文庫『ハジの多い人生』

書題ハジの多い人生
英題Mine Has Been a Life of Much Margin
著者岡田育
発売日2020年4月8日
出版社文藝春秋
仕様文庫
価格760円+税
装幀野中深雪
装画鬼頭祈
ISBN-104167914840
ISBN-13978-4167914844
版元ドットコムhttps://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784167914844
Amazonhttps://www.amazon.co.jp/dp/B086QMRJHT/

1990年代、痴漢だらけの満員電車で都内の女子校へ通学する思春期を過ごしつつ、メガネ男子に萌え、16歳で献血を初体験。大足コンプレックスにレーシック、恋愛、化粧、髪形、三十路で開眼したタカラヅカに、音楽やインターネットに至るまで――。「変わってる」「非モテのオタク、腐女子」と言われようと、世界のハジッコでつぶやき続ける著者会心のデビュー作。

宇垣美里さん(フリーアナウンサー)も絶賛!

『ハジの多い人生』というタイトルは「恥」ではなく「端」、中心に対する周縁を指している。私はいつも世界の隅、真ん中じゃなくハジッコ部分を生きており、無駄を嫌う人が削ぎ落としてしまうような、雑多な余白にこそアイデンティティを置いている。(「文庫版のためのまえがき」より)

 

文庫版のためのまえがき

まえがき

第一章
ハジの多い人生 / 私は普通の人間です / 人生ソロ活動 / いのち短し、伸ばせよ髪を / 蓼食うナンパ師たち / 週末、血の海にまどろむ

第二章
遭難する準備はできている〈前編〉 / 遭難する準備はできている〈後編〉 / 亡き就活生のためのパヴァーヌ / 愛とごはんと集中治療室 / さよなら武蔵小山

第三章
気にしているのがイイ話 / キレイはきたない、きたないはキレイ〈前編〉 / キレイはきたない、きたないはキレイ〈後編〉 / 欲望という名の満員電車〈前編〉 / 欲望という名の満員電車〈後編〉

第四章
タカラヅカなんて嫌いだ! (った)〈初日〉 / タカラヅカなんて嫌いだ! (った)〈中日〉 / タカラヅカなんて嫌いだ! (った)〈楽日〉 / 恋とはどんなものかしら / グーテンベルク・ガール / 名誉男子と、WEB女子と

第五章
『去年インターネットで』 / バビロンまでは何キログラム? / なんとなく、スピリチュアル / 青山の上に、お城があるのよ / 悪魔と踊れ(走らずに) / 曲線と直線と中央と周縁の宇宙

あとがき

文庫版のためのあとがき

※本書に関するお問い合わせ、取材依頼等は、版元へご連絡ください。
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167914844

2020-01-04 / 自己紹介

2017年の正月に、長めの自己紹介を書きました。これは2015年夏に渡米してからの環境変化を踏まえて書いたもので、執筆当時はまだ大学生。内容もずいぶん古くなってしまったので、2020年の正月に新バージョンを書きます。今回もまた「ゼロからの自己紹介」のつもり。そして、前回は「逆順」だったので、今回は趣向を変えて「正順」にしてみます。少し長いですが、読むほうもダラダラお付き合いください。


岡田育といいます。職業は「文筆家」です。私が先達に倣って名乗り始めたのは2012年からですが、近年、日本語圏でこの肩書きを使用する人が微増している気がして、心強いです。今までにエッセイの単著を四冊、文庫化もされた共著を一冊、刊行しています。ご依頼があれば、インタビュー取材、テーマコラム、書評や映画評なども手がけ、テレビやラジオの番組に出たり、イベントに登壇したりすることもあります。

1980年東京生まれ、東急電鉄沿線で育ちました。実家は親より古い一軒家で、五人家族にはあまりにも狭すぎる間取り。親元を離れるまで「自分ひとりの部屋」を持ったことがなく、二十歳過ぎても二段ベッドで寝起きしていました。結果、「孤独になれる」時間や空間を最高の贅沢と感じる子供になりました。往復一時間の電車通学では図書館で借りた本を読み、家族が寝静まった深夜は布団にもぐってラジカセで音楽を聴くか、手元の灯りで物を書く。立派なオタクの出来上がりです。

バブル好景気に沸く日本の狂騒を、幼心にギリギリ憶えている世代です。当時の私は、ジャパンこそがナンバーワン、東京こそが世界文化の中心地で、その恩恵をダイレクトに受けられる自分は大変幸運であり、大人になればただそれだけで薔薇色の未来が開けると信じていました。右肩上がりのその幻想が、泡とはじけたときに10代半ば。昇っていく予定だった梯子を突然外されて、社会から蹴り出されたような気分でした。

太宰治『人間失格』の手記は「恥の多い生涯」と始まりますが、私の一冊目の著書タイトルは『ハジの多い人生』。「ハジ」は、「ハジッコ」の「ハジ」です。教室の片隅、放課後の屋上、日記帳の余白、タイ焼きのミミ、カセットテープの終わった残り、繁華街の路地裏のちょうどいいくぼみ、あるいは、日本列島がド真ん中でなく東端に描かれている世界地図。なるほどなぁ、私がこの世の「中心」や「頂点」に辿り着くことは絶対ないんだろうけれど、それはそれで楽しく生きていくしかないな、と考えるに至った少女時代について書いた本です。

この本は2020年春、装いも新たに文春文庫に加わる予定です。現在市場に出回っている、新書館から刊行された親本のほうは入手困難となりますので、にほへさんの超絶かわいい装画や挿絵をお手元に置いておきたいという方は、急ぎお買い求めください!!


慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)に進学した理由は、「蘭学に触れるには、長崎へ行くしかない!」。これからの世界を大きく変えると噂されていた、インターネットというものに触れてみたい一心でした。合格が決まってから生まれて初めてパソコンを手に入れて、1998年頃からHTMLでホームページを制作し、ウェブ日記を書いたり、いわゆる二次創作同人サイトを作ったりしていました。1999年に先輩から「すごい検索エンジンができた」と初めてGoogleを見せてもらったのも、2002年に初めてはてなidを取得したのも、母校の特教だったと記憶しています。

1999年より佐藤雅彦研究室の一期生として、表現とメディア、教育方法論などの研究をしていました。ADC賞を受賞した『動け演算』や、NHKの教育番組『ピタゴラスイッチ』の制作に参加。学部生のときから企画立案と運営に携わっていた、携帯電話(i-mode)と新聞紙面を使った新しい社会調査プロジェクト『日本のスイッチ』で修士論文を書きました。

また、2001年から沼田元氣事務所で編集助手のアルバイトを始め、紙の書籍という物理記録媒体を世に残すことに高い関心を抱くようになります。沼田さんにはその後、池袋コミュニティカレッジ「乙女美学校」の活動でもお世話になりました。

2004年に中央公論新社に入社。2012年まで8年半勤めていました。最初に配属されたのは中高年世代向けの女性雑誌『婦人公論』編集部で、主に巻頭特集の企画と、著名人のインタビュー記事を手がけました。小説や漫画、カルチャー欄の連載も担当して、サイトリニューアルや公式ブログ開設にも関わり、あちこち潜入取材してルポ記事を作ったこともあります。

次に配属されたのは単行本書籍を手がける編集部で、純文学から時代エンターテインメント小説、大型新聞連載から新人作家のデビュー作、エッセイや将棋の本まで、何でも担当しました。当時はあくまで会社の看板を背負って働いていたわけですが、どれも思い入れが深い仕事です。在職中に手掛けた作品の幾つかが賞を受賞したこと、また、独立後に樋口有介さんや富樫倫太郎さんの元担当編集者として文庫解説を書かせていただいたことなど、嬉しい思い出です。


2020年は、サラリーマンの「編集者」として勤めた時間を、自分の名を出す「文筆家」として働いた時間が上回る、節目のタイミングでもあります。そう考えると長いものですね。将来に悩む若い世代からはよく、「いつ、なぜ、どのように転職を決断したのか?」という質問を受けますが、そのあたりは昨年出した最新刊『40歳までにコレをやめる』に詳しく書きました。ちなみにこの本、出版社時代に川上未映子さんの本を一緒に担当していた読売新聞の方に連載枠をいただいて、ようやく書き上げたものです。ご縁は続きますね。今後、韓国語版の刊行が予定されています。

2013年に結婚した顛末については、『嫁へ行くつもりじゃなかった』という本に書きました。フリッパーズ・ギター『海へ行くつもりじゃなかった』が元ネタです。恋愛感情の無い相手と結婚する、いわゆる「交際0日婚」「いきなり婚」というやつです。「嫌になったら明日にでも離婚できるんだし」と軽率に決めた割に、気がつけば6年7年。これまた長い。おかげさまで夫のオットー氏(仮名)(※年齢性別国籍経歴いずれも非公表)とは、現在に至るまで、恋ナシ、愛アリ、魂の双子のように良好な関係を築けていると自負しております。

『オトコのカラダはキモチいい』というタイトルで、AV監督の二村ヒトシさんと、社会学者の金田淳子さんとの共著も出しました。アメリカで知り合った人には、「男性主導で発展してきたアダルトビデオやHENTAI的なポルノグラフィと、女性主導で発展してきたやおい・ボーイズラブ・腐女子の文化から、日本社会の性とジェンダーについて、はたまた『有害な男性性』からの解放について、考察した本である」と説明しています。英語圏で自己紹介するとき、最も食いつきがいいのはこの本ですね。海外翻訳出版のご提案、お待ちしております!

2013年からフジテレビ系の朝の情報番組『とくダネ!』にレギュラーコメンテーターとして出演していたのが、世間的に見て最も「目立つ」仕事だったと思います。ちょうど同時期に続けていた、cakesの座談会連載「ハジの多い腐女子会」や、雑誌『LaLaBegin』の連載「メガネに会いたくて」、また、文化系WEB女子同人『久谷女子便り』での活動なども、多くの方にご記憶いただいているようで有難いです。


2015年8月には、米国ニューヨークに転居しました。35歳にして初めての海外生活。それまで仕事で英語を使ったこともなく、収入も激減することが予想されました。非ネイティブの外国人が最短距離でキャリアを形成するには? と考えた結果、ニュースクール大学傘下のパーソンズ美術大学でグラフィックデザインの準学士号を取得。現在は広告代理店やデザイン事務所と個人契約を結び、デザイナー、ブランドコンサルタントとしても働いています。

