Menu

okadaic.net

文筆家・岡田育、近況と日記。

2018-01-17 / 今日の2400字「孫と先生」

母方の祖母が永眠した。享年90。ずっと施設に入っていて、親戚が面倒を看ており、東京の母も定期的に様子を見に行っていた。最期は安らかに呼吸が止まり、大往生だったという。海を越えて危篤の報を聞くたびにヒヤヒヤしていたのだが、延命装置は不要だという強い強い意志は、ずっと以前から家族みんなが聞いていたことだ。「その時が来たのだ」というふうに受け止めた。本人の気持ちはもう確かめようがないのだし、看取った家族の側が「大往生」だと言うのなら、それはもう、そうなのだと思う。

夫にあたる、母方の祖父は彼女が在宅で看取った。大学の長期休暇で暇にしていた私もその付き添いをして、葬儀の後始末まで関わった。意思疎通もままならず、普段ポーカーフェイスだったのが見たこともないほど苦痛に顔を歪める、痛ましい姿も晒していたが、それでもやっぱり、看取った側、遺された側からすれば、最後の最期は穏やかな畳の上の「大往生」だった。話を聞く限り、同じようなことが祖母にも起きたのだろう。夫について「あれは理想的な亡(の)うなり方をしたんや」と言った、彼女の理想も同じように叶ったのだろう。

日本帰国予定に間に合ってほしいと祈っていたが、ほんの数日違いで早くに亡くなって、ぱたぱたと家族葬が済んでしまった。母方の祖父母は共働きの教員カップルで、地元一の進学校で教えていた祖父が亡くなったときは、地元の名士and/or歴代の教え子がぞろぞろ参列する大規模な葬儀が執り行われた。高校時代に祖父の教え子だった人の大半が、中学時代には喪主である祖母の教え子でもあった、というような関係性で、思い出話に花が咲き、挨拶の列はずっと途切れなかった。あれから20年近く経ち、祖母の葬儀は身内だけでごくごく小さく済ませたそうで、孫の私が花を届けることさえ遠慮するようにと言われた。その非対称性に物申したい気持ちもあるが、まぁ、祖父らしいし祖母らしいし田舎らしい。

数年前に結婚相手を見せに行ったのが、結果的に最後の別れとなったか。直接対面してのち、昔のアルバムなどめくった夫は、祖母の姿を見て「び、美人……!!!」と絶句していた。そう、若き日の祖母は容姿端麗、頭脳明晰、女学校出の家庭科教師で、書家でもあり、茶道も華道もピアノも堪能、辺鄙な田舎では文字通りマドンナ的存在、嫁入りしたときは祖父の兄弟含めて多くの妙齢男子が失恋に涙を呑んだ……そうなのだが、孫である私の印象とはずいぶん違う。ばりばりの関西人で、生粋のボケであり切れ味鋭いツッコミであり、親戚一同が集まると祖母の自虐ネタでひとしきり爆笑が起きた後に必ず「黙っていれば楚々とした美人に見えるのに、中身がね……」という話になる、いわゆる「残念な美人」だ。「……だが、そのギャップがいい!(萌)」という信奉者もいて、夫のオットー氏(仮名)も、すっかりそんな様子だった。

教員だから子供の指導は上手い。サボる奴とデキない奴には、情け容赦なく冷酷である。幼い頃、私は祖父から国語や地理や歴史や生物の手ほどきを受け、そちらは得意分野だったのでずいぶん褒められて可愛がられた。一方、祖母が担当するのは書道であり裁縫や料理であり、ピアノであり茶の湯である。全部苦手。一通り教わって所作を真似するのだが、普段ニコニコと初孫を甘やかし面白い冗談ばかり飛ばしている祖母が、こと専門分野となると朱筆などを手にギロリと目を光らせ、「……こら、あかんな」と一瞥で匙を投げ、「あんた、真面目にやり」と呆れ声を出すのが、その豹変ぶりが、私は大層怖かったものだ。大好きなミュージカル女優の新妻聖子様が、あの美貌にあの娯楽性を兼ね備えた上で、歌が上手いですねと褒められたとき「死ぬ気で歌えば一音だって外すはずがないですよねー!」とケタケタ笑うお姿などを見ると、ふと祖母(顔だけなら知念里奈似)を思い出したりする。

