡になっていますが、個人的には「汝は何者か?」という問いかけに答えるときは「正順」より「逆順」の時系列のほうがずっとよいと考えています。そして、講演だったらそれっぽく見出しなどつけたり大事な要点を箇条書きにしたりして自分を大きく見せる努力を厭わないものですけど、まぁここは日記帳ですし、読むほうもダラダラ読んでください。
岡田育といいます。主に自分自身が見聞きして考えたことを一人称のエッセイ形式で書いています。依頼があればインタビュー取材や、作品評論などもします。フィクションの著作はなく「小説家」ではありません。「作家」や「ライター」という肩書きもしっくりこないので、自分で「文筆家」と名乗っています。英語でいうと「Author/Writer」で、ジャンルは「Autobiography」ですね。
2015年8月に東京からニューヨークへ引っ越してきて、今はニュースクール大学傘下のパーソンズ美術大学でグラフィックデザインを専攻しています。エディトリアルデザインを基礎から学び直すためです。ずっと日本語圏の出版業界で仕事をしてきたのですが、日本語の漢字仮名交じり文と英語のアルファベットでは、文字組も違えば、読み手が文章を追う視線の流れも違い、単行本の装幀にまつわる細かな約束事なども違います。つまり「読みやすさ/読みにくさ」という概念からして、使用言語によってまるで異なるわけです。そして日本語と英語の話者人口は、1億余と20億超のひらきがある。今まで「日本語しかない世界」で自分がなんとなく培ってきたノウハウや成功体験のうち、どの部分が国際的に通用するもので、どうするともっと大きな規模のオーディエンスに届くのか、そんなことを考えながら、本の装幀やポスター、パンフレット、企業ロゴなどを実作しています。絵を描くのも好きなので、ファッションドローイングやプリントメイキングの授業も受けました。こちらがそのポートフォリオです。
今後はフリーランスとして職を探しつつ、日本語での執筆活動も続けつつ、いずれ英語圏でも「Author」として「Designer」として実績を示せるようになりたい、というのが今のところの目標です。何かをやめて何かに「転向」したわけではなく、「いつかは一本の線でつながる」と信じて、来た球を打ち続けたいと思います。タイポグラフィーの師匠がよく「We are not decorators, we are problem-solvers.」と言っていました。「情報を整理整頓し、概念をかたちにして、問題を解決する」という意味では、文章を書くのも、図案を作るのも、よく似ていると考えています。
これまでに三冊の著作を出版しました。平日昼間の仕事の合間に、本にするためのエッセイ原稿を中心に、ウェブや紙の雑誌に単発の記事を書いたり、テレビやラジオに出たりしていました。
一冊目は『ハジの多い人生』というタイトルで、これは「幼少時代について書く」というのが裏テーマになっています。アメリカかぶれの両親の下で三姉弟の長子として育ったこと、キリスト教系の私立一貫女子校で非モテのオタクとしてクダをまいていた話、少女時代を過ごした1980〜90年代の東京カルチャー、などなどが盛り込まれています。太宰治『人間失格』の手記は「恥の多い生涯」と始まりますが、私の人生に多い「ハジ」は、「ハジッコ」の「ハジ」です。まだ東京が世界の中心だった時代、教室の隅っこで寝たフリしながら休み時間をやりすごし、中央に属しているはずなのにどうしても「真ん中」を歩いていけない、そんな疎外感を感じて人格が形成されていった過程を書いています。
二冊目は『嫁へ行くつもりじゃなかった』というタイトルで、フリッパーズ・ギター『海へ行くつもりじゃなかった』が元ネタです。生涯独身でいるつもりだった女が、なぜ結婚したのか? その答えは「知人男性から道端でいきなりプロポーズされたから」で、結婚を決めるまでお互いに相手を恋愛対象と見做していなかった、いわゆる「交際0日婚」「いきなり婚」というやつです。「素敵な恋愛をしないと幸福な結婚ができない」といった考え方は、ほんの数世代前から生まれた一種の共同幻想に過ぎず、親世代が恋愛結婚をしたからって、我々までそうせねばならない義理はない。誰かと家族になるとき、そこに「恋」なんかなくたって、十分「愛」を育んでいくことはできる。私は「恋愛が苦手」だから「どうせ結婚もできない」と思っていたけど、よくよく考えるとその二つは別物だよね。恋愛すっとばして結婚したってええじゃないか、というメッセージを込めております。