新商品のパッケージ開発、企業ロゴやウェブサイトのリニューアル、グローバル市場に向けた広告戦略など、広義のブランディング業務が主軸となりつつあります。クライアントワークなので私の名前が表に出ることはありませんが、編集者として培ってきたスキルを言葉の壁を超えて活かすことができ、とてもやりがいを感じています。

とはいえ実態はさんざんなものです……。昨年はとくに、納期がずれ込みやすいプロジェクトを幾つも請けてしまい、事務処理も倍以上に膨れあがり、スケジュール管理がガタガタになってしまいました。多方面にご迷惑をおかけしましたこと、猛省しております。2020年以降は、なんとしても働き方を改善せねば、というのが正月の抱負です。

三冊目の著書『天国飯と地獄耳』は、東京時代に雑誌連載していた前半部分と、ニューヨーク留学中の空白期間を経て書き上げた後半部分からなる、ハイブリッドなエッセイ集です。こちらについては台湾での翻訳出版が予定されています。楽しみ楽しみ。

世界中から社会人留学生が集まるアートスクールでの「二度目の大学生活」は大変有意義なものでした。米国は日本とはまた違う意味での学歴社会で、何歳になっても、何度でも、大学へ通い直して新たな専門性を身につける大人がたくさんいます。就職活動の仕組みも違い、働き方もずっと自由なので、実力を示せば誰でも新しい分野に挑戦することができるのです。在学中に書き殴っていた暗号のような日記やメモを整理して、いずれちゃんとした留学体験記をものしたいと思っています。

現在は、集英社の文芸誌『すばる』での連載「我は、おばさん」と、読売新聞大手小町での連載「気になるフツウの女たち」を進めています。その他、まだ言えない進行中のプロジェクトがいくつか。年に数回は日本に一時帰国して、東京に限らずあちこちへ出かけ、こつこつ仕込みを続けております。


最新の近況については Twitter を参照していただくのが一番よいと思います。英語圏ではTwitterの代わりに Instagram で日記をつけていて、ごくごくたまに、Mediumでも書いています。三日坊主の私が12年以上、毎日欠かさず続けているのはtweetだけですね。ほとんどゴミ捨て場のような使い方ではありますが、あれもまた一つの「活動拠点」と捉えています。

もともと新しもの好きで、新サービスを見つけるととりあえずアカウントを作ってしまうのが悪い癖。今年、長年愛用してきたはてなグループが終了してしまうこともあり、これを機に発信チャンネルも縮小傾向でと考えています。ここ数年、何もかも盛り沢山だったので、公私ともにスッキリさせる、というのが今年の目標ですね。2020年も、どうぞよろしくお願いいたします。

2019-11-09 / わたしの好きな街と仕事

大変ご無沙汰しております。公式サイトのブログはもちろん、Instagramまで投稿が滞ってしまいました。Twitterだけは「いつ寝てるんですか?」と真顔で訊かれるほど更新していますが、あれはね、寝ながら寝言をつぶやいてるんですよ。意識してSNSと距離を置いているとか、とくに深遠な意図があるわけではなくて、9月の日本出張からこちら……まったく慌ただしく過ごしており……文字通り、涙目で起床してはそれを拭う間もなくベッドに倒れ込む繰り返し、時間的余裕がなく、精神的な余裕もなくなり、さすがに無理、と思っているうちに10月が終わってしまいました。ちょこちょこ遊びに出かけたりはしていたけど、誰とどこで会って何をして楽しんだのか時系列がまったく思い出せない。

そんな合間にも、各種新プロジェクトが続々進行中です。一冊目の本『ハジの多い人生』の文庫化が正式に決まりました。今からどんなふうになるのか楽しみ。そして、立て続けに既刊の海外翻訳出版も決まっています。早く現地の友人に自慢したいのだが、グッと我慢……。

解禁できる情報としては、12月にポプラ社から刊行される、SUUMOタウン編集部のアンソロジー『わたしの好きな街』に参加しています。「SUUMOタウン」はリクルート住まいカンパニーが運営するオウンドメディアで、以前書かせていただいた「四谷」にまつわる思い出語りに加えて、2019年に再訪したときの追記をちょこっと書きました。入稿は無事に片付いたけど、この本のためだけの書き下ろし語り下ろしもたっぷりなので、私もまだ全容を知らないんですよね……。手に取るのが楽しみです。

 



『わたしの好きな街 独断と偏愛の東京』
SUUMOタウン編集部(監修)

発行:ポプラ社
四六判 256ページ
定価 1,400円+税
ISBN:9784591164822


青春という言葉は嫌いだけど、
語るべきことはあの街にあった。
酸いも甘いも詰め込んで、
総勢20名が本音で書き、語る。
東京で暮らすこと、働くことのすべて。
住めば都? 実際どうなの?
あなたの「住みたい」を後押しする極上のエッセイ集。