傍目には夫唱婦随の旧時代的なカップルで、しかし我々家族の目に映る姿は、ずいぶん進歩的で対等な男女だった。いかにも偏屈そうで亭主関白的に振る舞う祖父の横で、ヘラヘラ笑って王様に対する道化のように対外的な嫁プレイを楽しんでいるのも、完璧主義者ゆえの見事な演技か何かのように見えていた。祖母世代の超人的なバイタリティ、世界大戦を生き延びて教養を資産とし田舎の旧弊な家父長制の下では完璧にハイスコアを叩き出す良妻賢母業をこなしつつ職業婦人としてもサバイヴしてきた、あの「学のある女、なめんなよ」という音もなく静かに紅い熾火のような迫力は、なんとも形容しがたいし、フェミニズムという横文字の言葉では表現し尽くせない。さして努力せずともそこそこに恵まれた時代をスイスイ生きる孫の私は、我が身に照らして「……あかんな」と思うばかりであった。

子供の頃から母に倣って「みえこさん」と名前で呼んでいて、「おばあちゃん」という、どこか人をスポイルさせる響きを持った甘ったるい呼称とは、うまく結びつかない。私にとって母方の祖父母はずっと、一番身近なところにいる「先生」だった。すぐ到達できないのは仕方ないけど一応あのくらい高めに目標設定しておきなさいね、という位置にいる存在。日本帰国の直前、家族葬の写真が送られてきて、祖父の葬式のときにはまだ一人もいなかった小さな曾孫たちがうじゃうじゃうじゃうじゃ、画面狭しと暴れまくっていた。彼らには「ひいおばあちゃん」の記憶はほとんどないだろう。現世でのお別れをした後にでも、語り継ぐべきことはまだまだたくさんある。

さてこれで私にとって父方と母方の祖父母がすべていなくなったことになる。彼らにとっての長男長女である我が両親は、「次は自分たちの番だな」と話していた。その次は、私だ。そういえば、マイナビニュース連載「女の節目」にも、ちょっと祖母のことを書いた。ゆっくりと、順番に。
https://news.mynavi.jp/article/onnanofushime-27/

2018-01-16 / 日記を読み返す

 2017年の正月は自己紹介を書いて過ごしたけれど、2018年の正月はこれからの仕事について考えるマイアミ休暇。仕事始めと同時に新しい連載が始まり、慌ててサイトをリニューアルする。といっても、長くご覧になっている方は「レイアウトを元に戻しただけじゃないか」とお気づきでしょうね。

 大学生のHTML日記から始まったこのサイト、ドメインをあちこち移りながら、途中で創作発表の場になったり、新社会人になると同時に凍結したり、上司に内緒でまたこっそり再開したりして、文筆家を名乗るようになってからは仕事の記録と宣伝のために使い、英語版と合体させようとしたり分離させようとしたり、紆余曲折の末、さすがに最近の目まぐるしさに到底維持できなくなってきたので、また更新を省力化する方向に決めた。仕事用の連絡先を貼り付けたプロフィール欄の下に仕事一覧へのリンクをつけて、あとはほとんど日記として使います。懸案だったタグのリンク切れも原因見つけて直したよ! 半年に一回くらいなら真面目にソースコードを読み解くのも楽しい。

 そういえば、と久しぶりに「はてなダイアリー」でつけていた日記の管理画面を覗きに行ったら、なんと2010年に更新を停止したにもかかわらず、2018年の1月半ばすなわち今日この日まで、せっせとTweetを吐き出していた。今まですっかり存在を忘れていたというのに、機械ってなんていじらしいんだろう……栗まんじゅう……(感嘆詞)、と驚き呆れつつ、連携を無効にしてポチポチ削除する。今から10年近く前、いつTwitterのログが見られなくなってもおかしくない、と心配して、同時に二箇所も三箇所もバックアップを取っていた時期があった。そのためだけにはてなグループに所属していたりもしたのだ。ところがこのダイアリー管理画面、50件ずつくらいの一覧が60ページ以上あるのに「一括削除」チェックボックスがないのでキレた。このクソ忙しいのにやってられっか、どこかの休みに刀剣乱舞プレイしながらタカラヅカ動画を観るついでに洗濯物をたたみつつ手動で消すよ。株式会社はてな君、もうダイアリーの管理機能の改善なんて仕事だと思ってないんだろうな。