三冊目は『オトコのカラダはキモチいい』というタイトルで、AV監督の二村ヒトシさんと、社会学者の金田淳子さんとの共著です。英語圏では「男性主導で発展してきたアダルトビデオやHENTAI的なポルノグラフィと、女性主導で発展してきたやおい・ボーイズラブ・腐女子の文化から、日本社会の性とジェンダーについて考察した本」である、と説明しています。「日本人男性は、自分自身の肉体が『愛でられる』ことに慣れていない。女性たちが旧時代的価値観と闘争しながらみずからの性欲を解放してきたように、彼ら男性の意識を解放すると、男も女もハッピーになれるのではないか?」と真面目に論考する社会学の本なのですが、実際には「週刊少年ジャンプで男性キャラの乳首はどう描写されてきたか?」「新宿二丁目に集まるゲイってボーイズラブも読むの?」「ノンケ男性のアナルを開発するとおちんちんがどう変化するか、SMの女王様に聞いてみよう!」といった、気軽に読める内容です。
【2018年12月追記】三冊目の単著、四冊目の単行本、文庫を含めると五つ目のアイテムとして、『天国飯と地獄耳』も刊行されました。こちらもよろしくお願いいたします。
大統領になったとか連続殺人鬼だとか宝くじに当たったとか、何か特別な体験をしたわけでもないのに、あなたの「Autobiography(自叙伝)」に読者がいるのはなぜ? と訊かれることも多いのですが、「伝統的な性別役割の押しつけがおそろしく根強い日本社会においては、女性が女性として意見を述べることは、まだそれだけで珍しがられる。たとえば、私みたいな普通の人間が “I am Otaku girl and proud” とか “Ain’t no wifey” みたいなことを言うだけで、ワーオ、こいつフェミニストだぜ!? と驚くような人たちがいる。そんな日本を変えたくて、基本的に『怒り』をエネルギーに、『無理解』をなくすために書いている」「もともとブロガーとして活動していたので、同世代の文化系女子の代表として『インターネットの登場が私の人生を大きく変えた』という体験談の語り部になることも多い」と答えています。いざ言語化すると仰々しいですよね。
2013年から2年間、フジテレビ系の朝の情報番組『とくダネ!』にレギュラーコメンテーターとして出演していたのが、最も「目立つ」仕事だったと思います。プロデューサーから直接誘われて受けたもので、テレビタレントとして活動していたわけではありません。「朝のお茶の間ではまったくの無名だが、深夜のネットのサブカル界隈ではちょっと知られている、若くてオタクな女性」という珍獣枠の選出で、主婦を中心とした視聴者層とは少し違う角度から物事を見ているキャラ、という役割期待だったと認識しています。「人前でライブで話す」というのは、「一人で文章を書く」とはまるで違う頭の使い方を求められるので、とてもよい勉強になりました。
それ以前の肩書きは「編集者」でした。2004年に新卒採用で中央公論新社という出版社に入社し、2012年まで8年半勤めていました。最初に配属されたのは雑誌『婦人公論』編集部で、ここでは主に巻頭特集の企画と、著名人のインタビュー記事を手がけていました。小説や漫画、カルチャー欄の連載担当もしましたし、サイトリニューアルや公式ブログ開設にも関わり、ライターさんと一緒にあちこち潜入取材してルポルタージュ記事を作ったこともあります。アダルトグッズ業界に取材を重ねたのが受けて、ローターやバイブやオナホールの読者プレゼント企画を打ったりもしていました。
次に配属されたのは単行本書籍を手がける編集部で、純文学から時代エンターテインメント小説、大型新聞連載から新人作家のデビュー作、エッセイや将棋の本まで、手を上げて会議を通せたものは何でも作りました。あるとき街の書店で新刊の陳列台を眺めながら、「この本の著者も、あの本の担当編集者も、その本の装幀家も、みんな顔見知り、ってすごいことだよな……」と思ったのをよく憶えています。狭くて深くて濃密で影響力絶大、「小説より奇なり」という言葉がぴったりの仕事です。最高に楽しいし、定年まで勤め上げる気まんまんだったのですが、東日本大震災の後、ほぼ同時期にさまざまな新しいお誘いを受けたことがきっかけで、転職を決めました。