【エッセイ】
雨宮まみ『都会と下町、まるで違う二つの顔を持つ街「西新宿」』
岡田育『昼はコドモ、夜はオトナのものとなる「四谷」――飲んで飲まれて歩いて帰れる街で暮らした日々』
ひらりさ『「実家脱出ゲーム」を成功させるために――三十歳おひとりさまライターが語る「東新宿」』
枝優花『「高田馬場」ゴミロータリーで過ごしたかけがえのない時間』
九龍ジョー『社員(シャイン)オンユー東中野』
夏目知幸『先行きなくともただひたすら楽しかった 東高円寺でのその日暮らし』
カツセマサヒコ『何者にもなれない僕が「荻窪」にいた』
美村里江『世田谷代田の秘密基地――「役者の色」に染め直してくれた夕日と住宅街の景色』
山田ルイ53世『一発屋であることを呑み込んだ「中目黒」』
ヨッピー『渋谷のヤクザマンションの話――僕が繁華街に住むことをおすすめする理由』
山内マリコ『吉祥寺で過ごした二十代は悲惨だった』
もぐもぐ『自由とカオスと町田』
pato『僕には八王子という“距離”が必要だ』
小野寺史宜『ノー銀座、ノーライフ――この街に住むことをあきらめない』
pha『東京に住んでいるのは嘘なんじゃないかって今でもときどき思ってしまう』

【上京物語】
みうらじゅん『東京で暮らすなら、いつも心に「不真面目」を』
東村アキコ『家賃を稼がなくちゃいけないから、ここまで描いてこられた』
鈴木敏夫『ジブリの秘密は“4階”にあった――「時間と空間」をめぐる五十年』
他、加藤一二三、赤江珠緒へのインタビューも収録。

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784591164822

 


忙しいのは別にネガティブな話ではなく、おかげさまで日米の二重生活が調子良く軌道に乗ってしまった、というだけのことです。今夏はグラフィックデザイナーとしては実質無職で、その空き時間を使って文芸誌で月刊連載を始めたのですが、これも「隔月じゃないと絶対に無理です!」と訴えていたのを敏腕編集者が「まぁ、時々休んでもいいですよ〜」と笑いながら言う口車に乗せられているうち、あれよあれよと月刊進行が定着してしまい、落とすわけにはいかない空気に。なんで今月号にも無事に載っているんだろう。不思議。編集部に信じられない負荷をかけているはずだし絶対無理だと今なお思ってる。でも有難いことです(ごめんなさい)。

で、そこに突然、通常の倍くらいの回転速度で進行する上に思ったより長引く新規クライアントの仕事が入ったと。そりゃあ首が回らなくもなります。9月に日本で会った人たちの大半に「秋冬はめちゃくちゃ暇なので〜」と言っていた、あれは何だったんだ。ただの嘘でした。思い返せば本当の意味で暇になったことなど一度もない人生である。一週間の九割九分を狭い自宅でパジャマ着たままPCに向かって作業しているうちにメールの返事を10日止める、みたいなことを繰り返していたらあっという間に二ヶ月。まるで褒められた働き方ではないが、なかなかに充実している。

現在進行形で具体的に何をしているのかは秘密保持契約の都合で書けないことが多いけれど、大学で勉強したデザインスキルを活かし、引き続き「何でも屋」を続けている感じです。最初は下請け臨時雇いのデザイナーとして採用され、途中からバイリンガルのコピーライター職や、イラストレーターの役割も任されるようになり、そのうち決裁権を持つ人の相談役のようになって、自分が作ってないものにまで口出してブランドコンサルタントとして報酬が出るようになる……という流れを幾筋か経験して、だいぶ自信がついた。取引先はもっぱらスモールビジネス。フルタイムで雇うより安くつくし、先方も「何でも屋」に頼めたほうがラクだよね。我ながら便利よ。とくに営業をかけていないのに、似たような問題を抱えた依頼主がやって来るのが面白い。それで一人称に「we」を使いながら、自分が所属していない会社組織のことを渾渾と考え続ける、探偵や傭兵や軍配者のような暮らし。

ちなみにこれ、日本においては多分、いつまで経っても最下層のジュニアレベルデザイナーとしての給料しか出ないですよ。職場における茶飲み話でどれだけ画期的なアイディア出そうとも、誰か前任者のマズい仕事ぶりにメスを入れてゼロからクリエイティブをまるごと作り直してやっても、気の良い上司が自腹で一杯奢ってくれたらいいほうで、考課査定の範囲外。そういう目で見ると私は「経験二年のパート」だし「35歳以上」だから雇い止め一直線。日本ではできなかった働き方だ。何故なんだろうな。

新卒サラリーマンとして働いていた編集者時代、別の業界にいる目上の社会人から「ちょっと君の意見を聞かせてよ」と喫茶店に呼び出されて、新商品やサービスのプロトタイプについて相談に乗ることがよくあった。こちらへ来て初めて、「あれ、コンサルティングの仕事じゃん! ミーティングについても分刻みで時給百ドル単位の請求書を立ててよかったんだ!」と知りました。ようやく。遅いよ。なくそう時間泥棒。もぎ取ろう副業収入。減らそう実働時間。脳味噌は毎日フル稼働だし、加齢に伴って徹夜作業はきかなくなってきているけど、でも、昔と違って身体は壊さずに済みそうですね。引き続きうまく回せるようになりたい。