 Twitterと関係無く書いた日記は面白いのでそのうちこちらへ転載するつもりでいる。Twitterがなかった頃の日記は、まだ見ぬ140字縛りの枠組みを探し求めて彷徨う、未完成の詩のようである。泣けるケータイ小説なんか一つも読んでなかったのに、多用される改行に時代を感じる。そのさらに前はどうなっているんだ、とmixi日記のログも読み返したのだが、つまらなかった……。目の前の仕事が面白くて面白くてたまらない上にストレスや愚痴もたまるけど到底書けない、そんな時期の日記は、反比例して底が浅くなる。コメント欄でもびっくりするほどつまらないやりとりが続いていて、私の友達にこんなくだらない人間いただろうか、と思って見たら名前の表記が「退会したユーザーさん」になっていたりする。おそらくは同世代、みんな自分のことで手いっぱいだったのだろう、と思うことにする。そんな若き日の思い出を「ランウェイウォーカーズ」で書きました。「何でもいいから好きに書いてくれ」という編集部依頼に困り果てて(でも最近そういうの多いですね、考えようによっては有難いのだが)、「就職と転職とフリーランス」についてのふわっとした読み物にしています。談話原稿やゴーストライティング以外に、書き言葉として「デスマス調」を使って提出したのは初めてだと思う。

 もっと前のログもあるぞ、と思って見た19歳の日記には、こんなことが書いてあった。何が起きていた頃かはまったく思い出せないが、彼氏と喧嘩でもしてたんですかね……。

 けじめという言葉がキライである。けじめというものはつけようと思ったら全てのモノにつけなければならない。私のような真面目な人間にとってはときに非常に苦痛である。そう気づいてから、例えば人間関係なんかに、けじめをつけるのをやめた。
 明確な定義が存在しないのに、そしてそれを定義しようとも考えずに、ひとは「親友」だの「恋人」だのという言葉を使いたがる。それが私のような真面目な人間にとってはとても許せないことに思える。私が想うほどには私を想ってくれていない人間に散々裏切られた挙げ句「私たち親友だよね!」と言われたり。その感情に「恋人」という呼称が相応しくないと思う旨を伝えただけで、大好きな人間と友人関係にさえ戻れなくなってしまったり。そんなことはもうごめんだ。(後略)(1999.03.21)

 約20年経っても人前で似たようなことを書き晒している、俺って本当に昔から変わっていないな! というわけで、「大手小町」という媒体では「40歳までにコレをやめる」という連載が始まりました。けじめ、つけるの、やめていきたい。これは以前「cakes」で深澤真紀さんと対談した際、「人生がときめくオタクの自己啓発本を書き下ろせというお題が来ていて、こればっかりは、どうしても筆が進まないんです!」と泣きついたあの企画です。とうとう始まってしまった。このタイトルを掲げてしまうと「40歳までに本にする」ことができないとカッコ悪いので、いろいろ切り捨てながら覚悟を決めて書き続けたいと思います。

 年頭所感にしては遅すぎるんだけど、マイアミでの様子は Instagram にて。美大同窓生のデザイナーの友達から、「Ikuは最近ずーーーーーっと旅先で遊び歩いてるみたいだけど、フルタイム勤務じゃなかったの? 仕事する気あるなら回すよ?」と発破をかけられてしまい、「お仕事ください!!」と泣きついたところです。数日の旅程を数週間かけて開陳するとずっと長逗留しているように見せられる。カワイイも、インスタ映えも、こうして無から作れていく。そんなふうに体感できるだけでも、自分で新しいサービスをいじってみる価値はあるのだ。それはさておき、楽しかったので思い出も書き留めておきたいな。

岡田育 | Iku Okada | a.k.a. @okadaic   

文筆家。1980年東京都生まれ。出版社で婦人雑誌と文芸書籍の編集に携わり、退社後にエッセイの執筆を始める。著書に『ハジの多い人生』(新書館)、『嫁へ行くつもりじゃなかった』(大和書房)、二村ヒトシ・金田淳子との共著『オトコのカラダはキモチいい』(角川文庫)。最新刊は『天国飯と地獄耳』(キノブックス)。2015年夏より米国ニューヨーク在住。刊行物に関するご質問は出版社等へ、お仕事のご依頼は okadaic [at] heikinritsu.com へ、省力化のためご依頼の詳細を明記した企画概要を添付していただけると助かります。その他の経路(SNS等)によるご連絡につきましては、お返事が大幅に遅れる場合がございます。
Iku Okada (岡田育) is an Artist, Writer and Designer. Born and raised in Tokyo, her work experience started as a full-time editor at a publishing house for magazines and books. Then she has authored several books. Moved to US since 2015, Graphic Arts became her second language. See also her [ Design Portfolio ]. Living in Lower Manhattan, always blogging on [ Instagram ], and sometimes writing in English on [ Medium ]. Please feel free to [ CONTACT ] directly if you’re interested in. For inquiries or information of the books will be answered by each of publishing houses.