「会社員として誰かと本を作りながら、個人として頼まれた原稿も書く」という二足のワラジの両立は、自分の能力的に到底不可能だろうと考えていたのですが、その後『オトコのカラダはキモチいい』を出したときに「著者兼編集者」という役回りで動いてみたところ、やっぱり自分はそのくらいの遊撃戦が一番向いているようにも思いました。少しは成長できたようで、達成感がありましたね。現在は心境が変化して、また別の職種で会社勤めをしてみたいという気持ちもあります。
社会人になる前は、学部と大学院あわせて6年間、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)で過ごしました。学位は「メディアデザイン修士」です。我ながらまるで意味不明ですが、それでも「環境情報学士」を英訳して説明するよりは通りがよいので助かります。今でこそ卒業者数も増えましたが、私は学部新設から数えて9期生で、最寄の湘南台駅は小田急江ノ島線の各駅停車しか止まらず、近所のコンビニがようやく24時間営業になったことに先輩たちが涙を流して喜んでいる時代でした。
学部2年時から佐藤雅彦研究室に所属して、表現とメディア、教育方法論などの研究をしていました。世間的に一番わかりやすいのは「NHKの教育番組『ピタゴラスイッチ』を制作し、ピタゴラ装置のビー玉を転がしていた」なんでしょうが、私が一番印象深いのは、携帯電話(i-mode)と新聞紙面を使った新しい社会調査プロジェクト『日本のスイッチ』の企画立案運営です。このプロジェクトは現在終了してサイトも閉鎖していますが、活動記録として単行本書籍が出ています。この際、「後世に何か残したいと思ったら、まだまだ物理的な紙の本が最強なのでは……?」と思ったのが、出版業界へ進んだ理由でした。卒業後の今も「考え方が生む表現」「作り方を作る」といった研究室の合言葉は、私の核になっていると思います。パーソンズに通っていると、外国人留学生のクラスメイトたちがよく「母国で通っていた学校とまるで違う……」とカルチャーショックを受けているのですが、私は「大学とはこういうものだ、教育とはこうあるべきだ」をはかる絶対的な基準値が佐藤研であって、おそらくは共通の背景にバウハウス・メソッドがあるためでしょう、そうした違和感は皆無でした。
家庭教師からバーテンダーからスーパーマーケットの野菜売りまでいろいろアルバイトを掛け持ちして、2001年以降は沼田元氣氏の編集アシスタントをしていました。当時いろいろな大人から「この人の下で働いてたら、どこでだってやっていけるよ……」と呆れ顔で言われた意味が、今はとてもよくわかります。初仕事は「真冬の真鶴海岸で石を拾う」でしたからね。本の編集校正作業から企画展示の裏方からカルチャースクールの司会から裁判での証言までやって、人生経験値が上がりました。芸術家の仕事を間近で眺めて「ああ、私自身はまるで芸術家タイプではないんだな」と実感できたのも大変よかったです。
そういえば最近、「インターネット歴」について尋ねられる機会も増えてきたので、手短に。大学生だった1998年頃からHTMLでホームページを制作し、ウェブ日記を書いたり、いわゆる二次創作同人サイトを作ったりしていました……globetown.netで(懐)。2002年にアカウントを開設した翌年から日記を「はてなダイアリー」へ移行。2005年3月にid:okadaicを取得してハンドルを統合、当時のブログタイトルは「帝都高速度少年少女!」といいます。仕事では婦人公論編集部ブログに新米としてコラムを書いていました。2007年5月からはTwitterへ軸足を移し、いくつかのアカウントの「中の人」もやりました。連投tweetのための「続)」、引用のための「(承前)」表記は私が元祖だと思います。以後は「Twitterの人」として認知されていて、フォロワー数こそ少ないですが、ずっと私の活動拠点です。