2017-11-20 / 四谷、もつ鍋、時差のない暮らし

ちょっと日本行って帰ってきました、今は12月5日。また日記をためていたので思い出せる範囲のことを書いておく。
11月のサンクスギビング前、時事的な需要もあり、久しぶりに『日の名残り』や『美女と野獣』など昔懐かしい映画を観る。それぞれ感想はTwitterに書いたりしたので割愛。初見の夫の感想が面白い。夫はずっと『HOMELAND』の二匹目のドジョウを狙ったような、精神を病んだ腕っぷしの強い女主人公が謎を解くような新作ドラマばかり観ている。どの女も同じように精神を病んでいるので私には区別がつかない。最近の流行りなんだと思うが、「精神を病んでいても、病んでいるからこそ、物語の主人公になれる」というストーリーが一般視聴者にもてはやされるのは現代社会の闇っぽくもある。
はてな編集部からお声がけいただき「SUUMOタウン」に寄稿した〈昼はコドモ、夜はオトナのものとなる「四谷」 飲んで飲まれて歩いて帰れる街で暮らした日々〉という記事、あっと言う間に300以上のブックマークがついて驚く。あんまり大した内容じゃない……というと謙遜が過ぎるかもしれないが、もっとずっと実用性の高い記事が多いなか、ごくごく私的な体験だけを書いてこれだけ多くの人に読んでもらえるというのは驚きとともに嬉しい気持ち。そして断言できる、バズッたのは、はてな編集の「編集」の力です。打ち合わせや下調べから校閲、遠隔指示での写真撮影、クライアントチェックに至るまで、ものすごく質の高い編集を手がけてくださって、久しぶりに大船に乗った気持ちで原稿の手直しができた。そういうことを感じるのが、紙の雑誌媒体ではなくウェブ媒体、しかも、はてな!! ということに隔世の感がある。
ちなみに通っていた女子校の所在地について書いたのは今回が初めて。『ユリイカ』志村貴子特集と併せてお読みいただければ、だいたいどんな雰囲気の中で思春期を過ごしたのかおわかりいただけるのではないだろうか。ずっと出身校名を伏せているのは、基本的に学園内情についての取材禁止という校風が続いていて、私が何か書くことで現役の在校生たちに迷惑がかかってはいけないから、というだけのことなんだけれども、さすがにそろそろ時効なんじゃないかと思って書いてみた。こういう機会があると吹っ切れて、『ハジの多い人生』とか、今から全部書き直したくなるね。
その他には、渡辺千賀さんの米国養子事情についての記事から、あれこれ考えたり
17日は、佐久間裕美子さんと唐木元さんとランチ、ブルックリン「NORMAN」にて。食について意識高くならざるを得ない事情のこと、ニューヨークのまだ知らない場所について、女子校生活が人生に落とした影について、などなど。日が傾くまでしゃべっていた。のち、友人宅で餃子ともつ鍋を食べる会。しこたま酔った。もつ鍋は「博多トントン」のテイクアウト。夕方、店内へ引き取りに行ったら待ち行列のできる満席、もうもうと湯気の上がるなかどのテーブルももつ鍋に舌鼓を打っており、「えっ、換気……うわ、カナダグースとかモヘアとか着てる人いますけど……」と心配になったのだが、翌日の匂いが怖くてもつ鍋が食えるか、というあの日本人と同じ感覚をニューヨーカーもとっくに身につけているのかもしれない。いや服装は考えたほうがいいと思うけどね。
19日から20日にかけて、『オトコのカラダはキモチいい』文庫版の入稿責了を終えて、すっかり日本語脳に。昼夜逆転でSkype会議をしていたりもしたので、これでは、ほとんど日本にいるようなもの。21日の朝便で出発してからもまったく時差に悩まされることはなかった。むしろ帰ってきた今がキツいです。というわけで次回は日本滞在記。
 

2017-01-02 / 自己紹介

需要を感じたので、まとめて書いておきます。渡米してから初対面の人に「私は誰か」を説明する機会が増えました。共通の文化的背景を持たない相手にゼロから経歴を説明するのってこんなに大変なんだ! と苦労しながら、慣れない言葉で「ゼロからの自己紹介」を重ねています。あれを日本語に翻訳しなおすとどんな感じかな、と想像しながら、新年の節目に少し長めの自己紹介を書いておこうと思いました。

講演を頼まれたときなどに使う「逆再生」方式で行きます。日本語のプロフィール文ってなぜか出生年から書くのが定跡になっていますが、個人的には「汝は何者か?」という問いかけに答えるときは「正順」より「逆順」の時系列のほうがずっとよいと考えています。そして、講演だったらそれっぽく見出しなどつけたり大事な要点を箇条書きにしたりして自分を大きく見せる努力を厭わないものですけど、まぁここは日記帳ですし、読むほうもダラダラ読んでください。


岡田育といいます。主に自分自身が見聞きして考えたことを一人称のエッセイ形式で書いています。依頼があればインタビュー取材や、作品評論などもします。フィクションの著作はなく「小説家」ではありません。「作家」や「ライター」という肩書きもしっくりこないので、自分で「文筆家」と名乗っています。英語でいうと「Author/Writer」で、ジャンルは「Autobiography」ですね。