what’s new

2018-01-17 Sticky

2018-01-07 / 冬の日のマイアミ

もう一ヶ月以上も前のことになってしまうが、正月休暇、マイアミへ行ってきた。フロリダ州へ足を踏み入れるのは生まれて初めてで、前知識は小室哲哉の「South Beach Walk」と小沢健二の「涙は透明な血なのか?(サメが来ないうちに)」しかない。なみ、なみ、と振り付けの思い出し稽古をしながら、外気温氷点下が続くニューヨークでクローゼットの奥から夏服を引っ張り出してきて荷造りをする。こんなことならオーバーサイズのトレンチコートとか白いデッキシューズとか持っておくんだったわ。

そもそも「寒い冬のニューヨークを、どんなふうにしてしのいでいるんですか?」と訊いて、ロングジョンの重要性とかセーターのあるべき厚みとかおすすめの雪靴とかの情報が得られると思っていたのに「……マイアミ?」と返されたのが、渡米直前の夏のこと。最初が小沢さんで、他に「わいもわいも」という話を聞き続け、日本の芸能人が正月ハワイへ行くのと同じかそれ以上の規模で、真冬のニューヨークからマイアミへの民族大移動が起きていることを知った。そして三度目の冬、女友達から「LAかマイアミ、どっちか行こう」と誘われて、「行ったことないから、マイアミ!」と即答したわけだ。なお、もともとは女子三人旅の予定が二人旅になったのは、もう一人が「去年もまったく同じ日程で行ったから、私はパスだわ〜」と言ったから。みんな、どんだけマイアミ行ってんねんな。

元旦は初詣の代わりにセントラル・パークへ散歩に行って、池が凍りついている中を寒い寒いと大騒ぎしながら10分くらいで切り上げて帰ってきた。翌2日、朝5時半にマイナス15度の玄関先からUberでラガーディア空港へ。手荷物の中にペットボトルの水をぶちまけるなどのアクシデントに見舞われつつも、折りたたみ可能なダウンコートを早々に片付けてしまい、ぴょいと飛んで昼前には到着、マイアミ空港で気温を見たら15度。これは最高だなー、と宿へ向かうと、雨が……降ってきたね……。一天俄かにかき曇り、降りると空気が肌寒い。体感気温は明らかに10度切ってる。タクシー運転手から「マイアミは初めてか? それは気の毒だ、いいかい、例年のマイアミはこんなじゃないからね!」と慰められる。この慰めの言葉、その後、滞在中ほとんどすべてのタクシー運転手から聞くことになる。

宿は「VINTRO」という小さなホテルで、15時になるまでチェックインさせてもらえない。ブーツをスニーカーに履き替えてウィンドブレーカーを羽織り、荷物を預けて周辺散策する。小降りになったところで近所にある植物園を目指してみたのだが、ちょっと気を緩ませると熱帯風の横殴りの雨がまたブワーと行く手を阻むので、とてもじゃないが庭園散歩という天気ではない。近所の屋根付き駐車場などに緊急避難しながら、「Moreno’s Cuba」でキューバンサンドイッチの昼食。あとは部屋でまったりしていた。夕方、今回の旅の友であるSayaさん到着。「Sand by Saya」というサンダルブランドのオーナー兼デザイナー。ほぼ同時刻に現地入りするはずが、JFK空港で足止め食らって大変だったようだ。着替えて「Bodega Taqueria y Tequila」行ってトイレ奥のバーで飲んで「CEVICHE105」にハシゴして、隣の席に座ったブラジル人一家のかわいい女児をいじったりして、水と朝ごはん買って帰って、よく眠る。