英語圏ではTwitterの代わりにInstagramで日記をつけていて、たまにMediumでも書いています。いろいろなサービスに手を出してきましたが、今も更新を続けているのはTumblrのラクガキ絵日記と買い物の記録くらいです。いずれも不定期。
高校生のとき、NHKのテレビ番組『ソリトン』で世の中にはインターネットというものがあるらしいということを知り、是非それに触ってみたいと強く憧れたのですが、両親が機械に弱く、我が家にパソコン環境が導入されることはいっさい期待できませんでした。それで「インターネットに触れるには、インターネットが専門の学校へ行くしかない!」という理由で、進路志望を大きく変更してSFCへ進学した経緯があります。電気ガス水道と同じくらい常時接続が当たり前のインフラとなった今時の若者には信じられないかもしれませんが、私の少女時代にはインターネットは「蘭学に触れるには、長崎へ行くしかない!」と同じくらいの扱いだったのです。
「インターネット以前」の時代がもう少し長く続いていたら、私のような人間が本を書いてテレビに出るなんてことも、あるいは離れた場所でまったく別の人生を歩んでいる人といきなり結婚するなんてことも、起こり得なかったと思います。というよりも、私たちの人生に占める「インターネット以後」の時間がどんどん長くなるにつれ、「好きなように生きる」ハードルがみるみる下がっていった、私のような人間でも徐々にその恩恵を受けることができるようになった、というふうに感じています。10代の頃、私は将来、「まだ名前のついていない新しい職業」に就くことになるのだろう、と夢想していました。今もそれがいったい何なのかはわかっていませんが、求めに応じて複数の肩書きを書き連ねながら、同じ一本の線をなぞっていきたいと思います。
出身は東京都、東急電鉄沿線。父と母と2歳下の妹と10歳下の弟がいます。子供の頃の夢は考古学者か宇宙飛行士になることでした。今の夢は灯台守になることですが、有用無用を深く考えず世界とつながりながら孤独に続けられる仕事という意味で、割と似ていると思います。YMOと沢田研二を子守唄に育ち、7歳のとき萩尾望都『ポーの一族』を読んでいたく衝撃を受け、また9歳のとき連続幼女誘拐殺人事件の逮捕報道をきっかけにオタクが迫害されるようになり、あれやこれやを人生の天秤にかけた結果、「どんなにいじめられても好きなものを隠さずに生きていこう」という謎の執念を持つに至りました。小学生時分から今の言葉でいう「腐女子」的な性癖の持ち主でしたが、どちらかというと「隠さない」ということのほうが強いアイデンティティになって、そこの部分を露悪的にこじらせている気がします。
中学進学と同時に他校でいうところの「文芸部」に所属して、詩と小説を書いていました。高校1年生のとき部長を務め、部内誌の編集長になったのですが、編集長権限で「台割」(=目次構成)を切るのがあまりに楽しくて雑誌作りそのものに夢中になり、挙句、自分が書くべき原稿の締切を落とし、他の部員に細かすぎる指示を飛ばしてページの穴埋めにぴったりの原稿を書いてもらう、という体験をしています。当時の夢は現役女子高生作家としてデビューするか一度死んで緒川たまきに生まれ変わることだったのですが、のちのち編集者になった際、あれが人生の転機だったのかもしれない、と何度でも思い出します。専業作家になる子はそんなことしない。印刷所に発注してオフセット本を作り同人誌即売会に初めてサークル参加したのは中学2年生頃だったと思います。以来、この世に自費出版ほど楽しい趣味はないとさえ思っています。今も「久谷女子」というサークルに所属して、夏と冬のコミケで同人活動を続けています。
ちなみに「岡田育」はペンネームですが、本名は「育子」といいます。待望の初孫が生まれたとき、両親が結婚した街・紐育に因んだ「育子」(原料原産地表示)にするか、赤子が生まれた街・東京に因んだ「京子」(生産地表示)にするかで最後まで揉めたそうですが、めぐりめぐって「育」になりました。それで今、めぐりめぐってその子供がニューヨークに住んでいるのだから、やはり、人間の生命とその原料原産地との間には、何か不思議なパワーが働いているのでしょうね。以上、長い長い自己紹介でした。