2015年8月に東京からニューヨークへ引っ越してきて、今はニュースクール大学傘下のパーソンズ美術大学でグラフィックデザインを専攻しています。エディトリアルデザインを基礎から学び直すためです。ずっと日本語圏の出版業界で仕事をしてきたのですが、日本語の漢字仮名交じり文と英語のアルファベットでは、文字組も違えば、読み手が文章を追う視線の流れも違い、単行本の装幀にまつわる細かな約束事なども違います。つまり「読みやすさ/読みにくさ」という概念からして、使用言語によってまるで異なるわけです。そして日本語と英語の話者人口は、1億余と20億超のひらきがある。今まで「日本語しかない世界」で自分がなんとなく培ってきたノウハウや成功体験のうち、どの部分が国際的に通用するもので、どうするともっと大きな規模のオーディエンスに届くのか、そんなことを考えながら、本の装幀やポスター、パンフレット、企業ロゴなどを実作しています。絵を描くのも好きなので、ファッションドローイングやプリントメイキングの授業も受けました。こちらがそのポートフォリオです。

今後はフリーランスとして職を探しつつ、日本語での執筆活動も続けつつ、いずれ英語圏でも「Author」として「Designer」として実績を示せるようになりたい、というのが今のところの目標です。何かをやめて何かに「転向」したわけではなく、「いつかは一本の線でつながる」と信じて、来た球を打ち続けたいと思います。タイポグラフィーの師匠がよく「We are not decorators, we are problem-solvers.」と言っていました。「情報を整理整頓し、概念をかたちにして、問題を解決する」という意味では、文章を書くのも、図案を作るのも、よく似ていると考えています。


これまでに三冊の著作を出版しました。平日昼間の仕事の合間に、本にするためのエッセイ原稿を中心に、ウェブや紙の雑誌に単発の記事を書いたり、テレビやラジオに出たりしていました。

一冊目は『ハジの多い人生』というタイトルで、これは「幼少時代について書く」というのが裏テーマになっています。アメリカかぶれの両親の下で三姉弟の長子として育ったこと、キリスト教系の私立一貫女子校で非モテのオタクとしてクダをまいていた話、少女時代を過ごした1980〜90年代の東京カルチャー、などなどが盛り込まれています。太宰治『人間失格』の手記は「恥の多い生涯」と始まりますが、私の人生に多い「ハジ」は、「ハジッコ」の「ハジ」です。まだ東京が世界の中心だった時代、教室の隅っこで寝たフリしながら休み時間をやりすごし、中央に属しているはずなのにどうしても「真ん中」を歩いていけない、そんな疎外感を感じて人格が形成されていった過程を書いています。

二冊目は『嫁へ行くつもりじゃなかった』というタイトルで、フリッパーズ・ギター『海へ行くつもりじゃなかった』が元ネタです。生涯独身でいるつもりだった女が、なぜ結婚したのか? その答えは「知人男性から道端でいきなりプロポーズされたから」で、結婚を決めるまでお互いに相手を恋愛対象と見做していなかった、いわゆる「交際0日婚」「いきなり婚」というやつです。「素敵な恋愛をしないと幸福な結婚ができない」といった考え方は、ほんの数世代前から生まれた一種の共同幻想に過ぎず、親世代が恋愛結婚をしたからって、我々までそうせねばならない義理はない。誰かと家族になるとき、そこに「恋」なんかなくたって、十分「愛」を育んでいくことはできる。私は「恋愛が苦手」だから「どうせ結婚もできない」と思っていたけど、よくよく考えるとその二つは別物だよね。恋愛すっとばして結婚したってええじゃないか、というメッセージを込めております。

三冊目は『オトコのカラダはキモチいい』というタイトルで、AV監督の二村ヒトシさんと、社会学者の金田淳子さんとの共著です。英語圏では「男性主導で発展してきたアダルトビデオやHENTAI的なポルノグラフィと、女性主導で発展してきたやおい・ボーイズラブ・腐女子の文化から、日本社会の性とジェンダーについて考察した本」である、と説明しています。「日本人男性は、自分自身の肉体が『愛でられる』ことに慣れていない。女性たちが旧時代的価値観と闘争しながらみずからの性欲を解放してきたように、彼ら男性の意識を解放すると、男も女もハッピーになれるのではないか?」と真面目に論考する社会学の本なのですが、実際には「週刊少年ジャンプで男性キャラの乳首はどう描写されてきたか?」「新宿二丁目に集まるゲイってボーイズラブも読むの?」「ノンケ男性のアナルを開発するとおちんちんがどう変化するか、SMの女王様に聞いてみよう!」といった、気軽に読める内容です。

【2018年12月追記】三冊目の単著、四冊目の単行本、文庫を含めると五つ目のアイテムとして、『天国飯と地獄耳』も刊行されました。こちらもよろしくお願いいたします。


大統領になったとか連続殺人鬼だとか宝くじに当たったとか、何か特別な体験をしたわけでもないのに、あなたの「Autobiography(自叙伝)」に読者がいるのはなぜ? と訊かれることも多いのですが、「伝統的な性別役割の押しつけがおそろしく根強い日本社会においては、女性が女性として意見を述べることは、まだそれだけで珍しがられる。たとえば、私みたいな普通の人間が “I am Otaku girl and proud” とか “Ain’t no wifey” みたいなことを言うだけで、ワーオ、こいつフェミニストだぜ!? と驚くような人たちがいる。そんな日本を変えたくて、基本的に『怒り』をエネルギーに、『無理解』をなくすために書いている」「もともとブロガーとして活動していたので、同世代の文化系女子の代表として『インターネットの登場が私の人生を大きく変えた』という体験談の語り部になることも多い」と答えています。いざ言語化すると仰々しいですよね。