二日目の3日、私はいきなり体調崩してダウン、昼過ぎまでSayaさんと別行動にしてよく眠る。ビーチの様子を見に行ったんだがやっぱり天候は芳しくない。これはハズレの年に来ちゃったかなー、と思いつつも、曇天の下にそびえ立つ白亜のビーチサイドホテル群は、それはそれで趣がある。1930年代当時から変わらぬ光景でありながらやっぱりちょっと寂れてしまった雰囲気もあり、でもまだ廃墟のようになっているわけでもなく現役バリバリ。外壁は塩害でヨレてるんだけど内装はドン引きするほど絢爛豪華だったりして。「今、一周回って熱海がアツい」みたいな、名状しがたい憩える雰囲気があった。そもそもアール・デコ様式の建築群が「クラシック」と呼ばれてしまうのはこの国の歴史がどれだけ浅いかという話でもある。「基本的に観光地だから、中心地はダサいものごとが大半だけど、それでもやっぱり、イイよ」と薦めてくれた人々の言わんとすることがよくわかる。

リンカーンロード界隈でちょっと買い物、外は大嵐の様相。吹き付ける雨が冷たくて手足が痺れる。トイレを借りにメイシーズに入ると暖房が効いている。撮影のための下見をしていたSayaさんと合流しようにも、「視界不明瞭でワンブロックも歩けない」と電話が入る。マイアミ初体験の私は、沖縄でスコールに遭ったようなもんだと楽観して「ずぶ濡れだねー!www」と笑っていたのだが、何度も遊びに来たことのある彼女がすっかり真顔に返って「こんなのは初めてだ」「物とか飛んで来たら怪我するから出歩かないほうがいい、予定変更しよう」と言うので事の重大さを思い知る。よくよく見ると、舗道脇に植わったヤシの木が激しくしなって巨大な枝がもげていたりするし、信号のない車道でタイヤをとられた自家用車がスリップしながら歩行者スレスレのところで急停止したりしている。台風慣れした沖縄ならそのあたりの被害対策ちゃんとしてるだろうけど、ここ、アメリカだからな……飛来する凶器に当たって死んでも自己責任とか言われかねない。

とにかく暴れ狂う海風から少しでも遠くへ、というわけでLyft呼んでダウンタウンへ。名前を失念したイタリアンで昼酒。地元の人々がビジネスランチしてる一方でほどよく観光客仕様でもあり、パスタが美味しかった。この界隈は昔は大層治安が悪かったそうだがすっかりジェントリフィケーションされている。歴史的景観保存地区になっているサウスビーチと違って新築高層ビルがにょきにょき立ち、かと思えば広大な空き地やシャッター通りもあり、なんか都市博が流れた直後のお台場みたいだなという感想(なんでも日本に変換するのよくない)。ウィンウッドへ向かうべく相乗りのLyftを呼ぶと、道すがら大柄な男性を拾い上げた、彼もニューヨークから来ているアーティストだという。名刺をもらって雑談しながら見所など教えてもらう。このLyftの相乗りがとにかく安くて、その後も使い倒した。狭い街だからどんな客でもだいたい目的地が近く、別の客を拾うために迂回することが極端に少ないため、ニューヨーク市内よりずっとお得な感じがする。

さて、アートディストリクトとして栄えているウィンウッドは、たしかにオシャレで賑わっているのだけど、一言で言うと「あ、ブルックリンだね……」という感じ。今きっと、全米のちょっとした都市部の、あらゆる土地の余った郊外に、こうやって、旧時代的な旧市街にはまるでないカルチャーを新しく作り出そうと、ヒップなムーブメントが起きているのであろうね、と、そういう感想。地元の人たちは口々に「サウスビーチとかリトルハバナなんてイケてないよ、ウィンウッド行きなよー!」と言うのだけど、ニューヨークから来ると「あっはい、コレね、把握」といった気分にもなる、正直。とはいえ、グラフィティで埋め尽くされたウォールを堪能し、あちこちのアートギャラリーでちょっとイイけどもだいぶ既視感がありしかも法外な値段の付いている作品を指差して「ビジネスビジネス!」と野次を飛ばし、セレクトショップで高い買い物したくなるのをグッとこらえ、意識高い感じのアイスクリーム屋やコーヒーショップを尻目に、ちょっと離れたところにある醸造所で地ビールを飲む。平日16時台に満席。こんな土地柄でまともに働ける気がしない。