2013年から2年間、フジテレビ系の朝の情報番組『とくダネ!』にレギュラーコメンテーターとして出演していたのが、最も「目立つ」仕事だったと思います。プロデューサーから直接誘われて受けたもので、テレビタレントとして活動していたわけではありません。「朝のお茶の間ではまったくの無名だが、深夜のネットのサブカル界隈ではちょっと知られている、若くてオタクな女性」という珍獣枠の選出で、主婦を中心とした視聴者層とは少し違う角度から物事を見ているキャラ、という役割期待だったと認識しています。「人前でライブで話す」というのは、「一人で文章を書く」とはまるで違う頭の使い方を求められるので、とてもよい勉強になりました。


それ以前の肩書きは「編集者」でした。2004年に新卒採用で中央公論新社という出版社に入社し、2012年まで8年半勤めていました。最初に配属されたのは雑誌『婦人公論』編集部で、ここでは主に巻頭特集の企画と、著名人のインタビュー記事を手がけていました。小説や漫画、カルチャー欄の連載担当もしましたし、サイトリニューアルや公式ブログ開設にも関わり、ライターさんと一緒にあちこち潜入取材してルポルタージュ記事を作ったこともあります。アダルトグッズ業界に取材を重ねたのが受けて、ローターやバイブやオナホールの読者プレゼント企画を打ったりもしていました。

次に配属されたのは単行本書籍を手がける編集部で、純文学から時代エンターテインメント小説、大型新聞連載から新人作家のデビュー作、エッセイや将棋の本まで、手を上げて会議を通せたものは何でも作りました。あるとき街の書店で新刊の陳列台を眺めながら、「この本の著者も、あの本の担当編集者も、その本の装幀家も、みんな顔見知り、ってすごいことだよな……」と思ったのをよく憶えています。狭くて深くて濃密で影響力絶大、「小説より奇なり」という言葉がぴったりの仕事です。最高に楽しいし、定年まで勤め上げる気まんまんだったのですが、東日本大震災の後、ほぼ同時期にさまざまな新しいお誘いを受けたことがきっかけで、転職を決めました。

「会社員として誰かと本を作りながら、個人として頼まれた原稿も書く」という二足のワラジの両立は、自分の能力的に到底不可能だろうと考えていたのですが、その後『オトコのカラダはキモチいい』を出したときに「著者兼編集者」という役回りで動いてみたところ、やっぱり自分はそのくらいの遊撃戦が一番向いているようにも思いました。少しは成長できたようで、達成感がありましたね。現在は心境が変化して、また別の職種で会社勤めをしてみたいという気持ちもあります。


社会人になる前は、学部と大学院あわせて6年間、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)で過ごしました。学位は「メディアデザイン修士」です。我ながらまるで意味不明ですが、それでも「環境情報学士」を英訳して説明するよりは通りがよいので助かります。今でこそ卒業者数も増えましたが、私は学部新設から数えて9期生で、最寄の湘南台駅は小田急江ノ島線の各駅停車しか止まらず、近所のコンビニがようやく24時間営業になったことに先輩たちが涙を流して喜んでいる時代でした。

学部2年時から佐藤雅彦研究室に所属して、表現とメディア、教育方法論などの研究をしていました。世間的に一番わかりやすいのは「NHKの教育番組『ピタゴラスイッチ』を制作し、ピタゴラ装置のビー玉を転がしていた」なんでしょうが、私が一番印象深いのは、携帯電話(i-mode)と新聞紙面を使った新しい社会調査プロジェクト『日本のスイッチ』の企画立案運営です。このプロジェクトは現在終了してサイトも閉鎖していますが、活動記録として単行本書籍が出ています。この際、「後世に何か残したいと思ったら、まだまだ物理的な紙の本が最強なのでは……?」と思ったのが、出版業界へ進んだ理由でした。卒業後の今も「考え方が生む表現」「作り方を作る」といった研究室の合言葉は、私の核になっていると思います。パーソンズに通っていると、外国人留学生のクラスメイトたちがよく「母国で通っていた学校とまるで違う……」とカルチャーショックを受けているのですが、私は「大学とはこういうものだ、教育とはこうあるべきだ」をはかる絶対的な基準値が佐藤研であって、おそらくは共通の背景にバウハウス・メソッドがあるためでしょう、そうした違和感は皆無でした。

家庭教師からバーテンダーからスーパーマーケットの野菜売りまでいろいろアルバイトを掛け持ちして、2001年以降は沼田元氣氏の編集アシスタントをしていました。当時いろいろな大人から「この人の下で働いてたら、どこでだってやっていけるよ……」と呆れ顔で言われた意味が、今はとてもよくわかります。初仕事は「真冬の真鶴海岸で石を拾う」でしたからね。本の編集校正作業から企画展示の裏方からカルチャースクールの司会から裁判での証言までやって、人生経験値が上がりました。芸術家の仕事を間近で眺めて「ああ、私自身はまるで芸術家タイプではないんだな」と実感できたのも大変よかったです。