またLyftでピャッと「SUGARCANE」まで行ってバーカウンターでハッピーアワーを堪能して帰る。モヒートでシシトウと巻き寿司を食べる不思議、もう慣れた。隣のカップルがファースト・ブラインド・デートという様相だったのだが、ボタンダウンシャツを着た大学講師風の真面目な白人メガネ男子と、気合い入れまくった露出高めのブラックドレスを着たラテン系イケイケ女子とで、あんまり釣り合っていない。私が男のほうを40代前半くらいと見立てたら、在住長いSayaさんから「全ッ然わかってないね! あれは下手すると50代後半だよー!」と笑われる。白人男性の年齢を見分けるの本当に難しい。

三日目の4日、この日も朝は別行動にして、ジョギングでビーチへ行ったSayaさんと別れ、近所のダイナーで朝食。ホテル街のごはんは美味しくない上に高価い、というのを痛感する。宿泊先、部屋はかわいいんだけど水回りの配管がよろしくなく、起きたらバスルームが水浸しだとか頭洗ってる最中にお湯が水になるとか、トラブルもある。技術者を呼びつけて文句言っても「君たちがチェックアウトするまで工事できないよ」という調子で、安いだけあるなー。きっと全宿泊客に言い続けて何年も修理していないのだろう。で、徒歩圏にあるWホテルのプールサイドへiPadを持ち込んで原稿書き。ここは一応、宿泊客専用なのだけど、うまいことモニョモニョ言ったら普通に通されてしまった。空いている時間帯ならお目こぼしにあずかれるのかもしれない。Wifiも飛んでるし、「The Dutch」は朝食時間帯コーヒー無料だし、さすがWホテルですね、フリーライダーに甘い。細かいことを気にしない豊かさを感じる。乗っかっていきたい。いろいろなインスタグラマーたちがプールサイドでもロビーでもどこでもガンガンにそれっぽいインスタ映えする写真を撮っていたけど、あいつら私と一緒で、一銭も払わずにラグジュアリーな旅してるフリしてるだけですからね、本当にチャッカリしてるよね、あーもう二度と騙されないぞ貴様らには。という記念写真がこちらです。

昼はキューバ料理の人気店「Puerto Sagua」でランチ。定食屋という雰囲気で、恵比寿の「こづち」など思い出す、本当にあそこのキューバ版という感じだ。カウンターでオックステールシチューとローストチキンを分け、軽く周辺のファッションブティックを流し見る。別行動のSayaさんが何をしているかというと、「Sand By Saya」の新作カタログのための撮影準備なのだった。大量の新作サンプルを運び込み、着いて早々に現地でオーディションとテストショットをしてモデルと契約し、遊ぶ合間に彼女のサイズに見合った洋服を選んで買い揃え、小物のスタイリングとロケーションハンティングまで終えている。当初「私が全部一人でやるから、あなたは遊んでて!」と宣言されていたのだが、事前準備を見るだけで相当に大掛かりなシューティングであり、カメラマン兼ディレクター兼スタイリストがたった一人では、荷物持ちさえままならない様子。下手すると日が暮れても合流できない可能性がある。こちらもだいぶ遠慮が無くなってきて、「いやー、雑誌編集者としての経験上、言わせてもらうと、悪いけどこれ絶対に半日で終わりっこないよ。私も手伝うから、とっとと終えて、早いとこ飲みに行こうぜ!」という話になる。あとは当日、晴れることを祈るばかり。

夜はこれまた徒歩圏の「Sweet Liberty」でワカモレ食べてハッピーアワー、三歩歩くと注文忘れるかわい子ちゃんウエイトレスに「ああいうのが男ウケすんだよな」と悪態をつきつつ(でも本当にかわいかった)、Lyftでピャッと「Garcia’s Seafood Grille」。この二箇所、どちらもyelpで評判を調べて行ったのだが、大正解だった。「Garcia’s」では奥の大テーブルで大家族のおばあちゃんの誕生日パーティーが開催されていて、白装束ソンブレロ楽団がドンチャカやってて賑やか。一方こちらは、やっぱり旅行で来ているという隣席の60代の黒人女性二人組と異様に盛り上がる。向こうから積極的にガンガン話しかけてきて、お孫ちゃん自慢からスキンケア相談から恋愛遍歴披露まで、最後ちょっとスピリチュアルっていうのかジュビリーっていうのか、「あたしたち、女、どこへ行っても傷だらけ、でも、どっこい生きてる、愛の力!」「ほんとだよ姐さん!」「わかるかシスター!」って感じで得も言われぬエモの祝祭、魂の大合唱みたいな状態に。普段、夫と男女二人で旅行しているときには、絶対こんなふうに盛り上がることは、ないわけです。酒と泪と女と女と女と女、男抜き女子二人旅のケミストリーの二乗、どんな男からナンパされるより「ここまで来てよかった」感が強い夜であった。途中まで丁寧に接客してくれていた初老の男性バーテンダーが途中から我々にいっさい話しかけなくなり、接客も放棄し、閉店間際に最後の客になったべろんべろんの私たちに「早く帰れ」ジェスチャーをした。推して知るべし。