そういえば最近、「インターネット歴」について尋ねられる機会も増えてきたので、手短に。大学生だった1998年頃からHTMLでホームページを制作し、ウェブ日記を書いたり、いわゆる二次創作同人サイトを作ったりしていました……globetown.netで(懐)。2002年にアカウントを開設した翌年から日記を「はてなダイアリー」へ移行。2005年3月にid:okadaicを取得してハンドルを統合、当時のブログタイトルは「帝都高速度少年少女!」といいます。仕事では婦人公論編集部ブログに新米としてコラムを書いていました。2007年5月からはTwitterへ軸足を移し、いくつかのアカウントの「中の人」もやりました。連投tweetのための「続)」、引用のための「(承前)」表記は私が元祖だと思います。以後は「Twitterの人」として認知されていて、フォロワー数こそ少ないですが、ずっと私の活動拠点です。

英語圏ではTwitterの代わりにInstagramで日記をつけていて、たまにMediumでも書いています。いろいろなサービスに手を出してきましたが、今も更新を続けているのはTumblrのラクガキ絵日記買い物の記録くらいです。いずれも不定期。

高校生のとき、NHKのテレビ番組『ソリトン』で世の中にはインターネットというものがあるらしいということを知り、是非それに触ってみたいと強く憧れたのですが、両親が機械に弱く、我が家にパソコン環境が導入されることはいっさい期待できませんでした。それで「インターネットに触れるには、インターネットが専門の学校へ行くしかない!」という理由で、進路志望を大きく変更してSFCへ進学した経緯があります。電気ガス水道と同じくらい常時接続が当たり前のインフラとなった今時の若者には信じられないかもしれませんが、私の少女時代にはインターネットは「蘭学に触れるには、長崎へ行くしかない!」と同じくらいの扱いだったのです。

「インターネット以前」の時代がもう少し長く続いていたら、私のような人間が本を書いてテレビに出るなんてことも、あるいは離れた場所でまったく別の人生を歩んでいる人といきなり結婚するなんてことも、起こり得なかったと思います。というよりも、私たちの人生に占める「インターネット以後」の時間がどんどん長くなるにつれ、「好きなように生きる」ハードルがみるみる下がっていった、私のような人間でも徐々にその恩恵を受けることができるようになった、というふうに感じています。10代の頃、私は将来、「まだ名前のついていない新しい職業」に就くことになるのだろう、と夢想していました。今もそれがいったい何なのかはわかっていませんが、求めに応じて複数の肩書きを書き連ねながら、同じ一本の線をなぞっていきたいと思います。


出身は東京都、東急電鉄沿線。父と母と2歳下の妹と10歳下の弟がいます。子供の頃の夢は考古学者か宇宙飛行士になることでした。今の夢は灯台守になることですが、有用無用を深く考えず世界とつながりながら孤独に続けられる仕事という意味で、割と似ていると思います。YMOと沢田研二を子守唄に育ち、7歳のとき萩尾望都『ポーの一族』を読んでいたく衝撃を受け、また9歳のとき連続幼女誘拐殺人事件の逮捕報道をきっかけにオタクが迫害されるようになり、あれやこれやを人生の天秤にかけた結果、「どんなにいじめられても好きなものを隠さずに生きていこう」という謎の執念を持つに至りました。小学生時分から今の言葉でいう「腐女子」的な性癖の持ち主でしたが、どちらかというと「隠さない」ということのほうが強いアイデンティティになって、そこの部分を露悪的にこじらせている気がします。

中学進学と同時に他校でいうところの「文芸部」に所属して、詩と小説を書いていました。高校1年生のとき部長を務め、部内誌の編集長になったのですが、編集長権限で「台割」(=目次構成)を切るのがあまりに楽しくて雑誌作りそのものに夢中になり、挙句、自分が書くべき原稿の締切を落とし、他の部員に細かすぎる指示を飛ばしてページの穴埋めにぴったりの原稿を書いてもらう、という体験をしています。当時の夢は現役女子高生作家としてデビューするか一度死んで緒川たまきに生まれ変わることだったのですが、のちのち編集者になった際、あれが人生の転機だったのかもしれない、と何度でも思い出します。専業作家になる子はそんなことしない。印刷所に発注してオフセット本を作り同人誌即売会に初めてサークル参加したのは中学2年生頃だったと思います。以来、この世に自費出版ほど楽しい趣味はないとさえ思っています。今も「久谷女子」というサークルに所属して、夏と冬のコミケで同人活動を続けています。

ちなみに「岡田育」はペンネームですが、本名は「育子」といいます。待望の初孫が生まれたとき、両親が結婚した街・紐育に因んだ「育子」(原料原産地表示)にするか、赤子が生まれた街・東京に因んだ「京子」(生産地表示)にするかで最後まで揉めたそうですが、めぐりめぐって「育」になりました。それで今、めぐりめぐってその子供がニューヨークに住んでいるのだから、やはり、人間の生命とその原料原産地との間には、何か不思議なパワーが働いているのでしょうね。以上、長い長い自己紹介でした。