四日目の5日、天候に恵まれて、朝から撮影。できあがりの写真は順次「Sand By Saya」のInstagramに上がるのではないだろうか。私って本当に「雑用係のプロ」だなぁ、と思った。去年のCM撮影現場でも感じましたけども、ええはい、自慢じゃないけど、ディレクターをやるよりアシスタントをやるほうがイキイキしているというか、せせこましい小回り得意だなっていうか、どこまで行っても悲しいくらい「美は細部に宿る」「かゆいところに手がとどく」担当だよな、と……。いや、いいんですけどね。『オトコのカラダはキモチいい』文庫化のときだって、著者なのになぜか嬉々として赤字整理とかやってたもんね。私くらい有能で気のつくアシスタントが私自身についていてくれたら、今頃どんなビッグプロジェクトでもこなせていたはずだと思いつつ、自分で自分のアシスタントをすることはできないので、自分自身のなすべき個人プロジェクトが暗礁に乗り上げて停滞してしまうのだ、ということも、大変よくわかった。というか、単身渡米してゼロから成功をおさめた有能な会社経営者であるSayaさんと連日連夜飲み明かしながら、自分にもできるはずのことと、自分に圧倒的に足りていないもの、今すぐマネタイズできることと、これから獲得せねばならないことを、たくさん教わるマイアミ旅行でしたよ。ありがとう。おつかれさまでした。

で、予定より一時間も早く全撮影がつつがなく終了し、「一杯奢らせてー!!」「おま、次からはちゃんと請求書起こしてカネ取るからなー!!」とワイワイやりながら、二軒目のホテル「Julia」へ移動、ホットチョコレート飲んで、ビーチに出てホテル提携のデッキチェア借りてまったりして、またホテル戻ってハッピーアワー(チェックイン業務を終えた後のフロントカウンターでワインとチーズと軽食が無料で振る舞われる)を堪能し、エスパニョーラウェイの「Tapas & Tintos」へ。適当に済ませてハシゴしようと言っていたのに、接客係のおねえさんが美人なのと、フラメンコ生演奏のクオリティが観光客向けとは思えないほど高かったのと(ニューヨークの店はしょぼいのが多い)、周囲の客たちとも盛り上がってしまったのとで、相当長居した。疲れているのもあったと思う、踊りながら宿へ戻り、ぐっすり快眠。

五日目の6日、やっぱり天候は思わしくなく、5日に撮影を済ませてよかったよね、と言いながら、スタイリング小物の返却などしてから、キューバ亡命移民の街・リトルハバナへ。繁華街の中心に1935年開業の老舗「Ball&Chain」があり、名だたる有名ミュージシャンがライブをしてきた歴史を誇り、観光バスツアーの団体客などが乗りつけている。ちょっと思っていたのと違ったかなー、と話しつつも、雨もひどいので隠れ家的な穴場を探してうろつくわけにもいかず、一番ベタなこの店でテーブル席を確保できたのを上出来として、14時からモヒートで乾杯。最後の最後まで天気に振り回されてしまった。とはいえ、ここのハコバンも若手のリズム隊にバックグラウンド演奏を任せてワルい感じのやんちゃなおじいちゃんフロントメンズが自由奔放に暴れまくるという最高に楽しい楽団で、さすが街の中心になるだけある。観光客向けのパフォーマンスはもちろんなのだが、客として来ている人たちの一部も異様にダンスが上手く、踊らにゃ損損、という雰囲気がとてもよかった。風采上がらない普通のおじさんでも、音楽かかるとぱっとサルサ踊れる、それだけでめちゃくちゃセクシーに見えますね、やっぱり。途中、客として来ていたダウン症の子が楽器を渡されてセッションが始まり、おじいちゃんたちにぐりぐりかわいがられながらその場でリズム習得してあっという間に白熱セッション、めちゃくちゃエキサイトしたのもよかった。で、結局フライトの時間ギリギリまで、まったり過ごしてしまった。最終日にふさわしいチルアウト。

Lyft相乗りで、おばあちゃんと孫娘と一緒になったのはこのときだったかな。栄えているけど電車網はなくて、ないならないで困らないんだけど、車を運転するほどでもない、という小さな市街地のなか、夕飯の買い出しをしたショッピングバッグ抱えた地元の女性なんかが、歩くにはちょっと遠い程度の距離を2ドル3ドル払ってLyftを使っている。目新しい光景だった。ニューヨーク市内だったらとりあえず地下鉄乗っちゃったり、または本当に急ぎならまどろっこしいから直行のタクシーを呼んでしまうところだが、マイアミは時間がゆったり流れているし、目的地もだいたい同じだから、「生活の足」としても乗合が効率がいい。そういう街での低価格競争なら、そりゃあLyftが勝つだろう。日常的にタクシーを使う彼らが乗り合わせるのは、私たちみたいな、よそから来てお金を落とす観光客。判で捺したようにおすすめの店を訊かれるから、みんな判で捺したように同じ流行りの店(CEVICHE105とか)を教える。ドライバーにもスペイン語話者が多くて、キューバ系二世三世とか、あるいは現政権になってベネズエラから逃げてきたなんて人までいた。男は口数少なく、女はおしゃべり。おばあちゃんと孫娘は乗り合わせた私たちアジア人とはきっぱり会話しようとしなかったけど、女性ドライバーはしょっちゅう呼んでる顔見知りのようで、スペイン語で話しているけど、孫娘との会話はフランス語だったような? キチキチに編み込んだドレッドの孫娘のほうは幼稚園児くらいか、黒い肌に似合うピンクのドレスで着飾って人形を抱え、英語の会話も耳では聴いていて、私の調光サングラスの色が変わるのを、こっそりじっと見つめていた。彼女はアメリカでどんなふうに育つのだろう。

ところで我々がマイアミ入りした2日から4日あたりまで、ニューヨークでは大寒波の大雪で大変な騒ぎになっていたのですね。正月休みでマイアミに来ていたニューヨーカーのうち、JFK空港発着の復路便を取っていた人々は大打撃を受けたようで、友人は3泊の滞在予定の後に欠航振替待ちで4連泊の延泊を余儀なくされたとか。フロリダ州北部で30年ぶりに積雪があったというのも大きなニュースになっていて、そりゃあマイアミでも冷たい冬の雨が降りもするわ、という話。とにかく飛行機に乗れなくなるのだけは勘弁してほしい、というわけで神経質なくらい定刻通りに空港入り。我々の便は無事に飛ぶようだと安心していたら、なんと「座席故障」という天候まったく関係ないトラブルのために足止めをくらい(関係ないけど私の真後ろの席だった!)、修理のためいったん搭乗した機内から降ろされて待たされたりして、一時間半遅れで出発。LGA空港に到着する頃には深夜も深夜、雪が降りしきるなか、タクシー相乗りする気力も失せてSayaさんとも現地解散、日付変わって1時か2時くらいに帰宅してそこからぐったり倒れるように爆睡してしまった。

ま、楽しい休暇でした。旅支度をしている頃にはマイアミの気温は日中28度とかだったので、浮かれてアホみたいに薄い真夏仕様のサマードレスなど詰め込んで行ったのだけど、もちろん一度も着なかった。真冬から真夏へ旅するつもりでいたけれど、10度前後を上下して20度を超えることはない「春先」くらいの涼しさ。加えて熱帯風だけどしっかり体温を奪う雨にあおられまくり、日向はたしかに暑いくらいだが木陰や海辺へ行くと震えが走る、という調子で、ずっとセーター着ていたな。市街地の観光はだいぶこなしたと思うが、アクティビティはほとんど楽しめなかったので、もっと天気のいいときに再訪したいと思います。

#cruising #cruise #departure 🚢 . 「船が出て行くよー♪」 #神よ祝福を与えん #縮尺がおかしい #豪華客船 . . #miami #travelgram #instatravel #streetphotography #streetshot #streetshots #florida #miamibeach #southbeach #southbeachwalk #冬の日のマイアミ #旅

A post shared by Iku Okada (@okadaic) on